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わたしは、奥様の代わりです  作者: 夜凪ユリエ


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7/11

第7話 条件

 書斎の燭台は、まだ一つしか点いていない。


 わたしはペンを持ったまま、続きを待っていた。白紙の羊皮紙は机の真ん中にある。来月の晩餐、東の小食堂、十四席。まだ一つも名前が載っていない。


 旦那様は机の抽斗を開けて、薄い帳面を一冊出した。奉公人の帳面だ。開き方に迷いがなかった。今夜より前に、一度開いている手つきだった。


「君の名は、どこにある」


 わたしはペンを置いて、下から二番目の行を指した。


 侍女 一名。


「賃金は払われております。一名ぶん、間違いなく」


「名は」


「ございません。帳面に名を書くのは、家令と、料理番の長と、馬丁の長だけでございます。あとは頭数で数えます。そういう決まりです」


「誰が決めた」


「存じません。わたしが入る前から、そう書いてございました」


「ほかの侍女は」


「入りましたときは八名、いまは六名でございます。名は、どこにも書かれておりません」


「賃金は誰が渡す」


「家令が、頭数で袋に分けます。袋にも名は書きません。多い月も少ない月もございませんので、間違えようがないのです」


 旦那様は帳面を閉じた。閉じた表紙に手を置いたまま言った。


「ひとつだけ、条件がある」


 わたしは膝の上で手を組んだ。


 解雇の条件だろうと思っていた。屋敷を出るまでの日数、口止めの範囲、行き先の指定。頭の中ではもう並べてあった。並べるのは得意だ。


「屋敷の中では、私の前だけ、ユーニスでいろ」


 燭台の芯が鳴った。


 息は吸った。吸ったところで止まって、そこから声になるまでに一拍あった。この十年、その音に返事をする用意をしたことがない。


「……はい」


「遅い」


「申し訳ございません」


「責めていない」旦那様は燭台をこちらへ少し寄せた。「慣れればいい」


 わたしは指を組み直した。


「旦那様」


「なんだ」


「なぜ、そのようなことを」


「不便か」


「いえ」


「では、そうしてくれ」


 答えになっていない。答えになっていないことを、この人は知っている。知っていて短く切るのだから、切りたいのだ。


 それでも、もう一度訊いた。十年で初めてのことだった。


「理由を伺っても、よろしいですか」


「今は答えない」


「いつでしたら」


「……いずれ」


 旦那様は帳面を抽斗へ戻した。話は終わりという意味だと分かった。


 わたしはペンを取り直して、白紙のいちばん南の行に、横線を一本引いた。名を書かない席の印だ。東の小食堂の南の端には、旦那様が屋敷にお戻りの晩、必ず花が一本置かれる。皿も椅子もなく、卓布の上に横たえてある。十年、一度も欠けたことがない。


「花は、来月も」


「置く」


 理由は訊かなかった。今夜はもう、一つ訊いて断られている。


「ユーニス」


 今度は詰まらなかった。


「二度目は早い」


「……はい」


「三度目は、もっと早くなる」


 真顔だった。冗談なのかどうか、判じようがない。この人の顔は十年、ほとんど動いたことがない。


 扉に手をかけてから、訊きそびれたことをひとつ思い出して、振り返った。


「では、外では」


「奥様だ」


 迷いのない返事だった。



 自室へ戻って、畳んだ紙を机の上で広げた。


 去年の秋の席次を、奥様が写した紙だ。余白に一行、細い字が入っている。


 ——ユーニスの席はどこ?


 わたしは紙を膝の上で伸ばして、しばらく見ていた。それから机の抽斗を開けて、木の名札を一枚取り出した。この春に作った予備で、まだ何も書いていない。表も裏も無地だ。


 裏返して、また表に戻して、抽斗へ戻した。


 旦那様の前でだけ、わたしはユーニスでいる。書斎の扉を出れば奥様で、丘を下れば公爵夫人アデライド・クレスウェルだ。厨房ではレイルさん、家令の前ではそちら。呼ばれ方が五つあって、体は一つしかない。


