第2話 明後日の茶会には、奥様が出席なさいます
衣装部屋には、同じ寸法のドレスが二着ある。
左が奥様のもので、右がわたしのものだ。仕立て屋には「奥様の予備」と伝えてある。十年前に一度そう言って、それきり誰も疑わなかった。予備を二着持つ夫人はいくらでもいる。
わたしは右のほうを衣桁から下ろした。
薄い青。襟が高くて、手首が詰まっている。詰まっているのは、そのほうが手首の太さの差が出ないからだ。奥様の手首はわたしより細い。頬の肉付きも、肩の傾きも違う。似ているのは背丈と、目の色と、髪の生え際のかたちだけで、あとは十年かけて寄せてきた。
姿見の前に立って、襟を留めた。
鏡の中で、公爵夫人アデライド・クレスウェルが襟を留めていた。
この人を、社交界の誰も本物と比べたことがない。婚礼の年の秋に奥様が床についてから、外へ出たのは一度もわたしだ。ヴィエラ伯爵夫人が「奥様は昔から窓際がお嫌い」と言うとき、その昔というのは、わたしが窓際を避けた回数のことを指している。
真似てきたのではない。作ってきた。
そう思ってしまってから、思わなかったことにした。
「レイルさん、椅子の印なんですけ——」
扉が開いた。ミルカが、背の低い椅子を両脇に一つずつ抱えて立っていた。
部屋の中を見た。姿見の前のわたしを見た。衣桁の左に残ったもう一着を見た。それから、もう一度わたしを見た。
椅子を、静かに床に置いた。
「レイルさん」
「なに」
「それ、奥様のですよね」
「わたしのよ」
「同じのが二着ありますけど」
「そう」
ミルカは前掛けの端を折り畳んだ。折って、伸ばして、また折った。
「奥様、亡くなってますよね」
わたしは襟から手を離した。
「いつから知ってた」
「昨日の夜です」ミルカは天井のほうを見た。「奥様の分の鍋、三日前から誰も味見しないんですよ。あたしが入る前からずっと、奥様の分だけコック長が自分で味見してたのに、三日前から一回も。それでおかしいなって」
「それだけで」
「あと、レイルさんが昨日、味見しました」
わたしは黙った。
「その顔されると、あたしのほうが悪いことしたみたいになるんでやめてください」ミルカは椅子を一つ壁際に寄せた。「三日前に亡くなってる人の寸法を、よく平気で測れますね」
「平気ではないわ」
「じゃあ手、震えてから測ってくださいよ。あたしが怖いので」
わたしは自分の手を見た。
震えていなかった。震え方を忘れたわけではないと思う。ただ、この十年、震えていい日というのが一日もなかった。
「ミルカ」
「はい」
「この話は、外に出したら屋敷が潰れる」
「潰れるんですか」
「主のいない家に王家が何をするか、わたしは知らない。知らないけど、いいことは起きない」
「あー」ミルカは椅子の座面を裏返して、印を確かめている。「潰れたらあたし、次どこ行けばいいんですかね」
「潰さないわ」
「じゃあいいです」
「潰さないと言われて、それで済むの」
「済みますよ。潰れたら潰れたで、そのとき考えます」
「そのときでは遅いわ」
「遅くても、あたしにできることが増えるわけじゃないので」
それだけだった。
この子は、誓わせるという発想を持っていない。
「レイルさん」
「なに」
「あたし、何すればいいですか」
「椅子を運んで」
「それだけ?」
「それだけ」
「明日、あたし東の間にいていいですか」
「給仕はいつもどおり入るわ」
「そうじゃなくて、レイルさんの見えるところに」
「なぜ」
「なんかあったとき、皿を落とすくらいはできます」
「落とさないで」
「じゃあ、落としそうな顔でいます」
◇
昼過ぎまでかかって、東の間の卓を組んだ。
長卓を一つ。上座を北に向けて、二十七の名札を並べる。名札は木の札で、表に名前が、裏に何も書いていない。わたしは並べ終わってから、ミルカを呼んだ。
「これ、覚えられる?」
「読めませんってば」
「読まなくていい。かたちで」
ミルカは卓の端から歩いていって、途中で立ち止まった。
「上から三つ目のとこ、札の縁が欠けてます」
「ヴィエラ伯爵夫人。去年、砂糖壺を割ったときに一緒に落ちた」
「その二つ隣が、字がいちばん長いやつですね」
「アーレン男爵」
「じゃあ覚えました」
「全部?」
「欠けてるのと長いのと、あと右の端が二枚だけ木が白いです。新しいんですね、あれ」
わたしは卓を見渡した。
右端の二枚は、この春に新しく作った札だ。誰も気づいたことがない。わたしも、言われてから思い出した。
「あの二枚は、カリス男爵夫人と、その義妹のよ」
「新しい方たちですか」
「古い方たち。札のほうが去年の秋に割れたの」
「割れます? 木ですよ」
「同じ辺に並べたら割れたわ」
「並べると割れるんですか」
「並べた者が悪いのよ」
