第3話 旦那様は、わたしの名前をご存じない
馬車は、日が落ちる少し前に丘を上ってきた。
玄関の間に使用人が並ぶ。オズワルドが先頭、そのうしろに執事二人、料理番、侍女が六人。わたしはその列に入らない。十年、入ったことがない。
わたしは階段の三段目に立って、待つ。
妻が夫を迎える位置というのが決まっていて、それは列の外側の、少し高いところだ。決めたのはわたしではない。作法の本にそう書いてあって、その本を読んだのもわたしだ。
扉が開いた。
旦那様は外套を脱ぎながら入ってきた。二年ぶりだ。髪が少し短くなっている。それ以外は、記憶の中の人とほとんど同じだった。
「お帰りなさいませ」
わたしは頭を下げた。
旦那様は一度こちらを見て、うなずいた。それだけだった。外套をオズワルドに渡して、階段のほうへ歩いてくる。すれ違うときに、足が止まった。
「晩餐は」
「東の小食堂に、ご用意しております」
「ああ」
それで通り過ぎた。
わたしは三段目に立ったまま、旦那様が二階へ上がりきるのを待った。それから列のほうへ下りると、オズワルドが最後まで残っていた。
「ご苦労だった」
彼は使用人たちにそう言った。それから、わたしに言った。
「そちらも」
「はい」
「明日の茶会の件は、旦那様にはまだお伝えしていない」
「奥様が出席なさる、ということをですか」
「奥様が、と申し上げております」
わたしは口を閉じた。言い直したつもりはなかった。ただ、「奥様が出席なさる」という言い方が、三日前から少しずつ自分の中で意味を失いはじめていて、その音が出しにくくなっている。
「オズワルドさん」
「なんですか」
「旦那様には、いつお伝えになりますか」
「明日の朝に」
「茶会は昼でございます」
「昼までに間があります」
「二十六名のお名前と、お顔と、この春にどなたとどなたが何でもめたかを、朝のうちにお伝えになるおつもりですか」
オズワルドは外套を腕にかけ直した。
「そちらが伝えればよろしい」
「わたくしは卓の外におりますが」
「奥様が伝えればよろしい」
言い直したのは、この人のほうだった。言い直したという顔はしていなかった。
「席次表の写しを、一枚お作りいたします」
「二枚。一枚はわたくしが預かります」
「お手元に置かれるのですか」
「屋敷の帳面に綴じます」
「では、日付を入れておきます」
「入れなさい」
「支度を」
「はい」
◇
東の小食堂の長卓は、十四人ぶんの長さがある。
二人で使うには長すぎるので、いつもは端を詰める。今夜は詰めなかった。オズワルドが、そのままでよいと言った。
わたしは北の上座に。旦那様は南の上座に。あいだに十二の空席がある。
卓の南の端、旦那様のさらに向こう側に、一輪だけ花が置いてあった。
白い、名前を知らない花だ。皿も、椅子も、そこには置いていない。花が一本、卓布の上に横たえてある。
わたしは席についてから、それを見ていた。
この花のことは知っている。旦那様が屋敷に戻られた日の晩餐には、必ず置かれる。十年、一度も欠けたことがない。誰が置くのかも、なぜ置くのかも、わたしは訊いたことがなかった。訊く立場ではないからだ。
奥様のためだろう、と思っていた。その席には誰も座らないけれど、置く場所がなかったのだろう、と。
今夜は、その解釈が急に薄くなった。
置かれる相手が本当に奥様なら、今夜こそ置かれないか、逆に二本になるかしそうなものだ。花は一本のまま、いつもと同じ位置にあった。
「座ってくれ」
旦那様が言った。わたしはもう座っていた。
言ってから、旦那様も気づいたようだった。目だけ少しこちらへ向けて、それきりスープに手をつけた。
スープが出た。野菜を煮崩したものだった。厨房の三つの鍋のうち、いちばん左のもので、それは奥様の分として作られていた鍋だ。今夜は行き先がないので、こちらへ回ってきたのだろう。
わたしは一口飲んだ。
わたしの口には、ちょうどいい。
旦那様も一口飲んだ。何も言わなかった。
旦那様は、この十年で数えるほどしかこの屋敷の食事をしていない。それでも、公爵夫人の食事が病人食であることは知っているはずだ。塩気の効いた野菜のスープが出てきて、何も言わないというのは、どういうことなのだろう。
考えかけて、やめた。二年ぶりの人の舌のことを、こちらが決められるはずがない。
「議会は」
わたしは訊いた。奥様なら訊く。
「片がついた」
「早うございましたね」
「早く終わらせた」
「お疲れでいらっしゃいましょう」
「疲れてはいない」
「では、明日の朝はごゆるりと」
「遠乗りに出る」
「雨が降るかもしれません」
「降ったら濡れる」
そこで会話が切れた。
