第105話 イザベラの願い
イザベラは、南の港街・カルスタ地区の孤児院の竣工式で、小さな女の子の頭を優しく撫でた。
「さあ、中を見てごらん。ここがお前さんの新しい家だ」
少女は恐る恐る建物の中へ入っていく。その母親は帝国軍による焦土作戦で失い、父親も不明のままだ。カルスタ地区だけで、こうした孤児は三百人以上。この孤児院は彼らすべてを受け入れるために建設された。
イザベラは深く息を吐いた。五年前、自分がアルトに助けられた時、こんな日が来るなんて想像もしなかった。当時の自分は、奴隷商人の手から逃れるだけで精一杯だったのに。
「イザベラさん、次の地区の報告書です」
スタッフの若い女性が、分厚い書類を手にしながら走ってきた。彼女の名前はミーシャ。かつてこの孤児院の第一期生で、今は副院長として働いている。
「ご苦労さん。読ませてくれ」
イザベラは書類を受け取り、目を通し始めた。
<西大陸・ウェスタリア地区:孤児院新築23棟、受け入れ児童数6,847名>
<東大陸・自由連合領:孤児院新築41棟、受け入れ児童数12,334名>
<北大陸・獣人自治区:孤児院新築18棟、受け入れ児童数3,456名(獣人児童:2,891名)>
<南大陸・開発地域:孤児院新築15棟、受け入れ児童数4,123名>
すべての数字を足し合わせると、約26,760人の孤児たちが、この半年の間に新しい家を得たことになる。
「合計26,760人か。目標の25,000人を超えたな」
「はい。加えて、これからさらに5,000人規模の孤児院を建設予定です。シャーロット女王からの予算承認も得られました」
ミーシャの表情は誇らしげだ。かつて、彼女も親を失った孤児の一人だった。それが今では、全大陸で数万人の子どもたちを助けるプロジェクトの一員として働いている。
イザベラは書類を閉じ、遠くを見つめた。
帝国時代、戦争で両親を失った子どもたちは、ほぼ例外なく奴隷商人の手に落ちた。教育を受けられず、親の借金を返済するために働かされ、やがて完全に社会から切り離される。それが「当たり前」だった時代。
しかし今は違う。
「ミーシャ、子どもたちのようすはどうだ?」
「みんな、毎日笑っています」
その一言で、イザベラの心が満たされた。
カルスタ地区の孤児院の食堂では、昼食の時間だった。机をいくつか並べ、百人以上の子どもたちが一緒に食べている。貧しい味付けの粥だが、子どもたちは夢中で食べていた。
「おばさん、これ、毎日食べられるの?」
五歳ほどの男の子が、イザベラにそう聞いた。
「ああ。毎日だ。そして、夜も温かい布団で眠れる。学校にだって行ける」
「ほんとう?」
「ほんとうだ。お前さんの親はな、遠い場所にいるかもしれない。でも、ここにはお前さんを大事にしてくれる人たちがいっぱいいる。ここがお前さんの家なんだ」
少年は頷き、もう一度粥を口に入れた。その顔には、初めて見る笑顔が浮かんでいた。
イザベラは立ち去り、孤児院の管理事務室へ向かった。デスクの上には、全大陸からの報告書が積み重なっている。
獣人自治区からの報告書では、獣人の孤児たちが初めて「人間の孤児と同じ場所で暮らす」という現象が起こっていた。かつての帝国では、獣人と人間の子どもが同じ食卓を囲むことすら、重大な違反だった。
しかし今、その垣根は消えている。
イザベラはペンを握り、返信の手紙を書き始めた。
「獣人児童と人間児童の共生が順調に進んでいるとのこと。素晴らしい。ただし、いじめや差別が発生していないか、引き続き注視するように。特に大陸間の孤児院での交流プログラムを早期に開始し、相互理解を深めてほしい」
書きながら、イザベラは思った。
この世界が変わるまでに、どれだけの時間がかかるだろう。
かつての帝国制度では、身分や種族による差別は「自然」で「必然」だった。しかし、アルトが示した「相互選択による約束」という考え方は、その前提そのものを揺さぶった。
セリアが新しい魔力理論を打ち立て、エミリアがシステム管理者として新世界を認可した。シャーロット女王は各地の貴族を説得し、ニナは獣人たちの自治権を確立した。リリアは商人ギルドを改革し、奴隷に代わって自由労働者を雇用する仕組みを作った。
そして、自分は?
