その8
太陽を愛する、帝国人の朝は早い。
だが、第三皇子アッサール・ベル・イーデンヴォルフレッドの朝は、庶民たちのそれ以上に早かった。
本来であれば、政務の書類を検分しているはずの早朝6時。
アッサールは自邸の厨房で、腕まくりをした漆黒の軍服姿で佇んでいた。
厨房とはいえないような異様な空気が漂っている。
「……温度が三度低い。やり直しだ。再度湯を沸かせ」
「は、はひっ! 申し訳ございませんアッサール殿下!」
おののく帝室御用達の専属茶師から手渡されたティーポットを前に、アッサールは一切の妥協を許さない眼差しで茶葉の抽出時間を計っていた。
モーニングティーの黄金色の水色、そして立ち上る甘く芳醇な香り。
彼が自ら茶葉を選定し、湯温を極限までコントロールして淹れる一杯。
これは毎朝、ミルフィーのアトリエへと捧げられる祈りの聖水であった。
「……よし。完璧だ」
納得のいく一杯を銀のトレイに乗せ、アッサムは静歩でミルフィーのアトリエへと向かう。
本日も神が健康でありますように、という彼なりの祈りなのである。
ドアの前で一息つき、己の厳めしい顔筋を緩めようと試みる。
が、長年の戦での活躍と、それ以上に限界オタク特有の緊張により、結果として今日も獲物を狙う猛禽類のような凄まじい威圧感のある顔面が完成するのだった。
コンコン。
「ミルフィー。朝の茶を持ってきた」
「はーい! アッサム様、入ってください!」
扉を開けると、そこはかぐわしい紅茶の香りと対照的な魔導陣工房だ。
陣術の本が所狭しと置いてあり、朝日が差し込む部屋の床一面に、何枚もの羊皮紙が広げられている。
その中央で、フリルとレースで装飾された可憐なドレスを着た童顔の少女が、両手を青と黒の魔導インクでドロドロに汚しながら、嬉々としてペンを走らせていた。
「おはようございます、アッサム様! 見てください、昨日思いついた『第三世代防衛陣の魔力干渉を5%カットする新構造』です! これ、凄くないですか!?」
無邪気に満面の笑みを向けてくるミルフィー。
アッサールはドクン、と心臓が跳ね跳ねるのを感じながら、必死に鉄の仮面を維持した。
(可愛い。朝日に透ける巻き毛、インクのついた小さな指先、そして私に向けられる無防備な笑顔。神よ、これが現実なのか。いや、彼女こそが神か。今すぐ抱きしめて我が妻としたい……じゃない、いやいやいやいやだめだ。人間と神は一線を越えてはならん!)
脳内で激しい悶絶を繰り広げながら、アッサールは粛々とトレイを机に置く。
「……見事だ。完璧な線取りだな。だが、まずは茶を飲め。作業に没頭して朝食を抜くのは体に良くない」
「わぁ……! 今日もすごく良い香りですね! アッサム様の淹れてくださるお茶って、本当に世界一美味しいです!」
ふはぁ、と口元をゆるめて淹れたてのモーニングティーを味わうミルフィ。
可憐な顔立ちではあるが、よく見ると眉毛に寝癖がついている。
しかし、そんな無防備な隙さえも至高。
推しの姿を横目に、アッサムは静かに拳を握りしめていた。
(『世界一美味しい』……!? 伝わっている。私の、いや我々ファンのディミロスへの愛が、一杯の茶を通して彼女の体に染み渡っている……! これはカネラ殿に連絡せねばならんな)
アッサールは成功した限界オタクであった。
彼は第三皇子として己に与えられた全ての権力と資金力をもってして、魔陣術師 ✝ディミロス✝ を保護しようとしていた。
以前から交流のあった隣国の公爵令嬢カネラによって、縁を貰った時には見境なく飛び付いた。いや、下心など無い。全くない。ただ、稀有な魔陣師をくだらないことで失うのは国家の損失だ。保護しなければならない。
(よし、今日の健康状態も良好そうだな)
朝食が終わると、監視という名のファンミーティングが本格化する。
ミルフィーが集中して作業に入ると、アッサールはアトリエの壁際に椅子を引き寄せ、仁王立ちならぬ仁王座りをどっかりと決め込む。
黒軍服の巨漢が、部屋の隅で呼吸を殺してこちらを見つめているのだから、普通なら生きた心地がしない。
だが、こちらはこちらで。
ミルフィの脳内変換フィルターは無事に本日も稼働していた。
(……んん〜っ! 今日の『漆黒の竜』も、すっごく真剣な目つきで陣図を見てるうう!)
アトリエの壁際で、男は静かに腕を組んでいる。漆黒の軍服。金糸で刺繍された竜の紋章。切れ上がった氷の瞳。そして、立っているだけで周囲の空気が重くなるような圧倒的な覇気の威圧感。
ミルフィーの心臓は、作業を始めてからずっとバクバクと暴れていた。
(やばい……やばいわ……! アッサム様、どこからどう見ても『伝説の漆黒の竜』そのものじゃない……っ! ✝ディミロス・ドラゴン✝を擬人化したら確実にああなるわ!)
ミルフィーは羊皮紙に顔を近付けながら、必死に動悸を抑え込んでいた。
なにせ、彼女のコードネーム『✝ディミロス✝』のイメージカラーは漆黒。イメージキャラクターは竜なのだ。まさにその通りのイメージの人間が現れたといっていい。
アッサムの見た目や纏う雰囲気は、自分の癖と憧れをこれでもかと煮詰めた最高のビジュアルなのだ。
(カッコいい……! 立ち姿がもう完全に漆黒の覇王竜……! 爪の先から髪の毛一本までデザインが神がかってるわ……! 宝物って感じの剣もいかしてるわ……!)
もし、魔獣との戦いなんていうのがあれば、アッサム様も参戦なさるのだろうか。更には、かっこいいポーズを決めたりなさるのだろうか。
例えば、上体を低くして両足を開き、両手で剣を、口でもう一本短い剣を持ったりなんかして。
(漆黒の竜の三刀流……いいえ、三刀竜!?)
「おい、顔が赤いぞ。熱でもあるんじゃないのか」
その瞬間、ガバッ! と男が影のように間合いを詰め、ミルフィーの額に自分の大きな手をかざした。
影にすっぽりと覆われる。
アッサムから漂う茶葉のような甘い香りと、あたたかな体温。
ミルフィーの視線は、アッサムの胸元に輝く十字のブローチに釘付けになった。
(わあぁぁ!! リアル十字!! かっこよすぎる!! 黒竜の圧が凄すぎる……っ!!)
「大丈夫です! ちょっとお茶を飲み過ぎて、血行が良いだけです!!」
赤面して後ずさるミルフィーを見て、アッサムは胸の奥で密かに悲鳴を上げていた。
(……なんだ? まさか威圧感で怯えさせてしまったか!? 漆黒の軍服など脱いで、もっと柔らかい色の服を着るべきだったのか!?)
ミルフィーはその漆黒の軍服にこそ大興奮しているのだが、知る由もなかった。




