第10話 奥様の字
署名を三十枚書いた。
使うのは屑になる紙だ。書き損じの裏、封を切った封筒の内側、菓子を包んでいた薄紙。屋敷の帳面に載る紙は使わない。載る紙が一枚減れば、どこかで数が合わなくなる。
アデライド・クレスウェル。
三十枚のうち、二十四枚は使える。六枚は最後の一画に力が残った。奥様の字は行の終わりに向かって下がっていく。長く床にいた人の手は、腕の重みを紙に預けたまま止まらない。わたしの手は止まる。止めないようにするのが、この十年でいちばん手間のかかったところだった。
一年目は形だけ似せた。二年目に速さを合わせた。三年目に、力の抜け方を覚えた。それからの七年で、この字はわたしの右手のほうへ移ってきた。今は自分の字より速い。自分の字がどんな形だったのかは、思い出すのに少しかかる。
三十枚とも燭台で焼いた。灰は庭に捨てず、厨房の竈へ運んで朝の火の下に入れる。
次の評議は七日の後だ。財の議は片づいていない。片づけば署名が要る。要ると分かっているものは、先に書けるようにしておく。
◇
最初の一枚は、婚礼の年の秋だった。
わたしが屋敷に入ったのは十六の年で、婚礼の支度が始まったあとだった。玄関の間に並んだ日、家令が頭数を読み上げた。侍女、八名。わたしはその八のうちの一つだった。
その日の夕方、二階の東の端の部屋で、奥様がわたしの名を呼んだ。
「ユーニス」
わたしは返事をしなかった。呼ばれたと思わなかった。もう一度呼ばれて、三度目でようやく前に出た。
「そんなに驚くこと?」
「……名でお呼びいただくとは、思いませんでしたので」
「だって八人いるのに、八人とも侍女と呼んだら、誰が来るか分からないでしょう」
「みな、そう呼ばれることに慣れております」
「慣れるのと、いいのとは違うでしょう」
理屈になっていない。八人には八つの名があって、そのうち七つを奥様はその日のうちに覚えた。最後の一つはロッタという子で、覚えるのに三日かかった。奥様は三日目にロッタを呼んで、遅くなったと謝った。謝られた本人が、しばらく廊下で泣いていた。
人の名は覚える人だった。卓の上の名だけが、覚えられなかった。
床につく前の半年で、奥様は茶会を三度開いた。三度とも、終わったあとに同じ顔をしていた。ヴィエラ伯爵夫人の姪の名を間違え、ロッシュ子爵の右側から話しかけ、カリス男爵夫人とその義妹を隣に置いて二人を半刻黙らせた。
「今日、カリスのお二人が、ずっと黙っていらしたわ。わたし、何か申し上げたかしら」
「いえ。お隣同士でございましたので」
「隣だと黙るの」
「同じ家からお二人のときは、同じ辺に並べません。片方が黙るか、二人で一つの声になりますので」
「そういうのは、どこに書いてあるの」
「どこにも書いてございません」
「じゃあ、覚えられないわけだわ」奥様は笑った。「書いてあることなら、わたしだって覚えるのよ」
「わたし、人の顔は分かるの。名前も分かるの。並べるところだけが分からない」
四度目の茶会の朝、奥様は支度の途中で立てなくなった。
髪を上げ終えて、手袋をはめる段だった。わたしが支えて寝台へ戻した。客はもう丘を上がってきていて、断る手立ては作法の本のどこにも書いていない。
「ユーニス」
「はい」
「あなた、背が同じね」
「……はい」
「行ってくれる?」
「参ります」
「怖くない?」
「お顔を近くで見た方が、四人おいででございます。遠くに置きます」
「そういうことは、あなたのほうがずっと早いわ」
その日、わたしは薄い青のドレスを着て東の間へ下りた。卓の誰ひとり、気づかなかった。
戻ってきたわたしに、奥様が最初に訊いたのはこれだった。
「今日は、誰と誰が喋ったの」
誰が何を言ったか、ではない。誰と誰が、だ。
わたしは卓の並びを紙に書いた。奥様はそれを膝の上に置いて、指で辿った。辿り終えてから、寝台の脇の紙を一枚こちらへ寄せた。書きかけの席次表だった。上座から四つ目で止まっている。
「あなたの字のほうがきれい。わたしの分も書いて」
「どこまででございましょう」
「全部。わたし、毎回、上座から四つ目で止まるの」
「では、五つ目から」
「そこじゃないわ」奥様はその紙を指で押し戻した。「一つ目から書いて。四つ目までも、たぶん間違っているから」
わたしはそれを、書けという意味だと受け取った。
その秋から、奥様の名で出る紙は全部わたしが書いた。奥様は一度も検めなかった。信用しているからではないと言っていた。読むと直したくなって、直すとわたしの字が減るから、と。
◇
昼前、玄関の脇の帳面を検めた。
使いの者の出入りを書く帳面だ。誰がいつ、どこへ、何を持って出たか。十年、月に一度は目を通す。どの家といつ紙をやり取りしたかを知らずに卓は組めない。返しの遅れている家を上座に置くと、卓が渋る。
奥様が亡くなった日から今日まで、王都行きは十一。役所へ行った者は、いない。
役所へ出した紙には受け取りの写しが戻り、家令がそれを帳面に貼る。二月前の水路の届けは、九日で戻って三枚目の頁にある。
二日目の朝に、書状が一通だけ王都へ出ている。宛先の欄が空だった。
オズワルドは食器室で銀を数えていた。匙を布の上に一本ずつ並べている。