 横になって、朝までに三度、卓の並びを組み直した。組み直す必要のない卓だった。



 翌朝、東の間で名札を畳んでいると、廊下に足音がした。


 旦那様が扉の枠のところで止まった。それだけで、部屋には入ってこなかった。


「ユーニス」


 わたしは札を持ったまま顔を上げた。半拍。自分でも驚くほど早かった。


「はい」


「昨夜の紙は」


「取ってございます」


「そうか」


 それで行こうとして、二歩目で足を止めた。


「早くなった」


 廊下の角から、別の足音が近づいてきた。旦那様は何も言わずに歩いていった。


「そちら」


 オズワルドだった。帳面を小脇に挟んでいる。


「はい」


「昨夜は、書斎に長くおられましたな」


「はい」


「中身は伺いません」彼は卓のほうへ目をやった。「ただ、屋敷の帳面には一行しかございません。一行は、一行のままがよろしいかと」


「どういう意味でございましょう」


「行が増えれば、どこかの行が減ります」


「どの行でございましょう」


「そちらが決めることではありません」


 わたしは名札を布に包む手を止めなかった。二十八枚を五枚ずつ重ね、端の三枚を上に載せる。十年、同じ包み方をしている。


 二十八枚のうち三枚は、木が新しい。右の端の二枚は、この春に作り直したもの。三枚目は、昨日彫り直した叔母上のぶんだ。どれも削りが浅いぶん、重ねると上の一枚が滑る。滑らせないために、その三枚だけ最後に載せる。


「旦那様は、そのうち王都へお発ちになります」オズワルドは扉のほうへ歩きながら言った。「残るのはわたくしどもです。そちらも、わたくしも」


 扉が閉まってから、包みの結び目を直した。


 一度目は、結び目が上を向いていた。十年、上を向いたことがない。



 昼過ぎに、使いの者が封書を持ってきた。


 蝋の印は見たことのないものだった。ミルカが盆に載せて運んできて、わたしの手元を覗き込んだ。


「なんて書いてあるんですか」


「家門評議の招集状」


「なんですかそれ」


「親戚と、縁のある家が集まって、家のことを決める会」


「決めるって、何をです」


「金の置き場所」


「へえ」ミルカは前掛けで手を拭いた。「誰が集めるんです」


「叔母上」


「あの人ですか」ミルカの声が半分になった。「去年の冬に来て、皿を数えて帰った人ですよね」


「数えたの」


「食器棚を全部開けて、枚数を書いてました。あと、使用人の頭数も。同じ帳面に、続けて」


「同じ帳面に」


「はい。皿の下の行が、あたしたちでした」


「何人ぶん書いてあった」


「二十二です。数は読めます。数はかたちが少ないので」


「二十二」


「はい。あたしの行もありました。名前じゃなくて、頭数のほうですけど」


 屋敷の者は二十二人。玄関の間に並ぶときは、二十一人になる。わたしが列に入らないからで、入らない者の頭数は、帳面の上でだけ生きている。


「叔母上は、そのあと数え直しに」


「してないと思います。あの人、書いたら閉じるんで」


 わたしは封を切った。


 日は六日の後。所は当家、東の間。議は、家の財の管理について。議決には当主の裁可および公爵夫人アデライド・クレスウェルの署名を要する。


 書式は整っている。日、所、議、要る署名。四つとも欠けていない。整っている紙ほど、断るための手がかりが少ない。


 署名。


 書けば偽りになる。書かなければ、書けない理由を訊かれる。


 最後にもう一行、細い字で添えてあった。


 ——なお、座次はこちらで案を用意いたします。


 十年、この屋敷の卓を組んできたのはわたしだ。二十六人の耳の遠さも、去年割れた砂糖壺も、どの家とどの家が春にもめたかも、全部この手で並べてきた。その卓を、来る側が先に組むと書いてある。


「レイルさん」ミルカが盆を抱え直した。「何人来るんです」


「連名が七つ。家は八つ」


「椅子は」


「十。議長と、記録の分がいる」


「地下から出しときます。ぐらつかないほうを」


「卓布は東の間の長いのを。継ぎ目が北に来ないように敷いて」


「継ぎ目、誰か見ます?」


「見る人が来る」


 ミルカは何か言いかけて、やめて、出ていった。


 わたしは紙をもう一度はじめから読んだ。二度目に見たのは文ではなく、下の連名のほうだった。


 差出人のあとに、七つの名が並んでいる。家格の順ではない。近い家から遠い家へ、でもない。


 三つ目と四つ目に、カリス男爵夫人と、その義妹の名が続けて書いてある。一家門から二人。ふつう、連名は家ごとに一人だ。二人書くのは、二つの声が要るときだけだ。


 この並びは、誰かが組んでいる。

【本日の席次】(卓は開かれません)書斎の机に、白紙の席次表が一枚。


旦那様について一言だけ。


この人は「理由を言わない」のではなく、「理由を言う練習をしたことがない」人です。訊かれると質問で返してくるのは、逃げているというより、そこに言葉の在庫がないからです。おかげで主人公は毎回、短い返事を持ち帰って夜に組み直すはめになります。今回もそうでした。三度も。


なお「三度目は、もっと早くなる」は慰めではなく、たぶん予定の伝達です。この人は予定を言うとき、いちばん優しい顔をします。本人にその自覚はありません。


次回、東の間に長卓がひとつ。名札は十枚。並べたのは、うちの人間ではありません。

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