第6話 では、続けましょうか
書斎へ行く前に、オズワルドに呼び止められた。
東の廊下の突き当たりで、燭台に火を入れているところだった。彼は火口を袖で隠したまま、こちらを見ずに言った。
「叔母上様への礼状は」
「明日の朝までに」
「奥様の名で」
「はい」
「ほかは」
「本日お越しの二十六名へ、明後日までに。ヴィエラ伯爵夫人には二枚。姪御様はお越しになりませんでしたので、そのぶんを別便で」
「来ておらぬ者に礼状を」
「来た方に礼を書くのは誰でもいたします。来なかった方に書きますと、次に来られます」
オズワルドは芯から目を離さなかった。それから、自分の用のほうへ移った。
「それから、茶碗が一つ欠けました。帳面に載せます」
「カリス男爵夫人の義妹君のぶんです」
「割った者の名は」
「欠けた、とだけ。名を入れれば、次にお越しになったときに卓が渋ります」
「結構」
二日前に「明後日」と言われた茶会は、今日で終わった。終われば次の卓の話になる。それがこの仕事の続き方だ。
「そちら」
わたしは足を止めた。
「今日は、よくやりました」
彼は火口をしまって、燭台を持ち上げた。それだけだった。十年で褒められたのは二度目になる。二度とも、名前は呼ばれていない。
一度目は四年目の冬で、雪の日に卓を組み直したときだ。
書斎の扉の前で、前掛けを外した。外してから、隠しに手を入れて、畳んだ紙を掌に握り直した。何のためかは自分でも分からない。屋敷を出るときに持って出るものが、これしかないからかもしれない。
◇
書斎には燭台が一つだけ点いていた。
二日前と同じ数だ。あのときは机の上に帳面が三冊積んであった。今日は、羊皮紙が一枚だけ置いてある。
白紙だった。
「座ってくれ」
机のこちら側に、椅子が一つ置いてある。十年、この部屋にわたしの椅子があったことはない。
脚に廊下の埃がついている。運んだ者は、呼ぶ前に運んでいる。
わたしは座った。
「茶会は」
「二十八名、滞りなく。茶碗が一つ欠けました」
「よく回っていた」
「恐れ入ります」
「叔母上は」
「三度、席をお立ちになりました。三度とも、お戻りは同じ椅子でございます」
「数えていたのか」
「数えます。立たれた回数と、戻られた席が違えば、卓が組み替わりますので」
それきり、しばらく何も言われなかった。わたしは膝の上で紙を握っていた。
解雇なら、明日の朝までに荷を纏める。持って出るものは多くない。夏物の着替えが二枚と、去年の冬に買った靴。ドレスは屋敷のもので、手袋も屋敷のもので、今日いただいたぶんは机の上に置いていく。
告発なら、屋敷の者に累の及ばない形にしなければいけない。ミルカは去年の冬に入ったばかりだから、何も知らないことにできる。
厨房のコック長は味付けのことを訊かれたら困る。あれは十年、わたしの口に合わせて塩を足していたぶんだ。こちらから先に書いたものを渡しておけば、指図されただけで済む。
オズワルドは——あの人は自分でどうにかするだろう。十年、自分の帳面しか守らなかった人だ。
十年ぶんの席次表の控えは、地下の物置の三段目にある。誰にも言っていない。言っていないから、置いていけば誰も見ない。
名札の包み方だけは、書いて置いていく。二十八枚を五枚ずつ重ねて、端の三枚を上に載せる。順を違えると布の折り目に角が当たって、木が毛羽立つ。
ミルカは字が読めないから、絵にする。丸を五つ並べて、その上に三つ。それなら伝わる。伝わらなければ、包みが崩れて名札が混ざる。混ざった卓は、次の誰かが一日かけて組み直すことになる。
順に段取りをつけていったら、そこで手が空いた。
「ユーニス」
顔を上げた。一拍遅れた。名前を呼ばれると、いつも一拍遅れる。
「はい」
「聞き間違いではない」
「……はい」
「昨夜も呼んだ」
「はい」
旦那様は机の上で指を組んだ。
「いつから、ご存じでいらしたのですか」
「今日の話ではない」
「……」
「叔母上の話をする」
わたしは膝の上の手を、少し握り直した。
「叔母上は、招かれずに来た」
「はい」
「誰が報せたと思う」
「存じません」
「私が戻ることも、茶会の日取りも、知っていたのは屋敷の中の者だけだ」旦那様は机を指で一度叩いた。「叔母上は、卓の並びまで知って来ていた」
わたしは昼前の東の間を思い出した。叔母上は入ってくるなり、卓に伏せた札の並びから自分のぶんを取った。迷わなかった。一度で。二十八枚の中から、一度で。
「読める方は、名前で探されます」
「叔母上は探さなかったな」
「はい」
燭台の火が、机の縁のところで一度細くなった。
