第129話:「転移数カ月後の一幕」──従魔は振り返らない
~時は進み──ミコトがルナティアに転移してしばらく経った頃──その一幕~
深い森の奥へと、
ミコト、アンナ、ミカドの一行は静かに進んでいた。
──アンナは『案内人スキル』のため、その場に実体はない。
頭上では木々が幾重にも枝を重ね、
昼間だというのに光はほとんど地面に届かない。
薄闇の中、湿った空気がまとわりつく。
先頭を歩くミカドは、一度も振り返らない。
ふさふさな背中が、草を押し分けながら黙々と進む。
(「…………」)
その沈黙は、森の静けさと同じ重さを持っていた。
眼下の茂みは膝より高く、
踏みしめるたびにしっとりとした感触が靴底に残る。
鳥の声もなく、風もほとんど流れない。
ただ、茂みの奥から漂う土の匂いだけが──ゆっくりと肺に満ちていく。
ミコトは、ミカドから少し距離を置いて歩いていた。
(「…………」)
それは──仲違いしているわけではない。
ミカドが“見たくないもの”を見ないようにと、
ぐいぐい歩を進めるため、自然と距離が開いてしまうのだ。
ミコトの身体を覆うのは──重厚な防虫スーツ。
それは、まるで宇宙服のように物々しく、
全身を隙間なく覆い尽くす、ダニ一匹すら通さない密閉構造。
顔の部分が特に宇宙服のようで、
すっぽりと細かな網で覆われ、光を受けるたびに鈍く反射する。
(「かなり蒸し暑いけど──」)
(「生活スキル『浄汚』で一瞬でサッパリするから助かる」)
──スキルの消費MPは、すぐに回復する程度のため問題はない。
しかし──ミカドは、この防虫スーツがどうしても苦手だった。
森の薄闇の中、
二人の距離だけが、
静かに、確かに揺れていた。
ミコトは、重厚な防虫スーツを傷つけないよう慎重に歩く。
宇宙服のような頭部の網越しに、薄暗い森の光が揺れる。
(「ミカド~」)
先頭を歩くもふもふな背中が、ぴくりと揺れた。
(「チュ?」)
(「もしかして怒ってる?」)
(「怒ッテ、ナイナイ」)
返事はしてくれる。
けれど、やっぱり振り返らない。
(「ぜんぜんこっち見ないじゃん?」)
(「……」)
(「見タラ終ワリ……」)
その言葉に、網の奥で口元がゆるむ。
(「ミカドちゃ~ん、こっち向いて~」)
(「向カナイ!」)
(「ねーねー」)
(「ブギュ!」)
(「見タラ終ワリ……無理ッ!」)
ミカドの無言の背中は、
草をかき分けて前へ前へと進む。
ミコトは、そんな反応が可愛くて仕方なく、
ついからかってしまう。
(「でも──」)
歩きながら、ふっと息を漏らす。
(「この状態でも、こうやって会話できるのは良いね」)
(「ウン!」)
──ミコトとミカドは、アンナの能力『心話』によって、テレパシーのように頭の中で会話ができる。
『心話』が、二人の距離をいとも簡単に埋めてくれる。
そんな時だった──
ミコトの肩に、
上から“コトリ”と何かが落ちてきた。
薄暗い森の光の中、
小さな影がスーツの肩で跳ねる。
だがミコトは、まったく動じない。
その影を払うことすらしない。
虫が苦手な人は結局のところ──ソレが“身体に触れる”のが嫌なのだ。
完全密閉のスーツ越しなら、
その嫌悪の根が断たれる。
(「……ふぅ」)
ミコトは静かに息をつき──
取り乱すことなく、落ち着いたまま歩みを続けた。
そんな二人の他愛無いやり取りの中に、
少し申し訳なさそうな気配が、
森の湿った空気の中でふわりと揺れた。
アンナの心話が、そっと届く。
(「ミコトさん、例の『ライト属性』への嫌がらせの件ですが──」)
ミコトは頭上に垂れ下がる枝を、
左手で静かに押しのけながら歩を進める。
(「おっ、なにか進展あった?」)
──異世界ルナティアには、日頃の言動を評価する『善悪評定』システムが存在する。
──すべての人類は“善悪の属性”をステータスとして持ち、