銀を検めるのは月に一度で、今日はその日ではない。
「お尋ねしてもよろしいですか」
「なんです」
「お届けの写しは、いつ頃こちらへ」
「何のお届けです」
「奥様のです」
手は止まらなかった。
「そちらの仕事ではありません」
「水路の届けは九日で戻りました」
「それは水路です」
「では、奥様のお届けは何日で」
匙が一本、布の上で音を立てた。
「戻るとは限りません」
「出しておいでではないのですか」
「出しております」オズワルドは布の端を揃えた。「奥様の名で、必要なものは全部」
奥様の名で。
わたしはその言い方を、頭の中で二度繰り返した。人が亡くなったことを届ける紙に、その人の名で署名する者はいない。
「三日のうちに、署名を十五いただきます」彼は言った。「白紙で結構です。日付はこちらで入れます」
「何の紙に」
「そちらの仕事ではありません」
そちら。
この人は十年、その音でわたしを呼ぶ。今日は三度使われた。
◇
夕方、書斎の机で白紙に一枚だけ書いた。
書いてから、しばらく見ていた。日付の入っていない署名は、どこにでも貼れる。貼られた先を、こちらから知る手立てがない。扉が開いた。
「ユーニス」
顔が上がった。遅れたかどうかを、今日は数えていなかった。
旦那様は机の横に立って、紙を見た。手は伸ばさない。この人は人の手元のものに手を伸ばさない。
「これは誰の字だ」
「奥様の字でございます」
「違う」
わたしは紙を裏返さなかった。裏返す理由がない。十年、この字で通してきて、違うと言われたことは一度もなかった。
「三年目までは、奥様の字だった」旦那様は言った。「三年目の春から、変わった」
「……どこが」
「行の終わりだ。前は落ちていた。今は落として、最後に持ち上げている」
わたしは自分の署名を見た。
持ち上げていた。奥様の手は最後まで落ちて、落ちきったところで紙から離れる。わたしの手は離れる前に一度だけ上がる。三年目に力の抜け方を覚えて、それからずっとそうだ。癖だと思ったことがなかった。癖は、自分では見えない。
「十年ぶん、御覧になっていたのですか」
「屋敷から出る紙は、全部私のところを通る」
「……はい」
「その字は君のだ」
燭台の芯が鳴った。
わたしは口を開いて、開いたまま何も言わなかった。この手が書いてきたものは、全部あの署名の下に収まっている。見舞いの返し、招きの返し、季節ごとの実家への手紙。二千通は超える。どれもわたしの字ではないことになっていた。
「旦那様」
「なんだ」
「では、なぜ」
訊きかけて、止めた。前に一度訊いて、いずれと言われている。
旦那様は白紙のほうへ目をやった。
「その紙は」
「家令に、十五枚と申しつかりました。日付は入れるなと」
「そうか」
それだけ言って、扉のほうへ歩いた。途中で机の端に戻り、焼き損ねて残っていた書き損じを一枚取った。最後の一画に力の残った、失敗のほうだ。
「これは」
「書き損じでございます」
「もらう」
旦那様は出ていった。
わたしは十五枚を書くことにした。ただし十五枚とも、書き方を少しずつ変える。三年目の癖を入れたものを九枚、抜いたものを六枚。どれがどこへ貼られるのかは分からないままだが、いつか並べて見る日が来れば、どれを何番目に書いたかは全部わたしに分かる。
紙の上に印を残す方法を、十年ひとつも持たなかった。今日、ひとつできた。
◇
夜、厨房へ下りた。棚の二段目は九冊のままだ。二年目のところが空いて、隣が斜めに倒れている。倒れた側の板だけ色が濃い。埃を拭いた者がいる。
あの晩の削りかすは、紙に包んで取ってある。
羽根ペンの削り方には癖が出る。刃を入れる角度と、返す回数だ。屋敷でペンを削るのは五人しかいない。家令、料理番の長、馬丁の長、それから旦那様と、わたし。ペンとインクの手配は侍女の仕事で、十年、五人ぶんの削りかすを毎朝掃いてきた。
包みの中の二つは、斜めに二度入れて、最後に浅くもう一度返してある。
この癖を、わたしは知っている。
知っているが、その人が厨房でペンを削る理由を知らない。書き物なら食器室でできる。帳面を抜くだけなら、ペンは要らない。
入口で足音がした。
「そちら」
オズワルドが燭台を持って立っていた。片手に羽根ペンが一本ある。削りかけだった。
「明朝、叔母上様が厨房の者をもう一度お呼びになります」
「順は」
「あちらでお決めになりました」彼は小刀を袖にしまった。「厨房の子から、だそうです」
背を向けたとき、床に削りかすが一つ落ちた。
斜めに二度、最後に浅く一度。
【本日の席次】(卓は開かれません)署名を三十枚、白紙を十五枚。どれにも日付はございません。
奥様のことを、この回ではじめて書きました。
人の名前を覚えるのが好きで、卓の上の名前だけは覚えられない人でした。顔も名前も分かるのに、並べるところだけが分からない——この不得手は実在します。得意な人から見ると信じられないくらい、本当にできません。
できないことを人に頼むとき、頼み方は二通りあります。やっておいて、と言うのと、あなたのほうがきれいだから、と言うの。中身は同じ仕事です。受け取った側に十年後まで残るものだけが、少し違います。
次回、叔母上が厨房へいらっしゃいます。皿が割れます。