イザベラは窓から外を見た。
カルスタ地区には、すでに五棟の孤児院が立ち並んでいる。それぞれから、子どもたちの声と笑顔があふれている。
「イザベラさん、ご連絡です」
ミーシャが再び戻ってきた。
「何だ?」
「アルトさんがこの街に着いたそうです。孤児院の視察をされるとのこと」
イザベラの心臓が高鳴った。
あの青年。五年前、自分を奴隷商人から救ってくれた青年。その後、世界をまるごと変えてしまった青年。
いつ会っても、彼はどこか遠い目をしていた。セリアの死と蘇生の後、さらにそうなった気がする。まるで、何か大きな重荷を背負い続けているようなそぶりだ。
「すぐに迎えに出よう。ミーシャ、子どもたちを綺麗に整えて、玄関で待たせてくれ。アルトさんに喜んでもらおう」
一時間後、カルスタ孤児院の前には、百人以上の子どもたちが整列していた。
男の子たちは新しい服を着させられ、女の子たちは髪をきちんと結われている。皆、落ち着きなく指をいじりながら、来客を待っていた。
そして、馬車がやってきた。
降りてきたのは、アルト・ソルヴェン。
相変わらず、優しそうだが疲れた顔をしていた。隣にはシャーロット女王も歩んできた。
「イザベラ。お疲れさん」
アルトがそう言った。その声は、かつてのような力強さを失っていた。
「こちらこそ。セリアさんが蘇生されて、良かった」
「ああ。セリアなしじゃ、この世界は回らないんだろう。さすがに、あいつは天才だ」
話しながら、アルトは孤児院の前に整列する子どもたちを見た。
彼の瞳が、ほんのわずかに輝いた。
「これが、全部?」
「いえ。この街だけで五棟あります。全大陸では、82棟。総数26,760人の孤児たちが、新しい家を得ました」
イザベラが誇らしげに答えた。
アルトは静かに頷き、一人の女の子に近づいた。
「お前さんの親は?」
「……いません」
小さな声で少女が答えた。
「そうか。ここはどう?」
「……あたたかいです」
その一言で、アルトの目から涙が落ちた。
シャーロット女王が側に寄り、彼の肩に手を置いた。
「アルト。これが、あなたが望んだ世界です」
「そう、だな。俺たちが望んだ世界」
彼は呟いた。
その時、玄関の奥から、急ぐ足音が聞こえてきた。
「アルト!」
ニナが、獣人自治区から駆けつけてきたのだ。その後ろには、リリアとセリアの姿も。
五人が一堂に集まった。
イザベラはその光景を眺めながら、思った。
この五人がいなければ、この世界は変わらなかった。
そして、変わり始めた世界は、もう後戻りできない。
だからこそ、自分たちには、責任がある。
「さあ、子どもたちが待ってます。中に入りましょう」
イザベラが皆を招いた。
食堂では、温かい粥が用意されていた。子どもたちは、かつての主人たちと同じ食卓を囲み、一緒に食べ始めた。
帝国時代には絶対にあり得なかった光景。
しかし今、それが「当たり前」になろうとしていた。
夜、イザベラはアルトと、孤児院の屋上に上った。
「あの子たちの未来は、どうなると思う?」
アルトが、夜空を見上げながら聞いた。
「わかりません。でも、親を失う前の子どもたちよりは、きっと良い道を歩めるでしょう」
「そうだな。俺たちが作った世界で」
アルトは静かに笑った。
その表情には、まだ重荷が残っていた。しかし、同時に、何か確かなものを手に入れたような静けさもあった。
「イザベラ。お前さんのおかげだ。この世界の子どもたちは、お前さんという『約束』を持ったから救われた」
イザベラは首を振った。
「いいえ。私たちは『約束』ではなく、『選択』で繋がっているのではありませんか?」
アルトは彼女を見つめた。
「そうだな。俺たちは、もう『約束の奴隷』じゃない。自由に選んで、共に歩んでいる」
その時、屋上から見える遠くの空が、ほんのわずかに光った。
システムコアの光。
新しい世界をつかさどる、その光。
アルトはそれを見つめながら、思った。
この世界は、まだ始まったばかりだ。
子どもたちが大人になる時、さらに多くの困難が、訪れるだろう。
新しい制度の矛盾も、誰かが指摘するはずだ。
しかし、少なくとも今、その子どもたちは笑顔で眠ることができる。
親がいなくても、奴隷でなくても、獣人でなくても。
誰もが「自分の人生を選ぶ権利」を持つ世界。
その実現はまだ遠いのかもしれない。
だが、確実に、一歩ずつ近づいている。
そして、その過程の中で、何か大きな変化が、世界の片隅で起ころうとしていた。
遠い北の果てで。
誰も知らない場所で。
古いシステムの残骸が、まだ息をしていた。




