第5話 気づいておいででしたか
東の間の扉を開ける前に、わたしはいつも卓の名前を頭の中で一度読み上げる。
二十六の客と、旦那様と、わたし。二十八。
長卓を一つ、上座を北に。北の端がわたしで、南の端が旦那様。両側の辺に十三ずつ。叔母上は北から三つ目、わたしの斜め向かいに置いた。家格でいえばそこが正しい。正しい場所というのは、いちばん安全で、いちばん危ない。
叔母上は刻限の四半刻前に入ってきて、迷わず自分の名札を取った。
「これ、わたくしの」
「はい、叔母様」
「ずいぶん白い木ね」
「先ほど、彫り直させました」
「まあ」叔母上は札を戻した。「では、わたくしはこの家の新しいお客ということ」
「お席は、いつでもございます」
「そう言っていただけると助かるわ。招かれておりませんもの」
叔母上は笑った。笑ったまま卓を端から端まで一度見て、それから座った。
◇
一種目の茶が回るまでは、卓はよく動いた。
ヴィエラ伯爵夫人が窓の位置を褒め、ロッシュ子爵が去年の砂糖壺の話を持ち出し、アーレン男爵が春の領境の件を三度言いかけて三度止められた。旦那様は南の端で、必要なところにだけうなずいていた。公爵が夫人の茶会に出ているというだけで、卓の半分は今日一日それを話題にできる。
二種目の菓子が出たところで、叔母上が匙を置いた。
「アデライドさん」
「はい、叔母様」
「お声、変わったわね」
「風邪が長引いておりまして」
「十年」
卓の音が半分になった。
「わたくし、去年の秋にお会いしたときからずっと考えていたの。お顔でも、髪でもないのよ。声だけ」叔母上は茶碗を持ち上げた。「婚礼のときのあなたは、もう少し高くていらした」
「歳を取りました」
「わたくしも取りましたけれど、声は変わらないわ」
わたしは菓子を一つ取って、皿の上で半分に割った。割る所作は、答えを考える時間を三つぶん稼ぐ。十年、そのために覚えた。
「ご実家からのお手紙は」叔母上が言った。
「季節ごとに頂戴しております」
「去年の冬のは、何と」
「兄が家を継いだと」
「そう」茶碗が受け皿に戻った。「ずいぶん、はっきり覚えていらっしゃるのね。お加減の悪い方が」
卓の端のほうで、誰かが匙を皿に置いた。それきり、誰も取り上げなかった。
答えたのがまずかった。答えなければ、もっとまずかった。この人の訊き方は、どちらへ転んでも一つずつ削れる形に組んである。有能な人だ。十年、この屋敷の帳面を数えてきた目で、今日は人を数えている。
「叔母様」
「なあに」
「お茶を替えさせます」
「まだ結構よ」叔母上は身を乗り出した。「婚礼の朝、控えの間で、わたくしはあなたの手を取ったわ」
わたしは指の中で菓子の欠片を潰した。手袋の下だから、誰にも見えない。
「指輪が入らなくて、二人で笑ったの。覚えていらして」
あの朝、控えの間に入れたのは三人だ。ロウレンツの奥様と、乳母と、仕立ての者。叔母上はその三人に入っていない。わたしは廊下にいて、扉の外で盆を持っていた。
だから、それは嘘だ。
嘘だと言えばいい。言えば、床にいたはずの人間が十年前の控えの間の並びを覚えていることになる。
「……覚えておりません」
「まあ」
「あの朝のことは、ほとんど。緊張しておりましたので」
「けれど、去年の冬のお手紙は覚えていらっしゃる」
叔母上は椅子の背に体を戻した。卓の二十六人が、こちらを見ていないふりで全部聞いている。
言葉では、もう出られない。
◇
わたしは右手を挙げた。合図はそれだけでいい。
扉が開いて、二種目の茶が入ってきた。同時に東の窓が二つ開く。給仕が卓の南側から順に名札を取って、二つずつ北へ寄せていく。客は自分の札を追って立ち、札の止まったところへ座り直す。
十年、この屋敷の茶会は後半で一度だけ席が回る。理由を訊いた人は一人もいない。窓を開けると風の当たる側が変わるから、というのが表向きの理由で、それは嘘ではない。
叔母上は北から三つ目から、六つ目へ動いた。
左にロッシュ子爵。右にアーレン男爵。向かいの辺には、カリス男爵夫人とその義妹を同じ側に並べた。
去年の秋、それをやって砂糖壺が一つ割れた。あれは事故だった。今日は事故ではない。
「——ですから、領境の杭というのは動かせばいいというものではなく」
アーレン男爵が始まった。この人は名札の字がいちばん長い。話も長い。
