第7話 条件
書斎の燭台は、まだ一つしか点いていない。
わたしはペンを持ったまま、続きを待っていた。白紙の羊皮紙は机の真ん中にある。来月の晩餐、東の小食堂、十四席。まだ一つも名前が載っていない。
旦那様は机の抽斗を開けて、薄い帳面を一冊出した。奉公人の帳面だ。開き方に迷いがなかった。今夜より前に、一度開いている手つきだった。
「君の名は、どこにある」
わたしはペンを置いて、下から二番目の行を指した。
侍女 一名。
「賃金は払われております。一名ぶん、間違いなく」
「名は」
「ございません。帳面に名を書くのは、家令と、料理番の長と、馬丁の長だけでございます。あとは頭数で数えます。そういう決まりです」
「誰が決めた」
「存じません。わたしが入る前から、そう書いてございました」
「ほかの侍女は」
「入りましたときは八名、いまは六名でございます。名は、どこにも書かれておりません」
「賃金は誰が渡す」
「家令が、頭数で袋に分けます。袋にも名は書きません。多い月も少ない月もございませんので、間違えようがないのです」
旦那様は帳面を閉じた。閉じた表紙に手を置いたまま言った。
「ひとつだけ、条件がある」
わたしは膝の上で手を組んだ。
解雇の条件だろうと思っていた。屋敷を出るまでの日数、口止めの範囲、行き先の指定。頭の中ではもう並べてあった。並べるのは得意だ。
「屋敷の中では、私の前だけ、ユーニスでいろ」
燭台の芯が鳴った。
息は吸った。吸ったところで止まって、そこから声になるまでに一拍あった。この十年、その音に返事をする用意をしたことがない。
「……はい」
「遅い」
「申し訳ございません」
「責めていない」旦那様は燭台をこちらへ少し寄せた。「慣れればいい」
わたしは指を組み直した。
「旦那様」
「なんだ」
「なぜ、そのようなことを」
「不便か」
「いえ」
「では、そうしてくれ」
答えになっていない。答えになっていないことを、この人は知っている。知っていて短く切るのだから、切りたいのだ。
それでも、もう一度訊いた。十年で初めてのことだった。
「理由を伺っても、よろしいですか」
「今は答えない」
「いつでしたら」
「……いずれ」
旦那様は帳面を抽斗へ戻した。話は終わりという意味だと分かった。
わたしはペンを取り直して、白紙のいちばん南の行に、横線を一本引いた。名を書かない席の印だ。東の小食堂の南の端には、旦那様が屋敷にお戻りの晩、必ず花が一本置かれる。皿も椅子もなく、卓布の上に横たえてある。十年、一度も欠けたことがない。
「花は、来月も」
「置く」
理由は訊かなかった。今夜はもう、一つ訊いて断られている。
「ユーニス」
今度は詰まらなかった。
「二度目は早い」
「……はい」
「三度目は、もっと早くなる」
真顔だった。冗談なのかどうか、判じようがない。この人の顔は十年、ほとんど動いたことがない。
扉に手をかけてから、訊きそびれたことをひとつ思い出して、振り返った。
「では、外では」
「奥様だ」
迷いのない返事だった。
◇
自室へ戻って、畳んだ紙を机の上で広げた。
去年の秋の席次を、奥様が写した紙だ。余白に一行、細い字が入っている。
——ユーニスの席はどこ?
