第9話 叔母上の目
叔母上は、馬車に乗らなかった。
領境の件には測量が要る。測量には人が要り、その人数を決めるのは次の評議だ。次の評議までここにいる、と叔母上は言った。断る作法がない。客間は南の二番目を用意した。窓が東で、朝が早い部屋だ。それくらいしかできることがなかった。
卓の上でこしらえた日数が、そのまま叔母上の滞在の日数になった。
◇
三日目の朝、東の間に椅子が二脚出ていた。
長卓は畳んである。椅子は卓を挟まずに、正面から向かい合わせに置いてあった。北の椅子が叔母上。南の椅子は窓に向いている。座った者の顔に、朝の光が真っ直ぐ当たる。
この人も、座らせ方を知っている。
「屋敷の者から、順に話を伺うそうでございます」オズワルドが言った。「順は、そちらで組んで結構とのことです」
「人数は」
「二十一名。庭番から下働きまで、残らずと」
「刻限は」
「お決めになっておりません。終わるまで、だそうです」
わたしは組んだ。庭番から。次に馬丁。それから洗い場の者、侍女を一人、また洗い場、また侍女。同じ持ち場の者を続けて呼ぶと、答えが揃う。揃った答えは作ったものに見える。持ち場を交互に呼べば、話がばらつくのが当たり前になる。ばらつきは、屋敷を守る。
コック長は、いちばん最後にした。
九人目までは、順が守られた。十人目を呼びに行こうとしたところで、扉が開いた。
「厨房の長を」
「……順では、十四番目でございます」
「いま呼んでちょうだい」
◇
コック長は帽子を取って入ってきた。
卓が畳んであるので、帳面を置く場所がない。叔母上は膝の上で開いた。厨房の帳面だ。日ごとの献立と、分量が書いてある。十年ぶん、年ごとに一冊。棚の上から二段目に立ててあるのを、わたしは毎日見ている。
「奥様の分だけ、別に書いてあるのね」
「お加減がございますので」
「最初の一年。塩ひとつまみ、酢はなし、油は使わず」叔母上は頁を繰った。指の動きが速い。「これは病人の食事だわ」
「はい」
「二年目の春から、塩が三つまみになっているのはなぜ」
コック長は答えなかった。
「三つまみは、この家の並みの味付けね。下の頁の、使用人の鍋と同じだわ」
「……さようでございます」
「胡桃も抜けているわね。四年目の秋から、一度も入っていない。病人が、四年目に胡桃を嫌いになるものかしら」
わたしは扉のところに立っていた。胡桃は、四年目の秋にわたしが噛んで、奥歯が欠けかけた。あのとき厨房へ言いに行ったのは自分だ。奥様の分から抜いてほしい、と言った。理由は言わなかった。訊かれもしなかった。
「誰の口に合わせたの」
「……奥様のお口に」
「奥様は十年、床から出ておられないのでしょう」叔母上は帳面を膝の上で閉じた。「床の上のお口が、十年で肥えるものかしら」
厨房の者が三人、廊下に立って中を見ていた。誰もわたしの顔を見なかった。見ないというのは、知らないということではない。
「答えなさい」
「わたくしどもは」コック長は帽子を握った。「同じように作れと言われて、十年、同じように作ってまいりました」
「誰に言われたの」
「……先の年から、そう決まっておりましたので」
誰も命じていない。屋敷が、そうしていた。
「奥様」
叔母上が、扉のほうを向いた。名を呼ばれたのは、その名のほうだった。
「はい」
「四年目の秋に、何がございましたの」
答えないという手はある。奥様は厨房の帳面を見ない。見ないから知らない、で通る。通るが、この人は次にコック長へ同じことを訊く。コック長は今日、二度も黙った。三度目は黙れない。
「医師が止めました」わたしは中へ入った。「殻の硬いものを、噛ませぬようにと」
「どちらのお医者様」
「フェンウィック先生でございます。丘の下の、鐘楼の東」
叔母上は帳面を開いて、その名を書いた。書く速さが、さっきより遅かった。文字を確かめながら書く人の速さだ。
鐘楼の東までは、丘を下って半刻とかからない。使いを出せば、日のあるうちに戻る。名を書き留めた人は、たいてい翌日に人をやる。
わたしはそれを見ていた。
奥様の死を知っている者は、この屋敷に四人しかいない。わたしと、オズワルドと、医師と、あとひとり。四人だったはずだ。十日前に旦那様が加わって、五人になった。書斎の燭台がひとつだけ点いていた晩からだ。数えたのはそのときで、それきり数えていない。
あとひとり、を、わたしは名前で数えてこなかった。名前にすれば、その人が何を見たのかを考えることになる。
あの朝、鐘楼の東まで走ったのは馬丁のトーマスだ。先生の鞄を提げて丘を上がって、二階の東の端まで案内した。扉の内側へ入ったのか、廊下で待ったのかを、わたしは見ていない。訊いたこともない。
フェンウィック先生の名は、いま叔母上の帳面に入った。次に人をやるとすれば、行き先は丘の下だ。馬を出すのは、あの朝と同じ者になる。
「結構よ」叔母上は帳面を閉じた。「下がって。厨房の子を呼んでちょうだい」
◇
