第13話 ニナの解放
奴隷商人の手下が倒れた瞬間、ニナは動いた。
銀色に輝く狼の耳がぴんと立ち、その瞳に怒りの炎が灯る。彼女は鎖で繋がれた他の獣人たちを次々と解く手伝いを始めたが、その動きは神経質で、まるで火薬樽の上を歩くようだった。
「待ってくれ」
アルトが声をかけても、ニナは振り返らない。代わりに、その銀色の尻尾がしなり、壁を思い切り蹴った。
「こいつら......人間どもめ。この怒りを、この屈辱を......」
ニナの声は低く、震えていた。リリアが不安そうにアルトを見る。彼女はニナの感情の激しさに戸惑っているようだった。
「ニナ」
アルトは深呼吸をして、ゆっくりと彼女に近づいた。契約者としての直感が、何か重要なことが起こりかけていることを告げていた。
「お前の怒り、わかる。だから......」
「わかるはずねえ!」
ニナが振り返った瞬間、彼女の瞳からは涙が流れていた。それは怒りの涙ではなく、絶望と悔しさに満ちた涙だった。
「お前は人間だ。この世界で、上の身分だ。奴隷にされることなんて、ねえんだろ?」
アルトは言葉を失った。ニナの言葉は、正面から彼の矛盾を突きつけていた。
確かに、アルトは奴隷号番号08として連れてこられたはずなのに、いつの間にか解放者となっていた。だが、ニナは違う。獣人であるというだけで、生まれた時から奴隷扱いされていた。彼女の怒りは、単なる一時的な虐待への反発ではなく、種族として刻み込まれた絶望の累積だったのだ。
「お前たちが何をしたって......俺たちは......」
ニナの声がくぐもった。彼女は拳を握り、爪が生えた指先が血を流していることに気づかないようだった。
アルトは、ここが勝負どころだと感じた。契約を結ぶなら、今だ。だが、同時に彼は感じていた――ニナの心の奥底にある、何かもっと深い傷を。
「ニナ。契約しよう」
「は?」
「俺と約束を結ぶ。ただし、お前の条件でだ」
アルトが言い終わらないうちに、ニナは呵笑した。それは人間不信を絵に描いたような、痛々しい笑い声だった。
「俺たちが、人間の『約束』なんて信じられるわけねえだろ!」
「だから、お前が条件を出すんだ」
アルトは歩を進めた。リリアが「アルト、危ない!」と叫んだが、彼は止まらなかった。
ニナの拳がアルトの腹部に当たった。金色の光が一瞬輝いたが、アルトは耐える。痛みは来なかった。契約の力が、彼女の拳を「傷つけない」という約束に自動的に変換していたのだ。
「何をする!」
ニナが驚いた。彼女が全力で殴ったはずの拳が、アルトにダメージを与えていない。だが、アルト自身も、その瞬間に何かを感じていた。
【契約読破──発動】
ニナの心の声が、アルトに届いた。
家族を失った。両親も、兄妹も、みんな......
奴隷商人に売られた。狼族だから、という理由だけで。
強くなりたい。獣人としての誇りを取り戻したい。人間どもに支配されない、自分たちだけの世界を......
だけど......
一人では何もできない。
この怒りだけが、俺を支えている。
もしこれがなくなったら......
俺は、何になる?
アルトは目を開いた。ニナは動けず、彼を見つめていた。その瞳に、初めて本当の感情が映っていた。
「契約の内容は、お前が決めてくれ」
アルトは手を差し出した。
「俺は約束を絶対に守る。だから、ニナ。お前の本当の願いは何だ? 奴隷から逃げることか? 獣人の国を作ることか? それとも......」
「......人間と、一緒に生きることか」
ニナがアルトの言葉の続きを呟いた。その瞬間、彼女の瞳から涙が止まった。代わりに、何か違う光が灯った。
「俺の条件は......」
ニナが手をゆっくり上げた。アルトの差し出した手に、彼女の爪のある手が重なる。
「俺の家族を、絶対に見つけてくれ。そして......」
その声は、さっきまでの怒りと絶望に満ちたものではなく、もっと危ういもの――希望だった。
「俺たちが、本当に自由になれる世界を作ってくれ。約束だ」
その瞬間、金色の光がニナを包んだ。
だが、アルトはその光の中に、前のような「支配」の輝きがないことに気づいた。代わりに、そこにあったのは別の光――二人の意志が、一本の絆として結ばれた光だった。
「約束する」
アルトは呟いた。
その時、他の獣人たちが動いた。彼らはニナを見つめ、ゆっくりと彼女の周りに集まった。言葉はなかったが、アルトには理解できた。ニナが、彼らの指導者となることを受け入れたのだ。
リリアが静かに歩み寄り、アルトの肩に手を置いた。
「アルト......」
その一言に込められた感情は複雑だった。信頼もあれば、不安もある。だが、何より強かったのは、彼女の気づきだった。
アルトは、単に奴隷を解放する存在ではなく、もっと大きな何かになろうとしている。それが何なのか、リリア自身もまだ理解していなかった。だが、彼女は知っていた。
――アルトが背負おうとしているものは、想像以上に重いということを。
「俺たちは、どこへ向かう?」
ニナが問うた。その瞳には、もう怒りではなく、覚悟が灯っていた。
アルトは答えた。
「冒険者ギルドへ。この国の仕組みを、もっとよく知る必要がある」
「なぜ?」
「お前たちを本当に解放するには、単に鎖を切るだけじゃ足りない。この世界全体を変える必要があるからだ」
その言葉が、どれほどの重さを持つのか、その時のアルトはまだ完全には理解していなかった。だが、ニナは違った。獣人としての感覚で、彼女は何か大きな力が動き始めたことを感じていた。
「ああ。約束だ」
ニナが頷いた。
その時、遠くから馬蹄の音が聞こえた。帝国の兵士たちが接近しているのだ。
「逃げるぞ!」
アルトが叫び、一行は森深くへと消えた。
20体の獣人たちと、リリア、そして新たに彼らの指導者となったニナを連れて。
身分制度という壁が立ちはだかる国で、アルトは約束を重ねていく。その約束は、やがて──
予告:第14話「皇帝の警告」では、ウェスタリア帝国の高官からアルトへの直接的な脅迫が始まる。複数の契約を背負い始めたアルトに、帝国という巨大な敵が、本格的に立ち向かってくるのだ。




