第14話 怒りの共鳴
森の奥へ逃げ込んで三日目。
アルトたちは湿った洞窟の奥に身を寄せていた。入口には簡単な柵が作られ、番人としてニナが立っている。
「ここが安全だって、確認した」
ニナが奥から戻ってきた。銀色の狼耳が微かに揺れている。背後には、解放した獣人たちが薪を集めたり、火を起こしたりと、慌ただしく動き回っていた。
「二日は安全だと思う。帝国兵も、この深さまでは来ないだろう」
アルトはニナの言葉に頷いた。複数の契約を同時に結んだことで、体はまだ重い。背中に走る激痛は、昨日よりは弱まっているが、まだ無視できるレベルではない。
「アルト、大丈夫ですか?」
リリアが心配そうに近づいてきた。手には自分たちで取った薬草が握られている。彼女はここ数日、ずっとアルトの傍にいた。献身的に、しかし何か引っかかるような迷いの表情を浮かべながら。
「ああ、大丈夫。ニナのおかげだ」
アルトは微笑みかけた。しかし、その笑顔を見たニナは、表情を曇らせた。
「大丈夫じゃない」
ニナは短く言い放った。銀の瞳がアルトを真っすぐに見つめている。
「何?」
「あんたの笑顔。それ、本当に大丈夫だと思ってるから出てるんじゃない。自分を騙すためにやってるんだ。獣人の俺には、その程度は感じ取れる」
ニナは洞窟の中央に座った。火の光が彼女の顔を照らし、影を濃くさせる。周囲の獣人たちも、彼女の言葉を聞いて静かになった。
「何が言いたいんだ?」
「感謝してる。本当に。あんたのおかげで、ここにいる奴らは生きることができた」
ニナは周囲の獣人たちに目を向けた。二十体以上の獣人たち。狼族、猫族、羽族――様々な種族が混在している。その多くが、目を伏せていた。
「でもな、アルト。これで解決したわけじゃねぇ」
「......」
「世界中に、何千、何万の獣人がいる。ほぼ全員が奴隷だ。子どもから老人まで、みんな人間に虐げられてる。あんたが助けたのは、このメンバーだけ。俺たちの仲間の、ほんの一部に過ぎない」
アルトは言葉を失った。確かに、その通りだ。自分は237人の奴隷を解放し、さらにこの二十体の獣人を助けた。合わせても、二百六十人に満たない。
世界中の奴隷の数は、もっと多い。特に獣人は――。
「さらに言うなら」
ニナが立ち上がった。足元の火が揺らぎ、影が踊る。
「あんたの約束。覚えてる? 『獣人たちを本当に解放する。世界を変える』って」
「ああ」
「それ、個人の約束じゃ絶対無理だ。あんたがいくら強くても、人間全体の考え方を変えることはできねぇ。奴隷制度は制度だ。法律だ。社会だ。そういうのは、個人じゃどうにもならねぇ」
ニナの声は静かだったが、その中に激しい怒りが籠もっていた。それは、アルト個人に向けられたものではなく、世界全体に向けられているもののようだった。
「あんたが幸せそうに笑顔でいるから、俺たちも『救われた』って思う。だからあんたは怖い。そんな簡単なもんじゃねぇのに、あんたの約束が『本当になる』って実感されると、全部が解決したように見えちまう」
リリアがアルトの袖を握った。その指は震えていた。彼女も、ニナと同じ思いを抱いていたのだろう。ただ、言葉にすることができずにいたのだ。
「ニナ。だから、俺たちが一緒にやるんだ」
アルトは静かに言った。
「あんたらが一緒にいてくれるから、可能になるんだ。個人の力じゃなくて、みんなで一緒に――」
「あんたが『約束』する限り、それはあんたの力だ」
ニナが遮った。その瞳は、予想外に冷たい。
「契約者の約束は、絶対だ。あんたが『世界が変わる』って言えば、世界はあんたの約束に従う。それは――」
ニナが一歩、アルトに近づいた。火の光の中で、彼女の表情がはっきりと見える。
「――それは、新しい支配じゃねぇか」
その言葉は、洞窟の中に重く沈んだ。
