第17話 戦闘能力の限界
洞窟の奥へ逃げ込んだはずだった。
だが、通路の先で傭兵たちに囲まれていた。
「くっ……」
アルトは奥の壁を背に、剣を握った手が微かに震えている。傭兵は十名。全員が鍛えられた身体つきで、長槍や短剣を持っている。その目は獲物を前にした狩人のそれだ。
「逃げ場はねえぞ。大人しく捕まるなら、嬢ちゃんたちには危害を加えねえ」
傭兵の隊長が不気味に笑った。彼の右腕には、奴隷商人ギルドの紋章が刻まれている。
「アルト、後ろに下がって」
リリアが前に出ようとした。だがアルトは手を上げて制止する。
「大丈夫だ。契約の力がある」
だが、その言葉の直後。アルトは自分の致命的な誤りに気づいた。
契約――。
ここにいる傭兵たちと契約を結ぶには、相手の同意が必要だ。強制的な契約は成立しない。そして、この十人は明らかにアルトの味方ではない。心の底から同意することはあり得ない。
「へっ。契約だ? 貴様、自分の力に頼りすぎているな」
隊長の嘲笑が響いた。次の瞬間、傭兵たちが一斉に動いた。
アルトは反射的に剣を構えた。
最初の一撃は隊長からの横薙ぎだ。アルトは何とかそれを受け止めたが、その瞬間に衝撃が腕全体を駆け抜けた。
――強い。
自分より、はるかに強い。
「むっ、何か違う」
傭兵の隊長が怪訝そうな顔をした。それもそのはずだ。アルトの剣さばきは素人同然だ。力も精度も、訓練を積んだ戦士とは比較にならない。
アルトは後ろに跳んだ。息は荒い。額には冷や汗が流れている。
「逃げるぞ!」
アルトはリリアの手を掴んだ。ニナと他の獣人たちも同時に動く。一行は傭兵たちを避けるように洞窟の横道へと走り込んだ。
足音が追ってくる。だが数十メートル走った時点で、アルトたちは暗い横穴の奥へ身を隠すことに成功した。
息切れしながら、アルトは壁に背を預けた。
「何だったんだ、あれ」
ニナが低い声で呟いた。
「強すぎる。あんな連中が十人……」
だがアルトが返した言葉は、ニナの予想とは違っていた。
「違う。俺が弱すぎるんだ」
リリアが心配そうに覗き込む。
「アルト?」
「契約の力がなければ、俺は……」
アルトは自分の両手を見つめた。さっきの戦闘で、剣を握っていた手は既に痛みを感じ始めている。傭兵隊長の一撃は防げたが、その衝撃は確実にダメージを残していた。
もし、もう一撃受けていたら?
もし、相手が十人全員で同時に襲いかかってきたら?
答えは簡単だった。
自分は死んでいただろう。
「これまで俺は、契約の力で何もかも解決できると思い込んでいた」
アルトは低く言った。
「だが契約は万能じゃない。相手の同意がなければ成立しない。そして、契約なしの状態では、俺は……」
言葉を止めた。
ニナが鋭く視線を送ってくる。
「何なんだ」
「凡人だ。いや、それ以下かもしれない」
リリアが息を呑んだ。
「そんなことはない。アルトはあんなに強い力を――」
「それはすべて契約の力だ。俺の力じゃない」
アルトは言った。その声には自嘲が混ざっていた。
「思い出してくれ。奴隷商人ギルドで、俺は237人を一度に解放した。あの時、複数契約による反動で三日間も昏睡した。契約の力を使ったから弱ったんだ。つまり、俺の本体――実際の戦闘能力は、ほぼゼロに等しい」
ニナが立ち上がった。
「なら、何だ? あんたの約束は何だ?」
声には怒りが混ざっている。
「獣人たちの自由を守ると言ったのではなかったのか? その力が、実は脆く、危ぶい契約に頼ってるだけだと?」
「ニナ」
リリアが止めようとした。だが、ニナは構わず続ける。
「やっぱりだ。あんたの力は本物じゃない。相手を支配するための、都合の良い魔法に過ぎない。俺たちは、その魔法に支配されているのと同じだ!」
その言葉は、アルトの胸を深く刺した。
ニナは間違っていない。それどころか、的確に指摘している。
アルトは何も返すことができなかった。
窓の外の夜空が深い黒で染まっていた。洞窟の奥から聞こえる水音が、唯一の音だ。
「グレッグに言われた言葉を、やっと理解した」
アルトは静かに呟いた。
「支配する力を持つ者が自由意志をどう尊重するか、ということか」
リリアが膝をついて、アルトの手を握った。
「でも、アルトは悪い人じゃない。奴隷たちを本当に救いたいと思ってる」
「心は良くても、実現の手段が間違っていたら、結果は同じだ」
アルトは言った。
「俺は契約の力で相手を強制する。相手が同意していても、その本心が何であれ、契約が成立すると強制実行される。これは支配だ。自由意志の否定だ」
ニナは腕を組んだまま、返事をしない。
「でも、この戦闘で俺は気づいた」
アルトは続けた。
「契約の力だけでは、世界は変わらない。本当に変えるには、俺が戦う必要がある。ただ、その戦い方は……」
言葉を探す。
「俺が強くなる必要がある。契約なしで、戦えるくらいに」
ニナがようやく視線をアルトに向けた。
「お前が強くなるだけで、獣人差別が解決するのか?」
「いや。だからこそ、誰かと力を合わせる必要がある」
アルトは起き上がった。
「リリア。ニナ。そして、これから出会う誰もが、俺の契約の力に頼るのではなく、自分たちの力で立ち上がる必要がある。俺ができることは、その手助けだけだ」
リリアが頷いた。ニナも、微かに頷いている。
「では、どうする」
ニナが尋ねた。
「冒険者ギルドに戻る。グレッグに会う。そして、真に問うべき質問をしよう」
アルトは立ち上がった。
「ウェスタリア帝国が、なぜ俺たちを追うのか。そして、この世界を支配しているものが何なのか」
外では、傭兵たちの足音がようやく遠ざかっていた。
だが、その背後に、より大きな影が控えていることを、誰も予感していなかった。
やがて夜明けがくると、一行は慎重に洞窟を出た。森の中へ。そして、冒険者ギルドへと向かう道へ。
アルトの表情には決意と不安が同時に映っていた。
自分の力は脆い。だが、それを知った今、初めて本当の戦いが始まるのだ。




