第103話 獣人自治区建国
北大陸の中央にそびえ立つアイアン山脈。かつては帝国の支配から逃れた獣人たちの隠れ場所だった。今、その麓の広大な平原に数千の獣人が集まっていた。
「ニナ・ウォルフハート、北大陸獣人自治区の初代首長に選出されました」
白髪の老獣人が、獣骨で作られた高いステージの上で声高に宣言する。それは獣人たちの伝統的な儀式の言葉だった。ニナはステージの上に立ち、足元に集う同族たちの顔を見下ろしていた。
その目には涙がある。
「俺たちが……自分たちの土地を持つ。自分たちの国を持つ」
ニナが低く呟く。狼族の尖った耳が前に倒れた。獣人ながらも圧倒的な存在感を放つ女性。かつては帝国の奴隷だった少女は、今や千人以上の獣人たちの指導者となっていた。
選出式に参加する獣人たちの多くは、何らかの形で帝国の支配を受けていた者たちだ。ウェスタリア帝国の奴隷商人に売られた者、領主の領地で働かされていた者、帝国兵に家族を奪われた者。数千年の差別と支配の歴史が、この一瞬で転機を迎えようとしていた。
「俺たちは人間じゃない。獣人だ。亜人だと言われてきた。でも、今からは違う」
ニナが掲げた拳は、夕陽に照らされて黄金色に輝いていた。
「俺たちは、獣人だ。誇りを持つ獣人だ。そして、自分たちの国の国民だ」
歓声が上がった。
人間的な言葉ではなく、獣人たちの本能的な叫び声だ。狼の遠吠えのような、熊の唸り声のような、猫科動物の咆哮のような。様々な獣族の声が重なり合い、北大陸全体に響き渡る。
舞台の側で、その光景を見守る者たちがいた。
アルトはセリアが埋葬されたアレクサンドル魔術師塔跡地から、わざわざこの北大陸まで足を運んできたのだ。シャーロットは三大陸統治の調整で忙しく来られなかったが、アルトは「ニナの最大の転機を見守るべき」と考えていた。
アルトの隣にはグレッグがいた。冒険者ギルド長は、新しい時代の政治体制がどのように機能するかを観察するために来ていた。
「凄いもんだ。奴隷から首長へ。世界は本当に変わったなあ」
グレッグが感慨深く呟く。
「ニナは強い。帝国の支配を受けても、自分を失わなかった。だから、この瞬間が実現できたんだと思う」
アルトが答える。その声には、微かな疲労が混じっていた。セリアの死から数日しか経っていない。心身ともに消耗しているはずだ。だが、アルトはニナのためにここにいることを選んだ。
「お前さんは、ニナのことが好きなのか?」
グレッグが急に直球の質問を投げかける。
「……好きだ。ニナも、シャーロットも、リリアも、イザベラも。セリアも」
アルトが答える。その答え方は、グレッグを少し困惑させた。
「いや、俺が聞きたいのはそういう意味じゃなくて。恋愛的な意味で、だ」
グレッグが言葉を補足する。
「…………」
アルトは答えない。代わりに、ステージの上のニナを見つめている。
ニナが、帝国の旗を燃やしている。かつての支配の象徴を、白い炎で焼き払う儀式だった。火が赤く燃え上がり、帝国の黒いシンボルが黒い灰となって天に舞う。
「ニナ。お前は俺の契約者ではない。今、俺たちは対等な仲間だ」
アルトが小声で言葉を紡ぐ。
「だから、お前が決めた道を歩むことを。心から応援する。それだけだ」
「……お前、気づいてるのか?」
グレッグが声を落とす。
「何を?」
「新しいシステムになった後も、ニナはお前を見てる。リリアも、シャーロットも。それに……」
グレッグが言い淀む。
「セリアのことか?」
アルトが先に言った。
「ああ。あの天才魔術師はシステムに自分の死者蘇生機能を仕込んだ。七日以内に蘇生するはずだ。だが、お前はセリアのことをどう思ってるんだ?」
「…………」
アルトは、またも答えない。
ステージの上でニナが、獣人自治区の初代首長としての宣言を行っていた。その内容は、シャーロットやリリアと事前に調整された、実践的なものだった。
「俺たちは、相互選択の新しい世界を作る。獣人だけの世界じゃなく、人間との共存の世界だ。だが、その前に。俺たちは獣人として、自分たちの誇りを取り戻す。千年の差別と支配に、終わりを告げるんだ」
その言葉に、再び歓声が上がった。
ニナが舞台から降りると、近くにいた老獣人たちが彼女を囲む。彼らは祝福の言葉を述べ、獣人たちの伝統的な儀式を行い始める。肩に手を置き、額を合わせ、互いの力を確認する儀式だ。
やがて、その儀式の輪が広がり、数千の獣人たちがニナを中心に儀式を行う。それは、帝国の支配下では決して許されなかった光景だった。
アルトはそれを見守りながら、ふと思う。
ニナはもう、俺の助けを必要としないんじゃないか?
その思いは、同時に喜びでもあり、寂しさでもあった。
「お前、本当に疲れてるな」
グレッグが肩を叩く。
「セリアが蘇生したら、一度休息をとったらどうだ。新しい世界の構築は、急ぐ必要はない。それこそが、新しい時代の在り方じゃないか」
グレッグの言葉は、確かに理に適っていた。
だが、アルトは首を横に振る。
「シャーロットが帝国の調整で苦労している。リリアも商人ギルド統領として経済的な再構築に奔走している。それに比べたら、俺は……」
「お前は、もう『救済者』じゃない。ただの『仲間』だ」
グレッグが遮る。
「だったら、仲間として、できることをすればいい。無理に全てを背負う必要はねえんだ」
アルトは、その言葉に耳を傾けた。
儀式はまだ続いている。ニナの周囲を囲む獣人たちの声は、やがて統一され、一つの歌へと変わっていった。それは、かつて奴隷時代に彼らが口ずさんでいた、自分たちの民族の古い歌だった。帝国の支配下では禁止されていた歌。
その歌声に、涙を流す獣人たちも多かった。
やがて、儀式の最後として、ニナが北大陸の新しい旗を掲げた。それは帝国の黒と金ではなく、獣人たちの伝統色である深い青と、自由の象徴である白で描かれていた。旗には、複数の獣族を象徴する刻印が刻まれていた。
狼、熊、猫、鳥、爬虫類。かつて帝国に支配された全ての獣族が、一つの旗の下に集う。
「北大陸獣人自治区。初代首長、ニナ・ウォルフハート」
白髪の老獣人が、再び高らかに宣言する。
「独立した獣人社会の始まりだ」
その時、アルトの胸ポケットから、小さな光が漏れ始めた。
新しいシステムコアだ。セリアが仕込んだ、蘇生機能を持つシステム。その時が、まだ来ていないはずなのに。
「アルト。何か起きてるのか?」
グレッグが見守っている。
アルトが胸ポケットから、システムコアを取り出すと、その光はさらに強くなった。
蘇生予定は七日後のはずだった。
だが、コアが示す光は、確実に何かが起こりかけていることを示していた。
ニナが獣人たちの歓声の中で、ふと、アルトの方を見やった。
その目が、システムコアの光を捉えた時、ニナの表情は急速に変わった。
何かが、起こる。




