第11話 ミルカの嘘
朝の鐘が二つ鳴る前に、ミルカを裏の階段へ呼んだ。
「今日、あなたが最初に呼ばれるわ」
「なんでですか」
「あちらがそう決めたから」
「順って、レイルさんが組むんじゃないんですか」
「わたしが組むと、あなたが最後になるからよ」
「あー」ミルカは前掛けの端を折り畳んだ。「じゃああの人、頭いいですね」
「いいわね」
わたしは階段の埃を靴の先で寄せた。話しながら手を動かしていると、この子はよく聞く。向かい合って言うと、途中から天井を見はじめる。
「訊かれたことにだけ答えて。訊かれていないことは足さないで」
「はい」
「かたちで答えていいわ。読めないことは隠さなくていい」
「隠したら余計まずいですもんね」
「そう」
「じゃあ、嘘はどうします」
わたしは足を止めた。
「嘘」
「たぶん要ります」ミルカは腕を組んだ。「昨日の夜からずっと考えてたんですけど、あたし、奥様に会ったことがないんですよ。ないままで通せる気がしません」
「……ミルカ」
「大丈夫です。嘘はうまいので」
「どこで覚えたの」
「前の家です」
鐘が鳴った。一つ目だった。
◇
東の間の椅子は、昨日と同じ向きに置いてあった。
北が叔母上。南は窓に向いている。座った者の顔に、朝の光が真っ直ぐ当たる。ミルカは南に座って、まぶしそうな顔をしなかった。目を細めない子は、こういう場では得をする。
「あなた、奥様にお会いしたことは」
「あります」
「いつ」
「今朝です。湯を運びました」
叔母上の指が、帳面の上で止まった。
「その湯は、どこで受け取ったの」
「厨房の裏の竈です」
「何時に」
「鐘が二つ鳴る前です」
叔母上は書いた。書きながら次を訊く人だ。
「お部屋の中は、どうなっていて」
「寝台が窓と反対側です。小卓が寝台の右で、上に紙が積んであります。椅子が一つ。あと、薬の匂いがします」
「ずいぶんよく見ているのね」
「かたちなら見ます」
全部合っている。紙の積み方も、椅子の数も、匂いも。わたしは扉のところで手のひらに爪を立てた。この子は奥様が生きていらした頃、あの部屋へ何度か湯を運んでいる。中身は本当だ。今朝、という二つの音だけが嘘だった。
「奥様のお顔は」
「見てません」
「なぜ」
「布がかかってるので」
卓のない部屋で、椅子が二つきしんだ。
「布」
「日除けです」ミルカは言った。「窓が東なんで、朝は目に当たるんですよ。あたしが入るのは、いつも朝なんで」
叔母上は帳面を閉じなかった。閉じずに、しばらく頁の端を指で押さえていた。
「では、案内なさい。いま」
「はい」
ミルカは立ち上がった。立ち上がってから、扉のところのわたしを見なかった。見ずに廊下へ出ていった。
◇
二階へ上がる階段は、北の廊下の突き当たりにある。踊り場までが十一段、折り返して九段。ミルカは配膳室の前で足を止めた。
「先に、これ下げていいですか。通れないんで」
盆に朝の皿が積んである。粥の器が七つ、受け皿が六つ。十三。
「早くなさい」
ミルカは盆を持ち上げて、三段目まで上がった。
それから落ちた。
音は思ったより長く続いた。皿は一度には割れない。落ちて、跳ねて、踊り場のほうへ滑って、そこでもう一度割れる。粥の残りが壁に散った。屋敷の北側が、全部こちらを向いた。
ミルカは四段目に座り込んでいた。前掛けの端に、手は行かなかった。
◇
人が集まった。洗い場から三人、厨房から四人、二階からも二人下りてきた。叔母上は階段の下で破片を見ていた。数えている顔だ。この人は去年の冬に来て、食器棚を全部開けて枚数を書いて帰っている。
「十二枚」
「十二枚でございます」わたしは言った。「粥の器が六つ、受け皿が六つ」
「あなた、見ていたの」
「今朝の卓を組んだのはわたくしでございます」
叔母上は帳面を開いた。
「割れた器は屋敷の帳面に載ります」わたしは続けた。「載せるには家令の検めと、居合わせた方の立会いが要ります。叔母様は、いま居合わせておいででございます」
「立会い」
「はい」
「家令は」
「王都へ使いに出ております。夕刻に戻ります」
叔母上は帳面を閉じた。閉じる音は、昨日より小さかった。
「では、夕刻に」
「奥様のお部屋へは、家令の立会いなくお通しできません」
「その作法は、どの本に」
「本にはございません」わたしは頭を下げた。「十年、そうしてまいりました」
この屋敷の作法の半分は、わたしが作った。作ったものは本に載らない。載らないものは、疑うのに手がかかる。
