第1話 目覚め
意識が戻った。
ただそれだけのはずなのに、俺の体は冷たい石の上で痙攣していた。何が起きているのか、まったく分からない。目を開けると、天井が見える。古い石造りの天井。ひび割れが走っていて、苔のような何かが生えている。
「……ここは?」
声が出た。自分の声。だけど、なぜか自信がなかった。
俺は起き上がろうとした。体が言うことを聞かない。腕がびくびくと勝手に動く。脚は鉛のように重い。恐怖が俺の胸を掴んだ。これは何だ。麻痺? 中風?
必死になって、もう一度体を動かそうとする。肘で支えて、何とか上半身を起こした。吸い込んだ空気が、俺の肺を刺す。息が詰まる感覚。酸っぱい臭いが鼻をついた。
「落ち着け。落ち着け」
俺は呟いた。深呼吸をしようとしたけど、余計に咳き込んだ。
周囲を見回る。薄暗い。懐中電灯もなければ、電灯もない。ただ、どこからか漏れてくる光が、すべてを薄いグレーで染めていた。石の壁。鉄製の格子。これは――
「牢屋?」
すぐに立ち上がろうとしたけど、脚がまだ言うことを聞かない。床に座り込みながら、もう一度辺りを確認した。確実に、ここは牢だ。石造りの壁に囲まれて、鉄製の扉がある。扉の向こうからは、わずかな光と、人の気配が聞こえる。
「誰か! 誰かいますか!」
声を張り上げた。喉が痛い。誰かが来てくれるかもしれない。誰かが説明してくれるかもしれない。
数秒の沈黙。それから、足音がした。
扉が開く。眩しい光が俺の目に入った。目が痛い。こすりながら、半目で来客を見上げた。
「あ、こいつ起きた」
男の声だ。太くて、野太い声。見える輪郭は大柄で、ごつい。ただし、その顔ははっきり見えない。光が強すぎる。
「ここはどこですか? なぜ僕はここに――」
「喋るな。主人の指示があるまでな」
ぶっきらぼうに言い放たれた。その声には理由も説明も何もなかった。
男は去った。扉は閉まった。光が消える。また薄暗さに戻った。
俺は床に座り込んだ。何が起きているのか、まったく分からない。
記憶がない。いや、記憶はある。学校があった。家があった。普通の日本の生活があった。だけど――
最後に何があったのか、思い出せない。
あれ? あれ? あれ?
頭をこすってみた。でも、何も浮かばない。ただ、これだけは分かる。
俺は日本にいない。ここはどこかの異国だ。
「冗談だろ」
そう呟いて、もう一度周囲を見回った。牢屋だ。疑いようもなく、牢屋だ。
でも、この石造りの壁。この臭い。この薄暗さ。これはどこの国だ? 中世ヨーロッパ? それなら、どうして日本語が必要なのか。あの男は何語を喋っていたのか。
もう一度、その男の言葉を思い出してみた。
「喋るな。主人の指示があるまでな」
それは――言葉が分かった。不思議だ。口調は標準的な日本語ではなかったけど、意味は理解できた。だから俺は、その言語で返そうとした。
「ここはどこですか?」
あの時、俺が喋った言葉も日本語だ。でも、あの男は理解したはずだ。反応があったから。
つまり、これは――
異世界?
その言葉が頭に浮かんだ。馬鹿らしい。そんなことがあるわけない。だけど、現実はその馬鹿らしいことを俺の前に突きつけていた。
俺は異世界にいる。
どうしてか分からない。なぜか分からない。だけど、それが事実だ。
何分経ったのか分からない。時間感覚が麻痺していた。ただ、床に座り込んで、石の壁を眺めていた。体も徐々に言うことを聞くようになってきた。脚の感覚も戻ってきた。
それは良い兆候かもしれないし、悪い兆候かもしれない。
突然、扉が開いた。さっきとは違う人が立っていた。今度は女性だ。
「あ、目が覚めたんですね」
その女性は、柔らかい笑顔で俺を見下ろした。彼女は若い。俺と同じくらいの年代か、もう少し上か。薄暗い中でも、その美貌が分かった。金色の髪。蒼い瞳。異国の血が混ざっているのだろう。
「誰ですか? ここはどこですか?」
「まあ、そう焦らずに」
女性は牢の中に入ってきた。足を引きずるような音がした。何か重いものを持っている。トレイだ。その上には、黒いパンと水が置かれていた。
「これを食べてください。体力を取り戻さないと」
「答えてください。ここはどこですか?」
「ここは『レイス邸』です。貴族の館です」
女性はトレイを置いて、かがみこんだ。その瞳が、何か複雑な感情を映していた。
「貴方は、昨日の朝、魔法師の塔で見つかりました。気を失った状態で。その後、ご主人様が『面倒を見よ』とおっしゃったので、ここに置かれたわけです」
「魔法師の塔?」
「ええ。それと――」
女性は言いづらそうに言葉を続けた。
「貴方は、何も覚えていないんですね?」
「えっ?」
「貴方の名前も、出身地も、どうしてここにいるのかも」
俺は頷いた。全部、分からない。
女性は長く息をついた。その時、俺は気づいた。彼女の目に、同情の色が浮かんでいた。
「貴方は『奴隷』です」
その一言が、すべてを変えた。
「えっ?」
信じられなかった。奴隷? そんなことが? 21世紀ではあり得ない。だけど、ここは異世界だ。ここでは、奴隷制度が存在するのかもしれない。
「昨日、朝市で『処分する』という話になっていました。でも、ご主人様が買い取られたので、今ここにいるわけです。ご主人様は『このような外国人を何かに使える』とおっしゃっていました」
女性は立ち上がった。
「ご飯を食べてください。体力を取り戻したら、ご主人様に呼ばれるでしょう。その時のために、少しは力を入れておいた方がいいですから」
「待ってください!」
女性は扉に向かっていた。
「僕の名前は? 何て呼ばれるんですか?」
女性は立ち止まった。そして、ゆっくりと振り返った。その表情は、今までで一番複雑なものになっていた。
「貴方には、まだ名前がないんです。ご主人様が付けるまで、貴方は『奴隷号番号08』と呼ばれます。それが、貴方のすべてです」
扉が閉まった。
光が消える。また、薄暗さに戻った。
俺は、トレイの黒いパンを手に取った。冷たく、硬い。かじると、砂のような食感がした。でも、食べた。食べずにはいられなかった。体が、食べ物を必要としていた。
そして、黒いパンを食べながら、俺は初めて気づいた。
何かが、俺の中で変わった。
心臓の奥底から、何か熱いものが上ってきた。怒り。悔しさ。それとも――何かほかのもの。
俺は、この異世界で奴隷として売られた。
前世の記憶も、何もかもが失われた。
だけど、これだけは分かる。
俺は、ここから出る。
そして――
「この『奴隷号番号08』という呼び名は、今日までだ」
つぶやいて、硬いパンをもう一口かじった。
黒いパンの味は、人生で一番苦かった。




