第102話 商人ギルド統領の就任式
ギルドホールの大広間は、かつてないほどの熱気に包まれていた。
天井から差し込む朝日が、数百人の商人たちの顔を照らす。玉座――ではなく、調整者の椅子と呼び直された座席に向かって、彼らは注視していた。リリアが、新しい統領として立ち上がろうとしていたからだ。
「皆さん、お静かに」
ギルド幹部の老紳士・マルクスが杖を床に打ちつけた。その音で、ざわめきがようやく収まる。
リリアは、元奴隷の少女だ。数ヶ月前まで、彼女は鎖に繋がれ、商人ギルド本部の地下にいた。その同じギルドが、今、彼女を統領に推挙しようとしている。その矛盾と皮肉さが、この場の空気を奇妙なものにしていた。
「改めまして、皆さん。私はリリア・フォルテと申します」
リリアの声は、かすかに震えていた。だがそれは弱さではなく、責任の重さを感じているがゆえの緊張だった。彼女は深く息を吸い、続けた。
「これまで商人ギルドは、奴隷制度によって莫大な利益を得てきました。私自身も、その体制の被害者の一人です。しかし、今、その時代は終わりました。アルト様のシステム改革により、強制的な支配の時代は完全に終焉を迎えたのです」
広間に、静寂が満ちる。誰も予期していなかった。リリアが、開口一番、ギルドの過去の罪を認めるとは。
「ギルドの皆さんの中には、不安もあることでしょう。奴隷が存在しなくなれば、労働力が失われるのではないか。利益が激減するのではないか。そういった懸念はもっともです。私も、その問題について深く考えました」
リリアはマルクスの側に置かれたテーブルに手をつき、一枚の羊皮紙を取り上げた。それは、彼女が夜通し作成した改革案だ。
「奴隷制度に代わる新しい経済体制を提案させていただきたいのです。それが――『自由労働賃金制』です」
そのとき、広間の奥から、一人の男が立ち上がった。ギルドの副統領・ローレンスだ。彼は、元統領の側近であり、奴隷制度の最大の受益者の一人だった。
「待てよ。リリア、貴女の案では、労働者に高い賃金を支払わねばならん。そうすれば利益は半減する。ギルドの経営が成り立たんぞ」
ローレンスの言葉に、何人かの商人が同調する声を上げた。予想通りの反発だ。
だが、リリアは動じなかった。むしろ、彼女の唇には小さな笑みが浮かんでいた。
「ローレンス様。その計算は、短期的な視点です。確かに、一時的には利益が減少するでしょう。しかし、『自由労働賃金制』には、長期的な利点があります」
彼女は羊皮紙をめくり、グラフを示した。それは、セリアが残した経済シミュレーション結果だ。
「奴隷制度は、労働者の創意工夫を奪います。何故なら、彼らは『命じられたことだけをする』からです。しかし、自由な労働者は、自らの給与を増やすために工夫します。より効率的な生産方法を開発し、より良い商品を作ろうとします。その結果、全体的な利益率は――十年で三割増加すると、計算されています」
その数字を見て、広間はざわめき始めた。利益の増加。それは商人たちの最大の関心事だ。
「さらに申し上げるなら」
リリアが続ける。
「奴隷制度が廃止された今、獣人たちも労働市場に参入します。これまで考えられなかった『労働力の拡大』が実現するのです。商人ギルドは、奴隷をめぐる戦争によって莫大な損失を被っていました。その損失は、新しい市場によって、十分補償できます」
その時、廊下からアルトが現れた。彼は、セリアの遺体をようやく埋葬し、その後始末を終えたばかりだ。目の下には深い色素沈着があり、彼がどれほど疲弊しているかが一目瞭然だった。
だが、彼の存在だけで、広間の空気が変わった。誰もが、システム改革の主人公に礼をした。
「アルト様。ご来場ありがとうございます」
リリアが一礼する。
「いや。リリアの頑張りを見に来ただけだ」
アルトは淡々と答え、広間の隅に身を寄せた。彼は演出が嫌いだ。この場で動けば、話題がリリアから自分へシフトしてしまう。それは避けたかった。
リリアが再び、ローレンスを見つめる。
「ローレンス様。貴方は、奴隷制度が最良だと信じていらっしゃった。その気持ちは分かります。確かに、それは単純で効率的でした。しかし、その効率性は、多くの人間の自由を奪うことで成り立っていたのです」
「貴女は理想主義者だ」
ローレンスが吐き捨てるように言った。
「そうかもしれません。しかし、私は理想家ではなく『商人』です。そして、商人として私は言います――『自由な労働者は、奴隷よりも高い利益を生み出す』。それが私たちの新しい経営方針です」
リリアの言葉に、マルクスが杖を再び床に打ちつけた。
「よし。諸君、投票を取ろう。リリア・フォルテを次期商人ギルド統領として選出することに賛成の者は?」
ローレンスを除いて、ほぼ全員の手が上がった。中には、利益計算に心を奪われた者も、新しい体制に惹かれた者もいるだろう。だが、結果は同じだ。
「よし。では、リリア・フォルテ、貴女を商人ギルド統領として任命する。この瞬間から、奴隷制度を支持する者は、ギルドから除名される」
マルクスの言葉が、正式に宣言された。
リリアは、その椅子に腰を下ろした。かつて、奴隷商人がそこに座っていた。その同じ椅子に、被害者が座った。
ローレンスは、黙ったまま広間を後にした。彼と同じく、何人かの商人が彼に続く。損失は避けられないだろう。だが、ギルド全体としては、新しい方向へ舵を切ったのだ。
アルトは、広間の隅でそれを見守っていた。彼の視界の端には、かつてリリアが鎖に繋がれていた地下への階段が見える。その階段は、これからは違う用途になるだろう。倉庫、あるいは研究室。奴隷を保管する地獄ではなく、新しい商品や技術を生み出す場所へ。
リリアが統領の椅子から立ち上がり、アルトを見つめた。その目には、決意と感謝が混在していた。
「アルト様。新体制の構築にあたり、貴方の支援を願いたいのですが――」
だが、アルトは首を振った。
「リリア。お前はもう、独り立ちしなければならない。契約ではなく、自分の力で」
その言葉に、リリアは唇を噛み締めた。確かにそうだ。セリアの改革により、強制的な契約は存在しなくなった。残されたのは、相互の選択と信頼だけ。
「分かりました。では、新しい統領として、自分の言葉で皆さんに呼びかけます」
リリアは、広間全体に向き直った。
「商人ギルドの皆さん。これからの時代は、奴隷を売買する時代ではなく、『人間の可能性を引き出す時代』です。一緒に、その新しい世界を作りましょう」
その言葉が、広間に響き渡った時、アルトは静かに広間を後にした。
廊下を歩く彼の足は、重い。セリアへの思いは、まだ癒えていない。だが、彼は知っていた。セリアが設計した新システムには、死者蘇生の機能が組み込まれていたことを。あと数日で、彼女は蘇生するはずだ。
その時が来るまで、アルトは『待つ』しかなかった。
そして、その待つ時間の中で、彼は気付き始めていた。リリア、ニナ、シャーロット、イザベラ――彼女たちが、もはや彼の『契約者』ではなく、『仲間』になっていることに。
強制された約束ではなく、自由に選んだ関係。それこそが、セリアが最後に遺した『約束』だったのだろう。
階段の下から、ニナの声が響いた。彼女は、北大陸での獣人領の自治構築から戻ってきたばかりだという。その声には、いつもの激しさではなく、どこか疲労が混じっていた。
新しい世界の構築は、予想以上に困難なものになっていた。