「ミルカ」
「はい」
「あなた、字が読めなくても困らないでしょう」
「困りますよ。給金の紙が読めません」
「わたしが読むわ」
「じゃあ困りません」
ミルカは卓の端の札を一枚だけ表に返して、また伏せた。返した理由も伏せた理由も訊かなかった。この子は物を触って場所を覚える。目でなく手で覚えるので、覚えたものは動かない。
ミルカは卓の下に潜って、椅子の脚の高さを見はじめた。
◇
手袋が合わなかった。
昼下がり、支度のひととおりを試したときだ。奥様の手袋は、指の付け根で止まる。無理に押し込めば入るし、押し込んだところで卓の上では誰も見ない。十年、そうしてきた。
右の中指の縫い目が、今日は裂けた。わたしは裂け目を指で押さえて、しばらくそのままにしていた。
仕立て屋に出す寸法は、十年前に一度だけ測った奥様の手のかたちだ。そのあと誰も測り直していない。測り直す理由がない。手袋をはめるのは奥様で、その奥様は十年、部屋から出ていないのだから、手の大きさが変わるはずもない。
わたしの手は変わった。
十六から二十六までのあいだに、指も、掌も、少しずつ大きくなった。誰にも申告していない。申告する先がない。この屋敷で寸法を出す紙には「奥様」としか書かないので、書いた者の手が育ったかどうかを気にする欄が、そもそも紙のほうに無い。
裂けた手袋を隠しに入れて、予備を出した。予備も同じ寸法だった。
はめて、指を曲げてみた。第二関節で止まる。止まったところで卓につけば、茶器を持つ手つきが少しだけ硬くなる。硬いのは緊張しているからだと、この十年、何人もの方に言われてきた。ヴィエラ伯爵夫人には「奥様は昔から人見知りでいらっしゃる」と言われた。
人見知りではない。手袋が小さいだけだ。
そう言える相手がいないので、わたしはいつも笑って頷いてきた。頷くだけなら、手袋の寸法は関係ない。
裂けたほうを衣装箱へ入れるとき、蓋の上の包みが手に当たった。
旦那様の外套だ。二年前にお戻りになった晩、椅子の背にかけたまま、翌朝そのまま王都へ発たれた。誰も片づけに来ないので、あの秋にわたしが畳んだ。それから毎年、虫除けの薬包を替えて、同じ場所へ戻している。屋敷の帳面に載らないものは、載らないまま同じ場所に置いておくのがいちばん間違いが少ない。
右の隠しに、乾いた花が一輪入っている。白い、名前を知らない花だ。押されて平たくなって、色だけがまだ残っている。
二年前に入れて、そのままになったのだろう。奥様のためだ、とわたしは思っている。ほかに思いようがない。数えるほどしかお戻りにならない人が、この屋敷で誰かのために花を持つとすれば、それは二階の東の端にいる人のためだ。
薬包を替えて、蓋を閉めた。
◇
日の高いうちに、オズワルドが階段の下に立っていた。
手ぶらだった。この人が帳面を持たずに人を待つのを、十年で数えるほどしか見ていない。
「今夕、旦那様がお戻りになります」
わたしは階段の途中で足を止めた。
「聞いておりません」
「今朝、報せが参りました」
「予定では、来月まで王都の議会に」
「切り上げられたそうです」
西日が、階段の下の床の板目まで届いていた。
「オズワルドさん。旦那様は、ご存じなのですか」
「何をです」
「奥様のことです」
彼は答えなかった。答えないというかたちで答える人だから、わたしは待った。
「三日前に、書状を出しました」
「では」
「返事は来ておりません」
「二階の東の端は」
「誰も上がりません」
「旦那様がお上がりになりましたら」
「上がられません。二年、一度も」
「二年ぶりにお戻りになる方の癖を、二年前のまま数えてよろしいのですか」
彼は袖を直した。
「今夜の晩餐は、東の小食堂で。二人ぶんです」
「二人ぶん」
「旦那様と、奥様です」
わたしは手すりを握った。
十年、旦那様と同じ卓についたのは、数えるほどしかない。婚礼のとき、それから年に一度か二度、王都から戻られた日の晩餐。話しかけられたことは、たしか三回。どれも「座ってくれ」だった。
その人が、今夜、奥様の死を知った上で戻ってくる。
あるいは、知らないまま戻ってくる。
どちらのほうが恐ろしいのか、階段を上りきるまで決められなかった。
【本日の席次】東の間・長卓ひとつ・二十七席。名札は木札、右端の二枚だけ新しい。
ミルカが出てきました。この作品でいちばん自由な人です。
彼女は字が読めないので、卓を「かたち」で覚えます。欠けた札、字の長い札、木の白い札。読める人は名前を読んで、読めない人は物を見る——どちらが正確かは、たぶん場合によります。この覚え方は、ずっと先で一度だけ効きます。
次回、旦那様がお戻りになります。長卓の端には、なぜか一輪だけ花が置いてあります。