わたしは紙を膝の上で伸ばして、しばらく見ていた。それから机の抽斗を開けて、木の名札を一枚取り出した。この春に作った予備で、まだ何も書いていない。表も裏も無地だ。
裏返して、また表に戻して、抽斗へ戻した。
旦那様の前でだけ、わたしはユーニスでいる。書斎の扉を出れば奥様で、丘を下れば公爵夫人アデライド・クレスウェルだ。厨房ではレイルさん、家令の前ではそちら。呼ばれ方が五つあって、体は一つしかない。
横になって、朝までに三度、卓の並びを組み直した。組み直す必要のない卓だった。
◇
翌朝、東の間で名札を畳んでいると、廊下に足音がした。
旦那様が扉の枠のところで止まった。それだけで、部屋には入ってこなかった。
「ユーニス」
わたしは札を持ったまま顔を上げた。半拍。自分でも驚くほど早かった。
「はい」
「昨夜の紙は」
「取ってございます」
「そうか」
それで行こうとして、二歩目で足を止めた。
「早くなった」
廊下の角から、別の足音が近づいてきた。旦那様は何も言わずに歩いていった。
「そちら」
オズワルドだった。帳面を小脇に挟んでいる。
「はい」
「昨夜は、書斎に長くおられましたな」
「はい」
「中身は伺いません」彼は卓のほうへ目をやった。「ただ、屋敷の帳面には一行しかございません。一行は、一行のままがよろしいかと」
「どういう意味でございましょう」
「行が増えれば、どこかの行が減ります」
「どの行でございましょう」
「そちらが決めることではありません」
わたしは名札を布に包む手を止めなかった。二十八枚を五枚ずつ重ね、端の三枚を上に載せる。十年、同じ包み方をしている。
二十八枚のうち三枚は、木が新しい。右の端の二枚は、この春に作り直したもの。三枚目は、昨日彫り直した叔母上のぶんだ。どれも削りが浅いぶん、重ねると上の一枚が滑る。滑らせないために、その三枚だけ最後に載せる。
「旦那様は、そのうち王都へお発ちになります」オズワルドは扉のほうへ歩きながら言った。「残るのはわたくしどもです。そちらも、わたくしも」
扉が閉まってから、包みの結び目を直した。
一度目は、結び目が上を向いていた。十年、上を向いたことがない。
◇
昼過ぎに、使いの者が封書を持ってきた。
蝋の印は見たことのないものだった。ミルカが盆に載せて運んできて、わたしの手元を覗き込んだ。
「なんて書いてあるんですか」
「家門評議の招集状」
「なんですかそれ」
「親戚と、縁のある家が集まって、家のことを決める会」
「決めるって、何をです」
「金の置き場所」
「へえ」ミルカは前掛けで手を拭いた。「誰が集めるんです」
「叔母上」
「あの人ですか」ミルカの声が半分になった。「去年の冬に来て、皿を数えて帰った人ですよね」
「数えたの」
「食器棚を全部開けて、枚数を書いてました。あと、使用人の頭数も。同じ帳面に、続けて」
「同じ帳面に」
「はい。皿の下の行が、あたしたちでした」
「何人ぶん書いてあった」
「二十二です。数は読めます。数はかたちが少ないので」
「二十二」
「はい。あたしの行もありました。名前じゃなくて、頭数のほうですけど」
屋敷の者は二十二人。玄関の間に並ぶときは、二十一人になる。わたしが列に入らないからで、入らない者の頭数は、帳面の上でだけ生きている。
「叔母上は、そのあと数え直しに」
「してないと思います。あの人、書いたら閉じるんで」
わたしは封を切った。
日は六日の後。所は当家、東の間。議は、家の財の管理について。議決には当主の裁可および公爵夫人アデライド・クレスウェルの署名を要する。
書式は整っている。日、所、議、要る署名。四つとも欠けていない。整っている紙ほど、断るための手がかりが少ない。
署名。
書けば偽りになる。書かなければ、書けない理由を訊かれる。
最後にもう一行、細い字で添えてあった。
——なお、座次はこちらで案を用意いたします。
十年、この屋敷の卓を組んできたのはわたしだ。二十六人の耳の遠さも、去年割れた砂糖壺も、どの家とどの家が春にもめたかも、全部この手で並べてきた。その卓を、来る側が先に組むと書いてある。
「レイルさん」ミルカが盆を抱え直した。「何人来るんです」
「連名が七つ。家は八つ」
「椅子は」
「十。議長と、記録の分がいる」
「地下から出しときます。ぐらつかないほうを」
「卓布は東の間の長いのを。継ぎ目が北に来ないように敷いて」
「継ぎ目、誰か見ます?」
「見る人が来る」
ミルカは何か言いかけて、やめて、出ていった。
わたしは紙をもう一度はじめから読んだ。二度目に見たのは文ではなく、下の連名のほうだった。
差出人のあとに、七つの名が並んでいる。家格の順ではない。近い家から遠い家へ、でもない。
三つ目と四つ目に、カリス男爵夫人と、その義妹の名が続けて書いてある。一家門から二人。ふつう、連名は家ごとに一人だ。二人書くのは、二つの声が要るときだけだ。
この並びは、誰かが組んでいる。
【本日の席次】(卓は開かれません)書斎の机に、白紙の席次表が一枚。
旦那様について一言だけ。
この人は「理由を言わない」のではなく、「理由を言う練習をしたことがない」人です。訊かれると質問で返してくるのは、逃げているというより、そこに言葉の在庫がないからです。おかげで主人公は毎回、短い返事を持ち帰って夜に組み直すはめになります。今回もそうでした。三度も。
なお「三度目は、もっと早くなる」は慰めではなく、たぶん予定の伝達です。この人は予定を言うとき、いちばん優しい顔をします。本人にその自覚はありません。
次回、東の間に長卓がひとつ。名札は十枚。並べたのは、うちの人間ではありません。