周囲の獣人たちは、誰も口を開かない。リリアも、アルトの袖を握ったまま、何も言えない。
「違う。俺は――」
「あんたの気持ちは、きっと本物だ。本当に、獣人たちを助けたいんだと思う。でも、あんたの力の本質は変わらねぇ。約束は、絶対だ。相手の意思を、根こそぎ縛る。それが、あんたの力だ」
ニナは後ろを向いた。獣人たちの方へ。
「だから、俺たちは決めなきゃいけねぇ。あんたの約束に従うのか、それとも――」
「それとも?」
「俺たちも、あんたに対抗する力を持つのか。あんたの約束を『選択できる立場』に立つのか。そうでなきゃ、俺たちはいつまで経っても支配されてる。奴隷商人の鎖から、あんたの約束の鎖に変わるだけだ」
アルトは、息を呑んだ。
それは――自分が、最も恐れていた指摘だった。
複数の契約を結ぶたび、アルトは喜びを感じていた。相手が助かるから。相手が幸せになるから。だが、その奥底には、別の感情があったのではないか。自分の約束が『絶対』だという陶酔感。相手を完全に支配できるという快感。
「ニナ、お前は何が言いたい?」
アルトは立ち上がった。背中の痛みを無視して。
「あんたとの約束は、有効なままだ。俺たちは、あんたについていく。でも――」
ニナが振り返った。その瞳には、決意が宿っていた。
「同時に、俺たちも力をつける。あんたの約束に頼るだけじゃなく、俺たちの力で選択できるようになる。そうしてはじめて、本当の『解放』になるんだ」
「分かった」
アルトは頷いた。
「なら、そうしよう。俺たちは一緒に進む。だが、お前たちも自分たちの力を持つ。そのために、俺は何をすればいい?」
ニナは少しだけ、笑った。
「力を分け与えることだ。あんたのその『約束の力』を、俺たちにも分かるようにしてくれ。そうすれば、俺たちも『選択できる』ようになる」
「それは――」
アルトはためらった。自分の力を完全に理解している者は、グレッグ以外にいない。セリアでさえ、科学的な関心を持っているだけで、その本質を理解しているわけではない。
約束の力を、他者に分け与えることなど、できるのだろうか。
「できなくてもいい」
ニナが言った。
「あんたが『約束できるなら』という条件で、俺たちは従う。もしそれすらできないなら、あんたは――」
「俺たちの解放者じゃなくて、新しい奴隷商人ってわけだ」
リリアが、小さく呟いた。
その言葉は、短いながらも、アルトの胸に深く刺さった。
「分かった。約束する」
アルトは言った。
「俺は、お前たちが『選択できる存在』になるための手助けをする。お前たちの力を、俺の約束の力と同じくらい強くしてやる」
その瞬間、アルトの体が、淡い金色に光った。
約束が成立した。相手が心の底から同意したからだ。
だが、この約束は――これまでのものとは、違う感覚があった。
相手を支配するのではなく、相手を『解放する』という約束。
その快感は、以前のものとは比べ物にならないほど、深く、そして苦い。
ニナが満足げに頷いた。周囲の獣人たちも、静かに感謝の言葉を呟く。だが、アルトの体には、これまで以上の重さが圧し掛かっていた。
一つの約束が解決しただけで、新しい、より大きな問題が浮かび上がった。
世界を変える。
奴隷制度を廃止する。
獣人たちに、本当の自由を与える。
そのためには、自分は何をすればいいのか。
個人の力では解決できない。ニナが言った通りだ。
であれば――。
アルトの視線は、洞窟の入口に向かった。遠く、ウェスタリア帝国の方角へ。
国家を動かす必要がある。
法を変える必要がある。
社会全体を変える必要がある。
その時、アルトは気づいた。
自分の約束の力は、強い。絶対だ。だが、世界はもっと複雑で、もっと大きな力が動いている。
単なる『無双』では、何も変わらないということに。
火のぱちぱちという音だけが、洞窟に響いていた。




