↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
わたしは、奥様の代わりです  作者: 夜凪ユリエ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
10/14

第10話 奥様の字

 署名を三十枚書いた。


 使うのは屑になる紙だ。書き損じの裏、封を切った封筒の内側、菓子を包んでいた薄紙。屋敷の帳面に載る紙は使わない。載る紙が一枚減れば、どこかで数が合わなくなる。


 アデライド・クレスウェル。


 三十枚のうち、二十四枚は使える。六枚は最後の一画に力が残った。奥様の字は行の終わりに向かって下がっていく。長く床にいた人の手は、腕の重みを紙に預けたまま止まらない。わたしの手は止まる。止めないようにするのが、この十年でいちばん手間のかかったところだった。


 一年目は形だけ似せた。二年目に速さを合わせた。三年目に、力の抜け方を覚えた。それからの七年で、この字はわたしの右手のほうへ移ってきた。今は自分の字より速い。自分の字がどんな形だったのかは、思い出すのに少しかかる。


 三十枚とも燭台で焼いた。灰は庭に捨てず、厨房の竈へ運んで朝の火の下に入れる。


 次の評議は七日の後だ。財の議は片づいていない。片づけば署名が要る。要ると分かっているものは、先に書けるようにしておく。



 最初の一枚は、婚礼の年の秋だった。


 わたしが屋敷に入ったのは十六の年で、婚礼の支度が始まったあとだった。玄関の間に並んだ日、家令が頭数を読み上げた。侍女、八名。わたしはその八のうちの一つだった。


 その日の夕方、二階の東の端の部屋で、奥様がわたしの名を呼んだ。


「ユーニス」


 わたしは返事をしなかった。呼ばれたと思わなかった。もう一度呼ばれて、三度目でようやく前に出た。


「そんなに驚くこと?」


「……名でお呼びいただくとは、思いませんでしたので」


「だって八人いるのに、八人とも侍女と呼んだら、誰が来るか分からないでしょう」


「みな、そう呼ばれることに慣れております」


「慣れるのと、いいのとは違うでしょう」


 理屈になっていない。八人には八つの名があって、そのうち七つを奥様はその日のうちに覚えた。最後の一つはロッタという子で、覚えるのに三日かかった。奥様は三日目にロッタを呼んで、遅くなったと謝った。謝られた本人が、しばらく廊下で泣いていた。


 人の名は覚える人だった。卓の上の名だけが、覚えられなかった。


 床につく前の半年で、奥様は茶会を三度開いた。三度とも、終わったあとに同じ顔をしていた。ヴィエラ伯爵夫人の姪の名を間違え、ロッシュ子爵の右側から話しかけ、カリス男爵夫人とその義妹を隣に置いて二人を半刻黙らせた。


「今日、カリスのお二人が、ずっと黙っていらしたわ。わたし、何か申し上げたかしら」


「いえ。お隣同士でございましたので」


「隣だと黙るの」


「同じ家からお二人のときは、同じ辺に並べません。片方が黙るか、二人で一つの声になりますので」


「そういうのは、どこに書いてあるの」


「どこにも書いてございません」


「じゃあ、覚えられないわけだわ」奥様は笑った。「書いてあることなら、わたしだって覚えるのよ」


「わたし、人の顔は分かるの。名前も分かるの。並べるところだけが分からない」


 四度目の茶会の朝、奥様は支度の途中で立てなくなった。


 髪を上げ終えて、手袋をはめる段だった。わたしが支えて寝台へ戻した。客はもう丘を上がってきていて、断る手立ては作法の本のどこにも書いていない。


「ユーニス」


「はい」


「あなた、背が同じね」


「……はい」


「行ってくれる?」


「参ります」


「怖くない?」


「お顔を近くで見た方が、四人おいででございます。遠くに置きます」


「そういうことは、あなたのほうがずっと早いわ」


 その日、わたしは薄い青のドレスを着て東の間へ下りた。卓の誰ひとり、気づかなかった。


 戻ってきたわたしに、奥様が最初に訊いたのはこれだった。


「今日は、誰と誰が喋ったの」


 誰が何を言ったか、ではない。誰と誰が、だ。


 わたしは卓の並びを紙に書いた。奥様はそれを膝の上に置いて、指で辿った。辿り終えてから、寝台の脇の紙を一枚こちらへ寄せた。書きかけの席次表だった。上座から四つ目で止まっている。


「あなたの字のほうがきれい。わたしの分も書いて」


「どこまででございましょう」


「全部。わたし、毎回、上座から四つ目で止まるの」


「では、五つ目から」


「そこじゃないわ」奥様はその紙を指で押し戻した。「一つ目から書いて。四つ目までも、たぶん間違っているから」


 わたしはそれを、書けという意味だと受け取った。


 その秋から、奥様の名で出る紙は全部わたしが書いた。奥様は一度も検めなかった。信用しているからではないと言っていた。読むと直したくなって、直すとわたしの字が減るから、と。



 昼前、玄関の脇の帳面を検めた。


 使いの者の出入りを書く帳面だ。誰がいつ、どこへ、何を持って出たか。十年、月に一度は目を通す。どの家といつ紙をやり取りしたかを知らずに卓は組めない。返しの遅れている家を上座に置くと、卓が渋る。