──ライト、ブルー、グリーン、レッド、ダーク──と、五つの色に分類されている。
アンナは、少し息を整えるように間を置いて続けた。
(「はい、『ライト属性』への嫌がらせを意図した言動に対しては、」)
(「ペナルティの『マイナス評価』が強化されることになりました」)
ミコトは小さく頷く。
防虫スーツの肩がわずかに揺れた。
(「なるほど、少しは抑止力になるかも」)
(「今だと、嫌がらせに腹を立てた方も、“どっちもどっち論”で同じペナルティみたいだからね」)
(「でも、それと併せて──ライト属性への救済措置も欲しいな」)
アンナが一瞬だけ黙る。
考える時の、あの静かな気配。
(「救済措置ですか……?」)
(「うん、もしマイナス評価になるような言動でも──」)
(「嫌がらせが原因だった場合は許される、のような」)
アンナの心話が少し明るくなる。
(「なるほどです──」)
(「すぐに提言します!」)
そのアンナのいつもの素直さに、ミコトは思わず口元を緩めた。
(「ありがとう、よろしく!」)
(「はい!」)
こういったやり取りは、歴代の勇者でも──
アンナこと『案内人スキル』と密に接していれば可能だった。
もしそうしていれば、
もっと早く、もっと多くのライト属性が、
理不尽な思いから救われていたかもしれない。
巨木の根が大きく盛り上がった場所で、
ミコトは足を止め、腰を下ろした。
草が擦れる音と、
湿った土の匂いが漂う。
腰のあたりまで茂みに埋もれるが、
重厚な防虫スーツのおかげで不快感は一切ない。
──もし、危険な生き物が潜んでいても、
アンナの能力『周辺把握』で“半径100メートル”以内はすべて分かる。
深い茂みの中でも、ミコトは安心して息をつけた。
少し先では、ミカドが背中を向けたまま丸くなっていた。
振り返る気配はない。
やがて立ち上がり、
スーツの足に付いた草を軽く払う。
(「休憩終わり~お待たせ!」)
(「ハーイ」)
ミカドは疲れ知らずの足取りで、
また振り向きもせずに歩き出す。
草を押し分ける音だけが、森に細く響く。
(「しかし──」)
ミコトは湿った空気を吸い込みながら続ける。
(「ライト属性の足を引っ張ろうとする人が──意外なほどいたよね」)
その言葉に、
アンナの心話が弱々しく震えた。
(「はい……申し訳ありません……」)
(「一般の生活に、あのような問題があるとは……認識していませんでした」)
ミコトは慌てて、防虫スーツのむっくりした手を横に振る。
(「いやいや、アンナが悪いわけじゃないから」)
(「はい……」)
アンナの声はどこか沈んでいた。
ミコトは歩きながら、
過去の記憶が胸の奥で静かに揺れるのを感じる。
──ミコトは大きな街で活動していた頃、ライト属性というだけで多くの嫌がらせを受けた。
ブルー属性、グリーン属性の中には、
ライト属性に強い嫉妬心を抱く者が多くいる。
神官や名家のように守られているライトなら諦めるが──
それが一般の者であれば──
なんとしてでも引きずり落とそうとしてくる。
(……だから、ライトでしか使えないスキルは……)
用心深いミコトは、
もしブルーに落ちても致命的にならないよう、ライト専用スキルを避けている。
だが、ライト属性には──“本人が承諾しなければ、鑑定されない”──という、大きな特典もある。
ミコトは、自分のステータスに──
“でーん”と構える『転移勇者』の『称号』を隠して行動したかった。
そのためには、
ライトで居続ける必要があった。
そんな生活に辟易としていたミコトは、
ひとつの結論へと辿り着いた。
(人と関わるからマイナス評価がつくんだよ……)
(つまり──人のいないところに行けば大丈夫)
だから──
ミコトは森で暮らすことを選んだ。
(アンナとミカドが一緒だから大丈夫!)
