第106話 エミリアとの別離
シャーロット城の最上階、かつてマクシミリアン皇帝が世界を睥睨していた展望室。その場所に、アルトとエミリアは二人きりで立っていた。
窓から見える景色は、かつてのウェスタリア帝国のそれとはまったく異なっていた。帝国の旗は消え、各地から異なる色の旗がはためいている。人間の町、獣人の町、混在する町。すべてが自由を求めて動いている様子が、遠く見える。
「長かった」
エミリアが呟いた。彼女はこの展望室の窓に、背を向けて立っていた。銀色に輝く長い髪は、そよ風に揺れている。その姿は、まるで幽霊のように儚かった。
「本当に長かった。アルト、君を見つけてから、どのくらい経ったと思う?」
アルトは答えずに、エミリアの横顔を見つめた。彼女の表情は静寂そのもので、喜びも悲しみもなかった。ただ、深い疲労だけが感じられた。
「五百年以上、私は世界を管理してきた。前の契約者が消えた時から、私がこの世界の『調整役』だった。でもね、アルト。その五百年の間に、私は何度も同じ間違いを繰り返した」
「間違い?」
アルトが問い返す。
「人々を『正しい方向』へ導こうとすることだ。私たちシステムの管理者は、人類全体の歴史を『最善の方向へ導く』という使命を与えられた。だから、私は何度も何度も、人々の自由を制限してでも『最善の道』を作ろうとした」
エミリアは振り返った。その瞳には、数百年の歴史が映っているようだった。
「帝国皇帝マクシミリアンも、その前の王国の支配者たちも、みんな私の『導き』の結果だった。彼らが酷い支配者に見えたのであれば、それは『制御された悪』だったのだ。よりマシな世界を作るための必要な悪として」
「それは……」
アルトは言葉を失った。彼がシステムに対して抱いていた疑問が、まさにこれだった。
「でも、君は違った」
エミリアがアルトの肩に手を置いた。その手は温かく、しかし重かった。
「君は『正しい方向へ導く』ことを拒否した。セリアが死ぬまで、君は『相互選択』という言葉を手放さなかった。そして君たちは、私が五百年かけても成し遂げられなかった『自由と安定の両立』を、一人の少女の犠牲の上に実現させてしまった」
「セリアは犠牲になったのではない。彼女は選んだんだ」
アルトが即座に言った。その声は強かった。
「そうだ。君の言う通りだ。セリアは自分の意志で選んだ。それが『相互選択』というものなのだ。それが『本当の自由』なのだ」
エミリアは微笑んだ。その笑顔は、五百年ぶりの本当の笑みのように見えた。
「だから、私は決めた。これからは君たちに任せることにした。新しい世界を、新しい契約者たちと共に創る。その責任を」
「待ってください。それは……」
アルトは彼女を制しようとしたが、エミリアは首を振った。
「私はもう『管理者』ではない。今日から、私は『永遠の旅人』だ。世界を巡り、君たちの創った新しい世界がどのように展開していくのかを、ただ見守る。君たちが過ちを犯すのを見ても、助言はしない。それが『本当の自由』を与えることだから」
「では、どのくらいの間、世界を巡るのですか?」
「さあ、わからない」
エミリアは再び窓の方へ向き直った。
「もしかしたら、永遠に。もしかしたら、次の契約者が目覚める時まで。または君が死ぬ時まで。それは私の『自由な選択』だ。君が与えてくれた自由だ」
シャーロット城の廊下を、二人は静かに歩いていた。廊下の両側には、帝国の装飾品が取り除かれ、代わりに各地の芸術品や工芸品が飾られていた。
「最後に、一つだけ言い残したいことがある」
エミリアが足を止めた。目の前は、城の南門だった。その先には、馬車が待っていた。
「新しい契約者たちを育成する時が来たと、私は感じている。君は多くの才能を見つけるだろう。年若い者たち、力を求める者たち、苦しむ者たちの中に。その時、君は何度も同じ誘惑に直面するだろう」
「誘惑?」
「『彼らの力を制御する』という誘惑だ。彼らが危険な方向へ向かわないよう、彼らの契約に『制限』を加えるという誘惑だ。でも、それは絶対にしてはいけない」
エミリアの目が、厳しく輝いた。
「相互選択。それだけが、本当の約束だ。それだけが、本当の自由を保証する。君たちの新しい世界は、その原則の上に立つ。それ以外の方法で『安定』を求めてはいけない。たとえそれが、短期的には苦しみをもたらすとしても」
アルトは頷いた。彼の心の中には、セリアの姿がまだ鮮明に残っていた。
「わかりました。僕たちは同じ過ちは繰り返さない」
「そうあることを祈っている」
エミリアが馬車へ乗り込む前に、アルトは彼女に一つの質問を投げかけた。
「もし、新しい契約者たちが本当に危険な力を持った場合は? もし、彼らが世界を破壊しようとしたら?」
エミリアは馬の上に跨がった御者に指示を与えながら、アルトへ言った。
「その時は、君が彼らと『約束』するんだ。『相互選択』の方法で。君たちが創った新しい世界の『ルール』を、彼らに理解させるんだ。力で抑えるのではなく、『言葉』で。『信頼』で」
馬車が動き始めた。
「それが、本当の『契約者』の役目だ。君はそれができる。君たちは、すでにそれを証明している」
馬車は城門を通り抜け、やがて小さくなっていった。アルトは、その背中が見えなくなるまで、ずっと手を上げていた。
城の廊下へ戻ったアルトは、壁に寄りかかった。疲労が一気に押し寄せてくるのを感じた。セリアの死、新しい世界の構築、そして今、エミリアの別離。
彼の肩に、そっと手が置かれた。
「あの人、本当に消えるのかな」
それはリリアの声だった。彼女は、いつからそこにいたのだろう。
「誰にもわからない。でも、彼女は『永遠の旅人』になることを選んだ。それが彼女の自由だ」
アルトが答えた。
「そっか。じゃあ、私たちも前に進むしかないのかな。セリアを蘇生させてくれた新しいシステム、それを『相互選択』の原理に基づいて運用する。新しい契約者たちを育成する。全部、私たちで」
リリアの言葉は、不安と決意が混じっていた。
アルトは彼女を見た。彼女の顔は、奴隷だった頃よりもずっと輝いていた。
「そう。僕たちで」
その時、遠い廊下の先から、セリアの声が聞こえた。
「アルト。システムコアの調整が完了しました。次の段階へ進む準備ができています」
セリアは蘇生してから、毎日、新しいシステムの調整に従事していた。その冷徹な知性は、枯れることなく燃え続けていた。
アルトは立ち上がった。これからの道は、決して平坦ではないだろう。新しい契約者たちを育成する過程で、何度も失敗するだろう。何度も、エミリアの忠告を思い出すだろう。
しかし、彼には一つの確信があった。
それは、この世界に『相互選択』という言葉が根付いた、ということだ。
その根付いた言葉が、新しい世代を育てる。その新しい世代が、またさらに新しい世代を育てる。
それが、本当の『約束の絆』なのだ。
アルトがセリアの元へ向かおうと歩き出した時、窓の外で、エミリアの馬車が見えた。それは、帝国の領地を出て、遥か彼方の地平線へ向かっていた。
その背中へ向かって、アルトは心の中で呟いた。
「ありがとうございました。そして、さようなら」
彼女は、もう返事をしない。ただ、その馬車は進み続ける。
新しい世界へ。新しい旅へ。
一人の女性が、五百年の歴史を背負ったまま、世界の果てへ消えていった。