叔母上は、どこまで知って丘を上がってきたのか。声のことも、手袋のことも、あの人は去年の秋から数えている。数えている人が誰から聞いているのか、わたしにはまだ一枚も札がない。
「その話は、明日からにする」
旦那様はそう言って、羊皮紙をわたしのほうへ二寸ばかり押した。
「三つある」
「はい」
「出るなら、明日の朝に馬車を出す。行き先は君が決めろ」
「……はい」
「残るなら、帳面を書き替える。厨房でも、洗い場でもいい」
「三つ目は」
旦那様は羊皮紙の端を指で押さえた。
「来月の晩餐だ。東の小食堂、十四席。組む者がいない」
「……」
「責めるつもりはない」
「はい」
「罰するつもりもない」
「……はい」
「続けろとも言わない」
白紙は、燭台の側だけが黄色く見えた。
十年、この家の卓は全部わたしが組んできた。組めと言われたから組んだのではない。最初の一枚は、婚礼の年の秋、奥様が寝台の上でわたしに渡したものだ。「あなたの字のほうがきれいだから、わたしの分も書いて」と言って。
書けと言われれば書く。書くなと言われれば書かない。言われないというのは、十年ではじめてだった。
膝の上の紙が、手の中で角を立てていた。
◇
わたしはそれを机に置いて、広げた。
「なんだ」
「奥様の字です。去年の秋の席次を、お写しになったものです」
燭台を引き寄せた。
端の染みが、光の下で形を変えた。
染みではなかった。字だった。いちばん細い先で書かれていて、途中で力が抜けて、そのまま紙の裏まで抜けている。二日前に見たときは、インクが落ちて滲んだものだと思った。落ちたインクは、こんなに揃って並ばない。
——ユーニスの席はどこ?
二日前から、この紙はずっとわたしの前掛けの中にあった。
「読めるか」
「はい」
「何と」
読み上げようとして、一度、声が出なかった。二度目で出た。
「ユーニスの席はどこ、と」
旦那様は紙を見た。手は伸ばさなかった。
「日付は」
「ございません。紙は去年の秋の控えでございますから、書かれたのはそれより後かと」
「どこにあった」
「お部屋の小卓に。二日前の朝から、わたくしが持っております」
「そうか」
あの秋、わたしはその卓の北の端に座っていた。アデライド・クレスウェルという名前で。だから紙の上には二十七の名前が全部ある。二十七のうちのどれも、ユーニスではない。
奥様はそれを一つずつ書き写して、いちばん最後に、そう書いた。誰にでもなく。返事の来ない紙の上で。
婚礼の年の秋、寝台の上でわたしに最初の席次表を渡したとき、この人は「わたしの分も書いて」と言った。わたしはそれを、書けという意味だと受け取った。十年、そう受け取ったままきた。
押しつけた人は、こういうことを訊かない。訊く人は、自分の卓に相手の席がないことを知っている人だ。
紙の下のほうで、字がいちばん細くなっている。長く床にいた人の手は、行の終わりで力が抜ける。この一行を書くのに、どれだけかかったのかは分からない。分からないが、書いた日はたぶん、去年の秋の茶会の翌日だ。わたしが二十七の名札を並べて帰ってきた、その次の日。
わたしは紙を畳んだ。畳んでから、白紙のほうを手前に引いた。
「旦那様」
「なんだ」
「来月の晩餐は、十四席でよろしいのですか」
「そのつもりだ」
「南の端は、空けておかれますか」
旦那様の指が、机の上で一度止まった。
「空けておいてくれ」
「承知いたしました」
わたしはペンを取った。インク壺の蓋を開けて、羽根の先を布で整える。十年、この手順で始めてきた。
「では、続けましょうか」
言ってから、自分の声だと気がついた。
旦那様はしばらくわたしの手元を見ていた。それから、口の端がわずかに動いた。笑ったのだと分かるまでに、少し要った。
「ひとつだけ、条件がある」
わたしはペンを持ったまま、顔を上げた。
白紙には、まだ一つも名前が載っていない。
【本日の席次】書斎・机ひとつ・椅子二つ。上座は決めておりません。卓の上には白紙が一枚。
席次を組む仕事にいちばん近い現代の仕事は何だと思われますか。結婚式の席次表だとよく言われるのですが、わたしは会議の座席割りだと思っています。誰の隣に誰を置くかで、その日に決まる話が変わる。決まった話は議事録に残りますが、誰が席を組んだかは残りません。
主人公は今日、はじめて自分で決めました。決めた中身は、これまでとまったく同じことを続ける、というものです。同じことでも、命じられて続けるのと、自分で続けると言うのとでは、座る位置が変わります。
ところで、この物語の卓にも空席があります。栞と評価は、こちらでは名札として扱っております。一枚置いていただけると、その席がひとつ埋まります。
次回、条件の中身です。