旦那様は三度目の来訪のときも、五度目のときも、こうだった。話を続ける気がないのではなく、続け方を持っていない人なのだと、途中から思うようになった。
だからわたしのほうから続ける。それも仕事のうちだ。
「明日、東の間で茶会がございます」
匙が止まった。
「二十六名。ヴィエラ伯爵夫人、ロッシュ子爵、アーレン男爵。あとは春から夏にかけて、お返しをしていない方々です」
「アーレン男爵」
「はい」
「領境の件は」
「春に、隣の谷の水路でもめておいでです。まだ片がついておりません」
「呼ぶのか」
「お呼びいたします。もめておいでの方をお呼びしないと、もめていることのほうが外に知れます」
「どこへ置く」
「ロッシュ子爵の左に」
「なぜ左だ」
「子爵は右の耳が遠くていらっしゃいます。左からでないと届きません。届かない話は、卓の上で大きくなりません」
「離さないのか」
「離すと、お二人とも黙られます。近づけますと、周りの方が仲裁のために喋ってくださいます」
旦那様の手が、椀の縁で一度止まった。
「よく覚えているな」
「覚えておくのが、屋敷の役目でございます」
「席は」
「組んでございます」
「誰が」
わたしは匙を置いた。
「わたくしが」
言ってから、しまったと思った。奥様は席次を組まない。組めない。十年床にいる人が二十六人の顔と癖を覚えているはずがない。この屋敷でその答えを言っていいのはオズワルドか、あるいは「侍女に指示させております」だ。
「——奥様のご指示で、わたくしどもが」
言い直してから、自分で寒気がした。わたくしども。
旦那様は匙を持ち直した。
「そうか」
それだけだった。追及されるかと思って身構えていたぶん、行き場のなくなった息が胸に残っている。
その先はもう何も訊かれなかった。皿が下げられて、菓子が出て、茶が出て、旦那様は半分残した。残す人だ。十年変わらない。
わたしは立ち上がって、頭を下げた。
「お先に失礼いたします」
扉のほうへ歩いた。
卓の端の花が、視界の隅を通り過ぎた。
「ユーニス」
わたしは扉に手をかけたまま、止まらなかった。
止まる理由がなかった。この屋敷で、その音を聞くことがない。ミルカがレイルさんと呼ぶ。オズワルドがそちらと呼ぶ。ほかの誰も、わたしを何とも呼ばない。
三歩進んでから、足が止まった。
振り返ると、旦那様は茶碗に手を伸ばしているところだった。こちらを見ていなかった。
「……何か、仰いましたか」
「いや」
「さようでございますか」
わたしは扉を閉めた。
廊下で、少しのあいだ立っていた。
扉の向こうで、茶碗が受け皿に戻る音がした。それきり何も聞こえない。あの人はひとりになっても、椅子を引く音さえ立てない人だ。
聞き間違いだ。何の音を聞き間違えたのかは分からない。ユーニスに似た音が、この屋敷の夜にあるとは思えない。それでも、聞き間違い以外の説明がない。
旦那様は、わたしの名前をご存じない。
帳面には侍女一名としか書いていない。十年、名乗ったことがない。婚礼の日にも、わたしは列の外にいた。
知っているはずが、ないのだ。
◇
自室へ戻る途中、階段の下で呼び止められた。旦那様が、食堂の扉のところに立っていた。
「明日の茶会だが」
「はい」
「私も出る」
わたしは手すりに手をかけたまま、動けなかった。公爵が夫人の茶会に出た例を、わたしは十年で一度も知らない。作法の本にも書いていない。書いていないということは、してはいけないという意味ではなく、誰もしないという意味だ。
「……お席を、ご用意いたします」
「面倒か」
「上座が二つになるだけでございます」
「二つで足りるのか」
「北と南に分けてお据えいたします。同じ辺には並べません」
「なぜだ」
「同じ辺にお二人が並びますと、二十六名が交互に首を振ることになります。首が疲れますと、話が途切れます」
「頼む」
旦那様は扉の中へ戻った。わたしは階段を上がった。上がりながら、頭の中で卓を組み直しはじめていた。二十七に一つ足して二十八。上座が二つになる。ヴィエラ伯爵夫人を東からもう一つ離さなければいけない。ロッシュ子爵の左は空けられない。
三段目で、手が止まった。
止まったのは足ではなく、手のほうだった。手すりを握った指が、うまく開かなかった。
【本日の席次】東の小食堂・長卓・十四席のうち二席。南の端に、皿のない花が一本。
勝負の回でした。
この作品でいちばん大事なのは、たぶんここです。読者のみなさまと主人公のあいだに、今日から差ができました。主人公は聞き間違いだと思っています。みなさまは、たぶんそう思っていません。
その差が埋まるまで、あと二話かかります。
次回、茶会の当日です。手袋は、やはり合いません。




