第2話 この世界の法則
牢獄から逃げ出すまでに、どのくらいの時間が経ったのか、俺には判らなかった。
目覚めた時から始まった鮮烈な違和感は、体の麻痺とともに徐々に消えていった。石造りの牢の壁を何度も爪が割れるほど引っ掻き、絶望的な力で叩きつけた。馬鹿げていた。何の役にも立たない抵抗だった。だが、やらずにはいられなかった。
異世界だの、記憶喪失だの、そんな現実を受け入れるはずがない。
しかし、何もかもが容赦なく現実だった。
扉が開く日が訪れたのは、おそらく三日目のことだった。栄養状態の悪い粥を口に流し込む時間か、用便のためかのいずれかだった。その隙間に、俺は飛び出した。
警備の男の肋骨に肩を叩き付け、女性使用人の手から托盤を奪い、無我夢中で走った。館の廊下は迷路のようで、何度も折れ曲がった。背後から怒号が響き、足音が迫る。だが、牢獄で消耗した体は、それ以上の動きができなかった。
最後は、一つの小さな窓から飛び降りた。二階からの落下だった。着地に失敗して左足首を捻った。痛みが脳天を貫いたが、立ち上がった。走った。走り続けた。
夜間の逃亡だったから、追っ手も限定的だったのだろう。やがて、館の灯りは視界から消えた。
辿り着いた村は、静寂に包まれていた。
月明かりの下、木製の柱で建てられた家々が並んでいる。規模は小さく、人口は数百人程度だろう。牧場があり、畑がある。奴隷から逃げ出した一人の男を追跡する価値があるとは思えない辺境ぶりだ。
俺は村外れの納屋に身を隠した。干し草の臭いと、農耕具の錆びた音。不思議と、これらは落ち着きをもたらした。少なくとも、牢獄よりはマシだ。
夜明けが来た。
太陽が昇ると、村人たちが動き始めた。俺は納屋の隙間から、彼らの行動を観察することにした。男たちは畑へ向かい、女たちは井戸へ向かう。子どもたちは、これといった仕事もせず遊んでいる。素朴で、平穏だ。
昼間になると、俺の腹が鳴った。
逃げ出してから何も食べていない。左足首も腫れ上がっており、歩行は困難だ。このままでは、脱水と飢えで死ぬ。現実的な判断が、潜んでいた納屋を出ることを強要した。
村人たちは、最初、俺を見かけると警戒した。だが、脅威ではないことがわかると、妙に親切になった。一人の老婆が、ぼろぼろの服を着た俺を見ると、黙って小麦粉のパンを寄こした。水も飲ませた。
「ありがとう」
俺は、言葉に詰まった。感謝というものを、いつ以来言っていないのか思い出せない。
「逃げてきたんじゃろ」
老婆は、言った。
「逃げてきた、というより、逃げ出してきた」
「同じ意味じゃ」
老婆は、笑った。皺が深い顔は、不思議と温かみがあった。
「あんたは何から逃げてきたんじゃ?」
「知らん」
俺は、正直に答えた。
「前の記憶がない。目覚めた時は、牢に閉じ込められていた」
老婆の笑顔が、少し堅くなった。
「牢? つまり、あんたは」
「奴隷だ」
老婆は、一瞬、息を呑んだ。その後、表情を戻して、パンをもう一つ渡した。
「そうか。それなら、ここにいてはいかん」
「?」
「あんたのような者が、うちらの村に長居すれば、領主から難癖をつけられる。うちらだって、そんな面倒は御免じゃ。悪いが、あしたの朝には去ってくれ」
俺は、頷いた。同じ立場なら、同じ判断をしただろう。
その夜、村人たちの会話を盗み聞きした。
村の中心にある酒場のような建物から、声が聞こえた。仕事を終えた男たちが、粗製の酒を飲みながら、談笑していたのだ。
「なあ、今日の商人の話、聞いたか?」
「いや、何だ?」
「帝国の西部で、奴隷商人ギルドが大きな商売をしているらしい。価格が安いから、貴族たちが大量に買い付けているって」
俺の耳が、ピク、と反応した。
「奴隷商人? 何だ、そりゃ」
「人間を買い売りする商人じゃ。戦争で捕虜になった者、借金で身を売った者、その他もろもろ。身分を失った者たちを商品として扱う連中らしい。帝国では合法らしいな」
「ひでえ」
「そりゃ、帝国の法じゃからな。逆らえん。うちらのような村民も、気をつけねば、いつ奴隷にされるかわからんぞ」
「本当か?」
「ああ。領主に反抗すれば、奴隷商人に売られるらしい。身分制度がしっかりしてるから、奴隷は底辺じゃ。何をされても、法で守られん」
俺は、息を深く吸い込んだ。
奴隷商人。それが、俺を牢に入れた組織の正体なのか。そして、この世界では、奴隷という身分が合法的に存在しているということか。
「その奴隷商人ギルドが、最近、東部にも支店を出したらしい。ウェスタリア帝国が支援してるんだと」
「帝国が支援? つまり、政治的な後ろ盾があるってわけか」
「そういうことだ。つまり、逆らえん。誰も」
酒場の中は、一瞬、静寂に包まれた。その重さが、俺に伝わった。
この世界では、階級が固定されている。そして、その最底辺に「奴隷」という身分が存在する。俺は、その身分に組み込まれたのだ。
*
夜が明けて、俺は村を出た。
老婆から渡された水と、硬いパンを携えて。足首はまだ痛むが、歩けないほどではない。
村人たちは、見送らなかった。むしろ、俺が去ることを望んでいるようだった。それは理解できる。厄介なものが去るのは、誰にとっても好都合だ。
道を歩きながら、俺は思った。
記憶がなく、身分がなく、金もない。この世界で俺は、何もない無一物だ。だが、逆に言えば、失うものがない。
牢に閉じ込められた時、俺は絶望した。だが、今は違う。怒りがある。この理不尽な世界に対する、深い怒りが。
奴隷制度。身分制度。そして、それらを支える帝国や領主たち。
全部、ぶち壊してやる。
そう思った時、俺の体が、かすかに発光した。
金色の光が、腕全体を包み込む。それは一瞬で消えたが、その間に何かが変わった。体の底から、異質な力が目覚めた感覚がある。
俺は、立ち止まった。
何だ、これは。
光は、もう出ていない。だが、その力の痕跡は、体の奥底に存在していた。熱くもなく、冷たくもない。ただ、存在している。
「これが、この世界の力か」
俺は、つぶやいた。
その時、道の先から、馬の蹄音が聞こえた。
二人の騎士が、俺の方へ向かってくる。恐らく、レイス邸の手の者だろう。逃げ出した奴隷を追跡するために。
俺は、身構えた。逃げるか、戦うか。その二択しかない。
だが、奇妙なことに、恐怖がなかった。むしろ、試したくてたまらなかった。
この体に目覚めた力を。
騎士たちは、俺を見つけた。
「そこだ! 奴隷号番号08、捕まえろ!」
馬が俺に突進してくる。
その時、俺の手が、勝手に動いた。
「約束しよう」
俺は、言った。言葉の意味も理解していないまま。
「お前たちは、俺に危害を加えない。代わりに、俺はお前たちを傷つけない。これが、俺たちの約束だ」
その瞬間、金色の光が世界を包み込んだ。
次に目覚めた時、俺は草原に倒れていた。
騎士たちは、どこにもいなかった。
ただ、体の奥底の力が、さらに深く脈動していた。