ミルカは、盆を持ったまま入ってきた。
「置いてから話しなさい」
「はい」
「あなた、評議の日に卓の札を触っていたわね」
「触りました」
「誰の指図で」
「奥様です」
「どの札を、どこへ」
ミルカは目だけを動かした。数えている顔だ。
「東の南の端のを、西のいちばん南に。もとの西のいちばん南のは、抜いて奥様に渡しました」
「札の名は」
「読めません」
「名を読まずに、卓の並びを覚えているというの」
「かたちで覚えます」
「かたち」
「うちの木じゃないです。薄くて、角が落ちてません。うちのは丘の楡なんで、厚くて角が丸いんです」
叔母上の指が、帳面の上で止まった。
「ほかには」
「一枚だけ、誰も座らない札があります。東の、北から三番目です。座る人がいないので、卓が終わるまで動きませんでした」
叔母上は帳面を閉じた。閉じる音がした。
「読めないくせに」
ミルカが、口を開けたままで止まった。
「覚えたつもりになっているだけでしょう。読めない者の言うことは、どこにも記されないの。記されないものは、無かったのと同じよ」叔母上は膝の上で手を組んだ。「あなた、いま何を言ったか、明日には言えなくなるわ」
ミルカは何も言わなかった。前掛けの端に、手が行かなかった。困ったときにこの子が必ずすることを、しなかった。両手を下げたまま、椅子の脚のあたりを見ていた。
「もう結構よ」
ミルカは頭を下げて出ていった。足音がしなかった。
◇
廊下でミルカに追いついた。
「ミルカ」
「はい」
「三日前の卓を、もう一度言って」
「……なんでですか」
「わたしが書き取るから」
ミルカは廊下の壁を見た。それから言った。北から順に、かたちで。薄い札、角の立った札、字のいちばん長い札、誰も座らない札。言い終わるまでに、間違いは一つもなかった。
わたしは紙に書いて、日付を入れて、隅に線を引いた。隅の線は控えの印だ。十年、席次表の控えには全部これを引いてきた。地下の物置の三段目に、年ごとに紐で括ってある。
それから厨房へ寄って、料理番の長に印を捺してもらった。屋敷の帳面に名を書けるのは三人だけで、そのうちの一人がこの人だ。何の紙かは訊かれなかった。訊かずに捺す人だから、頼んだ。
「これ、何になるんですか」
「記録」
「あたしの?」
「あなたの」
「日付は」
「入れたわ」
「あたし、読めないんですけど」
「読める人が要るときに、わたしが読む」
ミルカは紙のほうを見ていた。前掛けには、まだ手が行かなかった。
◇
その晩、厨房に旦那様が下りてきた。
公爵が厨房に下りた例を、わたしは十年で一度も知らない。コック長が匙を落とした。落とした匙を拾う者がいなかった。
「奥様の分は」
「……ございます」
「ここで食う」
旦那様は下働きの腰掛けに座った。皿が出た。野菜を煮崩したもので、塩は三つまみ、胡桃はない。
匙は厨房のものだ。柄が短く、先が薄い。上の階のものとは重さが違う。この人は持ち替えなかった。
この人は、十年、必ず半分残す。婚礼の晩からそうだった。
皿は空になった。
「うまい」
一言だった。厨房のどこかで、誰かが息を吐いた。誰が吐いたのかは分からなかった。八人のうちの誰でもありえた。
コック長は帽子を両手で持ったまま、頭を下げた。下げたまま、しばらく上げなかった。
旦那様は立ち上がって、階段のほうへ歩いていって、二段目で止まった。
「ユーニス」
半拍あった。人の前では、それより短くならない。
「はい」
「帳面は、しまっておけ」
それだけ言って、上がっていった。
厨房の八人が、揃って自分の手元を見ていた。誰も、いま呼ばれた名を訊かなかった。
◇
わたしは棚の前へ行った。厨房の帳面は上から二段目に、年ごとに立ててある。背が古い順に色が薄い。十冊。
九冊だった。
二年目の一冊がない。抜けたぶんだけ、隣の帳面が斜めに倒れている。倒れた側の埃が拭われていて、そこだけ板の色が濃かった。拭いた者は、抜いた跡を隠す気があった。隠す気があって、埃を拭くという手順を選ぶ人間を、この屋敷でわたしは一人しか知らない。
床に、羽根ペンの削りかすが二つ落ちていた。
【本日の席次】東の間・長卓は畳まれ、椅子が二脚。北に叔母上、南は窓向き。呼ぶ順は、こちらでは決められませんでした。
制作の話をひとつ。
この回でいちばん書きたかったのは、叔母上でも主人公でもなく、厨房の八人です。十年、誰も命じていないのに、味だけがそっと変わっていた。命じられていないことをやり続けるには、全員がうすうす知っていないと無理なんです。知っていて、訊かないでいた。
それは優しさなのか、保身なのか。たぶん両方で、その両方を分けずに十年やれてしまうのが、家というものだと思います。
みなさまの職場にも、たぶん一つや二つあると思います。誰も決めていないのに、なぜかそうなっている決まりが。
次回、署名の練習をいたします。奥様の字は、行の終わりに向かって下がっていきます。