そう確信できた。
だが、ただ暮らすだけでは、
“怠惰”のマイナス評価がついてしまう可能性があるため、
森で魔物を狩り、日々の行動を積み重ねている。
そして、ミコトは転移前から考えていた方針に沿って動き出す。
(「このまま魔族領にまで足を延ばして──色々と偵察しよう」)
(「先代の十代目勇者のように!」)
アンナとミカドが、力強く同意する。
(「はい!」)
(「オウ!」)
本来、人にとって森より人里の方が、言うまでもなく安全だ。
異世界転移の物語でも、
“まずは人里へ向かう”のが鉄則。
だが──
ミコトにとっては違っていた。
アンナの『周辺把握』があれば、
半径100メートル以内の危険はすべて分かる。
そして何より、
森林では──ミカドが無敵だった。
──生まれながらの俊敏さ、
──敵の大きさに合わせて変化するスキル、
──高速思考スキル、
それらが絶妙に噛み合い、
どんな敵でも立体機動で翻弄し、仕留めることができる。
唯一苦手なのは、小さく数の多い相手だが、
それはミコトが現代知識で対処できた。
人里より森の方が安全──そんな異世界生活があるなんて、誰が想像できただろうか。
薄暗い森の中、
ミコト一行の歩みだけが息づいていた。
かなり歩いたところで、
ミコトは本日何度目かの『浄汚』を発動した。
スーツの内側にこもった湿気が、ふっと消えていく。
(「また少し休憩お願い~」)
(「ハーイ」)
ミカドは素直に立ち止まる。
だが──やはり振り向かない。
可愛い背中は、草に沈んだまま拒絶を告げる。
ミカドが防虫スーツを苦手なのは、
気味が悪いからでも、怖いからでもない。
見たら──笑いが止まらなくなるから嫌なのだ。
──もともと面白みのある見た目なのもあるが、特に最初がいけなかった。
──ルナティアに転移した初日、森で夜を越すことになったミコトは、防虫スーツに着替えることにした。
(「アンナ、防虫スーツを収納スキルから出して」)
(「はい、承知しました」)
(「もしよろしければ、取り出す際に“身に着ける”ことも可能ですよ」)
ミコトの声が弾む。
(「おぉ! そんなことできるんだね!」)
(「助かるよ、お願い~」)
過去に勇者の世話をほとんどできなかったアンナも、嬉しくて声を弾ませた。
(「はい!」)
(「では、少しジャンプしてください」)
(「足が地面についてるとやりにくいってことかな?」)
(「はい、その通りです!」)
(「了解! じゃあ──」)
ミコトは軽く膝を曲げ──“ピョン”と跳ねた。
その瞬間だった。
──ミカドはそれを真正面で見ていた。
──ミカドは、他にやることがない時は、常にミコトを見つめている。
そのため、跳ねたミコトの姿が──
一瞬で“宇宙服のような重厚な防虫スーツ”に変わった光景を──
真正面から受け止めてしまった。
その衝撃はあまりにも強烈で──ミカドは笑いが止まらなくなった。
転げまわり──毛並みがボロボロになり──
一夜明けるまで笑っていた。
それ以来、ミカドは防虫スーツを視界に入れると──その瞬間が鮮明に蘇る。
そして──
今はもっと状況が悪い。
長い森の生活で防虫スーツはあちこち傷み、
そのたびにミコトは、用意していた“銀色のアルミテープ”で×印に補強する。
それが──右頭部──右肩──左脇──右膝──の四箇所にあり、
なんとも言えない“わびしい雰囲気”が滲み出ていて──
さらに笑いを誘うのだ。
だから、ミカドは絶対にミコトの方を見ない。
今日も──
前だけを見て黙々と歩いている。