 奥様が亡くなった日から今日まで、王都行きは十一。役所へ行った者は、いない。


 役所へ出した紙には受け取りの写しが戻り、家令がそれを帳面に貼る。二月前の水路の届けは、九日で戻って三枚目の頁にある。


 二日目の朝に、書状が一通だけ王都へ出ている。宛先の欄が空だった。


 オズワルドは食器室で銀を数えていた。匙を布の上に一本ずつ並べている。


 銀を検めるのは月に一度で、今日はその日ではない。


「お尋ねしてもよろしいですか」


「なんです」


「お届けの写しは、いつ頃こちらへ」


「何のお届けです」


「奥様のです」


 手は止まらなかった。


「そちらの仕事ではありません」


「水路の届けは九日で戻りました」


「それは水路です」


「では、奥様のお届けは何日で」


 匙が一本、布の上で音を立てた。


「戻るとは限りません」


「出しておいでではないのですか」


「出しております」オズワルドは布の端を揃えた。「奥様の名で、必要なものは全部」


 奥様の名で。


 わたしはその言い方を、頭の中で二度繰り返した。人が亡くなったことを届ける紙に、その人の名で署名する者はいない。


「三日のうちに、署名を十五いただきます」彼は言った。「白紙で結構です。日付はこちらで入れます」


「何の紙に」


「そちらの仕事ではありません」


 そちら。


 この人は十年、その音でわたしを呼ぶ。今日は三度使われた。



 夕方、書斎の机で白紙に一枚だけ書いた。


 書いてから、しばらく見ていた。日付の入っていない署名は、どこにでも貼れる。貼られた先を、こちらから知る手立てがない。扉が開いた。


「ユーニス」


 顔が上がった。遅れたかどうかを、今日は数えていなかった。


 旦那様は机の横に立って、紙を見た。手は伸ばさない。この人は人の手元のものに手を伸ばさない。


「これは誰の字だ」


「奥様の字でございます」


「違う」


 わたしは紙を裏返さなかった。裏返す理由がない。十年、この字で通してきて、違うと言われたことは一度もなかった。


「三年目までは、奥様の字だった」旦那様は言った。「三年目の春から、変わった」


「……どこが」


「行の終わりだ。前は落ちていた。今は落として、最後に持ち上げている」


 わたしは自分の署名を見た。


 持ち上げていた。奥様の手は最後まで落ちて、落ちきったところで紙から離れる。わたしの手は離れる前に一度だけ上がる。三年目に力の抜け方を覚えて、それからずっとそうだ。癖だと思ったことがなかった。癖は、自分では見えない。


「十年ぶん、御覧になっていたのですか」


「屋敷から出る紙は、全部私のところを通る」


「……はい」


「その字は君のだ」


 燭台の芯が鳴った。


 わたしは口を開いて、開いたまま何も言わなかった。この手が書いてきたものは、全部あの署名の下に収まっている。見舞いの返し、招きの返し、季節ごとの実家への手紙。二千通は超える。どれもわたしの字ではないことになっていた。


「旦那様」


「なんだ」


「では、なぜ」


 訊きかけて、止めた。前に一度訊いて、いずれと言われている。


 旦那様は白紙のほうへ目をやった。


「その紙は」


「家令に、十五枚と申しつかりました。日付は入れるなと」


「そうか」


 それだけ言って、扉のほうへ歩いた。途中で机の端に戻り、焼き損ねて残っていた書き損じを一枚取った。最後の一画に力の残った、失敗のほうだ。


「これは」


「書き損じでございます」


「もらう」


 旦那様は出ていった。


 わたしは十五枚を書くことにした。ただし十五枚とも、書き方を少しずつ変える。三年目の癖を入れたものを九枚、抜いたものを六枚。どれがどこへ貼られるのかは分からないままだが、いつか並べて見る日が来れば、どれを何番目に書いたかは全部わたしに分かる。


 紙の上に印を残す方法を、十年ひとつも持たなかった。今日、ひとつできた。



 夜、厨房へ下りた。棚の二段目は九冊のままだ。二年目のところが空いて、隣が斜めに倒れている。倒れた側の板だけ色が濃い。埃を拭いた者がいる。


 あの晩の削りかすは、紙に包んで取ってある。


 羽根ペンの削り方には癖が出る。刃を入れる角度と、返す回数だ。屋敷でペンを削るのは五人しかいない。家令、料理番の長、馬丁の長、それから旦那様と、わたし。ペンとインクの手配は侍女の仕事で、十年、五人ぶんの削りかすを毎朝掃いてきた。


 包みの中の二つは、斜めに二度入れて、最後に浅くもう一度返してある。


 この癖を、わたしは知っている。


 知っているが、その人が厨房でペンを削る理由を知らない。書き物なら食器室でできる。帳面を抜くだけなら、ペンは要らない。


 入口で足音がした。


「そちら」


 オズワルドが燭台を持って立っていた。片手に羽根ペンが一本ある。削りかけだった。


「明朝、叔母上様が厨房の者をもう一度お呼びになります」


「順は」


「あちらでお決めになりました」彼は小刀を袖にしまった。「厨房の子から、だそうです」


 背を向けたとき、床に削りかすが一つ落ちた。


 斜めに二度、最後に浅く一度。

【本日の席次】(卓は開かれません)署名を三十枚、白紙を十五枚。どれにも日付はございません。


奥様のことを、この回ではじめて書きました。


人の名前を覚えるのが好きで、卓の上の名前だけは覚えられない人でした。顔も名前も分かるのに、並べるところだけが分からない——この不得手は実在します。得意な人から見ると信じられないくらい、本当にできません。


できないことを人に頼むとき、頼み方は二通りあります。やっておいて、と言うのと、あなたのほうがきれいだから、と言うの。中身は同じ仕事です。受け取った側に十年後まで残るものだけが、少し違います。


次回、叔母上が厨房へいらっしゃいます。皿が割れます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。