「叔母上様は、あの辺りの土地をご存じでいらっしゃいますか」
「存じませんわ」
「は?」
ロッシュ子爵が左から身を乗り出した。この人は右の耳が遠いので、右隣の話は全部聞き返す。叔母上は、いま子爵の右隣にいる。
「存じません、と申しました」
「は?」
向かいで、カリス男爵夫人の義妹が匙を置く音を立てた。夫人のほうが何か言った。義妹が茶碗を押しやった。卓の視線が、そちらへ一斉に流れた。
叔母上の声は、もう卓の端まで届かない。届かせようとすれば、届かせようとしている人に見える。
この人はそれを分かる人だ。だから、二口で茶をやめた。
「よく回る卓ですこと」
叔母上が立ち上がった。わたしの椅子の横まで来て、屈むように顔を寄せる。
「日を改めますわ。次は、こちらから決めさせていただく」
「お待ち申し上げます」
「ええ」叔母上はわたしの手元を見た。「……その手袋、よくお似合いね。前のは、ずいぶん窮屈そうでしたもの」
扉が閉まった。
◇
卓は回っていた。
アーレン男爵が領境を三度目の頭から説明し直し、カリス男爵夫人と義妹のあいだにヴィエラ伯爵夫人が入り、ロッシュ子爵が誰にともなく去年の砂糖壺の話に戻っている。全部、組んだとおりに動いていた。
茶碗を持ち上げようとして、持ち上がらなかった。朝から何も口に入れていない。手袋の中の指が冷たくて、そこから先の感覚が薄い。卓の面が近くなった。近くなったというより、こちらが下がった。
肘の下に、何かがあった。
旦那様の腕だった。
卓布の下で、肘から手首までを掌で受けている。掴んだのではない。掴むには早すぎる。わたしが傾きはじめてから南の端の椅子までは、卓一つぶんの距離がある。
置いてあったところへ、こちらが落ちたのだ。
旦那様は卓のほうを見ていた。ヴィエラ伯爵夫人にうなずいて、アーレン男爵の三度目に短く相槌を打っている。腕の位置は変わらなかった。
わたしは息を吸って、背を伸ばした。
腕が引いた。誰も気づかなかった。二十六人のうちの一人も。
わたしは茶碗を持ち上げた。今度は持ち上がった。
腕は、わたしが傾く前からそこにあった。傾いてから伸ばしたのでは、卓一つぶんは間に合わない。間に合わせるには、今日この卓でこうなることを、朝のうちから見込んでおかなければいけない。
手袋の寸法を、誰かが測り直したのと同じ順序で。
◇
客が帰ったのは、日が傾きはじめた頃だった。
ミルカが名札を集めて回っている。読めないので、集める順は形で覚えている。
「レイルさん」
「なに」
「札、二枚足りません」
「叔母様が一枚お持ちになったわ。もう一枚は北から六つ目、卓の下」
「よく見てますね」
「見るのが仕事よ」
「じゃあ、あたしも見てましたけど」ミルカは札を胸に抱え直した。「旦那様、ずっとこっち見てましたよ」
「卓を見ておいでだったのよ」
「卓は見てませんでした。北の端です。茶を一口飲むたびに、一回ずつ」
わたしは数える手を止めた。
東の間の扉が開いた。旦那様が入ってきて、卓の脇に立つ。ミルカは札を抱えたまま頭を下げて、出ていった。
「旦那様」
「なんだ」
わたしは手袋を外した。外すところを、この十年、屋敷の誰にも見せたことがない。
「……気づいておいででしたか」
旦那様は空の茶碗を見ていた。
「いつから、でございますか」
答えはなかった。窓の側だけがまだ明るくて、卓の北の端までは光が届いていない。
「話がある」しばらくして、旦那様は言った。「書斎へ」
わたしは頭を下げた。
下げながら、書斎の卓を組んでいた。机が一つ、椅子が二つ。上座がどちらなのかは、作法の本に書いていない。
【本日の席次】東の間・長卓ひとつ・二十八席。北から三つ目の札が、途中で六つ目へ移りました。卓の下に一枚落ちています。
叔母上が出てきました。この人は嫌な人ですが、無能ではありません。訊いてくることが全部的確で、しかも答えても答えなくても一つずつ削れる形に組んである。ああいう訊き方をする親戚が、たぶんどのご家庭にも一人はいます。
主人公は言葉で勝てなかったので、卓のほうを動かしました。口より札のほうが速い人です。ちなみに彼女が今日わざと破った禁じ手は、第一話ですでに一度だけ「やってはいけない」と説明されています。
次回、書斎です。机の上には、白紙が一枚あります。