「よく回る家ですこと」
叔母上は階段を上がらなかった。夕刻にも来なかった。来る代わりに、丘の下へ使いを一人出した。行き先は鐘楼の東だと、馬丁が言った。
◇
破片を片づけていると、二階から旦那様が下りてこられた。途中で屈んで、粥の散った壁際から破片を一つ拾い上げた。
「旦那様。わたくしどもがいたします」
「これは危ない」
旦那様は破片を掌に載せたまま、四段目のミルカを見た。
「怪我は」
「……ないです」
「そうか」
それから、こちらに手のひらを上へ向けて、階段の下を示した。行けという合図ではない。行っていい、のほうだ。この人がその手つきをするのを、わたしは評議の日に一度見ている。
「ユーニス」
「はい」
「十二枚ではない。十三枚目が配膳室の敷居に飛んでいる」
旦那様は破片を持ったまま上がっていかれた。掌のそれをどうなさるおつもりなのかは、訊かなかった。
◇
厨房へ戻ると、ミルカは水場の前に立っていた。桶に手を入れて、出して、また入れている。洗うものは何も持っていない。
「ミルカ」
返事がなかった。
「割れた器を数えて」
「……十二枚です」
「十三よ。配膳室の敷居に一つ飛んでる。取ってきて」
ミルカは歩いていって、戻ってきた。掌に破片が一つ載っている。載せた手が震えていた。前掛けの端へ持っていこうとして、折れなかった。折って、伸ばして、そこで指が止まる。
わたしは布巾を出して、破片を包んだ。
「上手だったわ」
「……何がですか」
「三段目で落としたでしょう。あそこがいちばん音が響くの。二段目では足りない。五段目では壁に届かない」
「……知りませんでした」
「知らないでやったのなら、もっと上手」
ミルカは笑おうとして、失敗した。
「弁償はわたしがするわ」
「いりません」
「では、何が要る」
ミルカは桶の水を見ていた。
「……あたし、口は堅いですけど値段は高いですよ」
「そう」
「まだ決めてません。決めたら言います」
「高くしなさい」
「します」
水を落とす音だけが、しばらく続いた。
「レイルさん」
「なに」
「あたし、前の家では『おい』でした」
わたしは布巾の結び目を作る手を止めなかった。
「そう」
「三年いたんですけど、最後まで『おい』です。だから名前で呼ばれると、いまだに一回、返事が遅れます」
結び目を作り終えて、包みを棚に置いた。
「レイルさん」
「なに」
「いつまで続けるんですか」
布巾の端が、指のあいだで止まった。
「今日みたいなの、あと何回ですか。あたし、皿なら何枚でも割りますけど、枚数だけ知りたいです。十枚なのか、百枚なのか」
答えを持っていなかった。
十年ぶんの卓は全部組める。二十六人の耳の遠さも、割れた砂糖壺の年も、どの家がいつ紙を寄越さなかったかも言える。この先に何枚あるのかだけが、どこにも書いていない。
「……分からないわ」
「分からないんですか」
「分からない」
「じゃあいいです」ミルカは桶の水を捨てた。「分かってて言われるより、そっちのほうが信じられます」
ミルカは桶を伏せて、竈のほうへ歩いていった。三歩目で振り返った。
「ユーニスさん」
一拍あった。この子に呼ばれるのは、はじめてだった。
「レイルさんでしょう」
「今日はこっちで」
それだけ言って、火を落としに行った。
わたしは配膳室へ行って、十三枚目の飛んだ敷居を布で拭いた。粥の粒が木の目に入り込んで取れない。爪で掻き出して、二度拭いた。
夜になっても、丘の下へ出した使いは戻らなかった。鐘楼の東までは半刻とかからない道だ。戻らないという報せは、こちらからは数えられない。数えられるのは、地下で減っていくもののほうだった。
【本日の席次】東の間・椅子二脚。北に叔母上、南は窓向き。呼ぶ順は、こちらでは決められませんでした。器は十三枚割れて、帳面には十二枚と載ります。
ミルカの回でした。
この子は嘘が下手ではありません。中身を全部本当のことで固めて、いちばん小さい一語だけを嘘にする。今朝、という二つの音です。ああいう嘘のつき方をする子は、たいてい嘘の要る場所で育っています。
皿を落としたのは度胸ではなく計算だと思うのですが、本人は計算した覚えがないと言い張るでしょう。三段目を選んだ理由も、たぶん本当に知りません。知らないでできてしまう人がいちばん厄介です。
なお、値段はまだ決まっておりません。決まりましたら請求書が回ってくるはずです。
次回、氷が足りなくなります。




