第1話 奥様は、二日前に亡くなりました
奥様が亡くなって、二日が経った。その報せは、まだ屋敷の外へ一歩も出ていない。わたしは無人の広間で、明後日の茶会の席次表を書いている。
羊皮紙の上に、二十七の名前が並んでいる。ヴィエラ伯爵夫人は窓際を嫌う。ロッシュ子爵は右耳が遠いから、話しかけたい相手を、子爵の左に置く。カリス男爵夫人とその義妹は、同じ辺に並べてはいけない。去年の秋にそれをやって、砂糖壺が一つ割れた。
十年ぶん、この屋敷の茶会の席は全部わたしが組んできた。
この紙のどこにも、わたしの名前はない。
背後で扉が開いた。家令のオズワルドが、燭台も持たずに入ってくる。
「明後日の件ですが」
「席次は上がっております」
「結構」彼はわたしの手元を見なかった。「奥様は、明後日の茶会に出席なさいます」
ペンの先から、インクが一滴落ちた。わたしはそれを指で伸ばして、染みにした。
「——では、組み直します」
オズワルドが、はじめてわたしを見た。
「何を直す必要が」
「奥様は、二十六人の顔を覚えておいでではありません。わたしが覚えております。覚えている者が下座に遠いと、不自然になりますので」
「上座は」
「北に。窓を背にいたします」
「奥様は窓際がお嫌いだ」
「お嫌いなのはヴィエラ伯爵夫人です」
オズワルドは訂正されたことに気づかない顔で、袖を直した。
「刻限は」
「二の刻から一刻半。それより長くはいたしません」
「短いのでは」
「二十六名で一刻半でしたら、お一人あたり三分ほどお話しになれます。それより長くいたしますと、話し足りない方が出るのではなく、話し過ぎる方が出ます」
彼はしばらく黙っていた。それから、うなずいた。
「そちらの判断で」
そちら。十年、この人はわたしをそう呼ぶ。名前で呼ばれたことは一度もない。屋敷の帳面には「侍女一名」と書いてあって、その一名にはたしかに賃金が支払われているのだから、名前が要らないというのは間違ってはいない。
わたしはペンを持ち直した。
二十七の名札を、頭の中で卓の上に並べ直す。上座から時計回りに、家格の順ではなく、話の通りやすい順に。ヴィエラ伯爵夫人を東の窓から二つ離す。ロッシュ子爵の左に、この春に領境の話でもめたばかりのアーレン男爵を置く。もめた相手同士を離すのは素人のやり方で、離すと二人とも黙る。近づけると、周りが仲裁のために喋る。
卓が回れば、その日の茶会は成功したことになる。十年、そうやってきた。
二十七のうち、旦那様の席はない。この屋敷の主は王都の議会にいて、戻られるのは来月の予定になっている。十年で数えるほどしかお戻りにならない人だから、席を用意したことも数えるほどしかない。用意しなかった回数のほうを、わたしは正確に覚えている。
ペンを置いて、指の染みを見た。乾いていた。
◇
奥様の部屋は、二階の東の端にある。
扉を開けると、まだ薬の匂いがした。窓は閉め切ってある。夏の初めだから、そろそろ開けなければいけない。開けたら匂いは消えるだろう。消えたら、この部屋は誰の部屋でもなくなる。
わたしは窓を開けなかった。
寝台の上のかたちは、二日前と同じ位置にある。白い布がかけてあって、その布は昨日わたしが替えたものだ。皺の寄り方まで覚えている。
「アデライド様」
声に出してから、返事が返らないことに気がついた。
この十年、返事が返ってきたことのほうが少なかった。それなのに、いま初めて返らなかったような気がしている。
寝台の脇の小卓に、書きかけの紙が一枚あった。
奥様の字だ。細くて、途中で力が抜ける。長く床にあった人の字だから、行の終わりに向かって下がっていく。三年目から、奥様の名で出す手紙は全部わたしが書いている。
紙には、去年の秋の茶会の席次が書いてあった。
書き写しだ。わたしが作った表を、奥様が自分の手で写している。何のために、とは思わなかった。この人はときどきこういうことをした。自分が出ていない場所のことを、あとから紙の上で辿ろうとする癖があった。
紙の端に、小さな染みがある。インクが落ちて、そのまま乾いたのだろう。わたしは同じことを、ついさっき下の広間でやったばかりだった。
紙を畳んで、前掛けの隠しに入れた。
◇
厨房へ下りると、鍋が三つかかっていた。
どれも普段どおりの量だ。奥様の分も、いつもどおり作られている。二日前から、誰もそれを止めていない。止めろと言う者がいないからで、言う者がいないのは、屋敷の中でも奥様が亡くなったことを知っているのが四人しかいないからだ。
わたしと、オズワルドと、医師と、あとひとり。
「レイルさん」
振り向くと、厨房付きの見習いが立っていた。ミルカという。十六で、去年の冬に入ったばかりで、この屋敷で唯一わたしを名字で呼ぶ。
「なに」
「東の間の卓、二十七で合ってます?」
「合ってる」
「じゃあ椅子が二つ足りません」
「地下の物置に、背の低いのが四つある」
「あれ脚がぐらつくやつですよね」
「ぐらつくのは二つ。あとの二つは大丈夫」
「見分けつきます?」
「座面の裏に印がある」
ミルカは前掛けの端を折り畳んだ。この子は困ると必ずそうする。
「あたし、字が読めないんですけど」
「印は字じゃない。丸か、丸じゃないか」
「あー」ミルカは少し明るい顔になった。「それならいけます」
「丸のほうを持ってきて」
「丸じゃないほうは置いてくんですか」
「四つとも運んで。二つは予備」
「ぐらつくやつも運ぶんですか」
「当日に脚が折れて物置まで走るのと、いま四つ運ぶのと、どちらが早いか考えて」
「走るほうが遅いです」
「そう」
鍋の蓋が鳴った。
わたしは奥様の分の鍋の前へ行って、蓋を取った。中は野菜を煮崩したものだった。塩気が薄い。病人食だから薄いのだろうと、この十年ずっと思っていた。
匙で一口すくって、口に入れた。
薄くない。
わたしの口には、ちょうどいい。
匙を鍋に戻した。手が止まっていることに、少し遅れて気がついた。
「レイルさん、それ、味見していいんでしたっけ」
「よくないわ」
「じゃあ見なかったことにします」
「そうして」
「その鍋だけ、コック長が自分で味見するんですよ。あたし、一回も匙を入れさせてもらったことがありません」
「今日は」
「今日は来てません。昨日も来てません」
わたしは蓋の縁を布で拭いた。拭かなくてもよかった。
「レイルさん」
「なに」
「奥様、お加減どうなんですか」
わたしは蓋を戻した。
「変わらない」
「そうですか」ミルカは椅子のことを考えている顔で言った。「早くよくなるといいですね」
◇
夜になって、オズワルドが書斎へ来いと言った。
書斎には燭台が一つだけ点いていた。机の上に、屋敷の帳面が三冊積んである。彼はそのうちの一冊を開いていたが、わたしが入ると閉じた。
「明後日の支度は」
「東の間、卓一つ、二十七席。菓子は三種、茶は二種。楽師は入れません」
「なぜ」
「音が入ると、話が続きません。今回は続けていただいたほうがよろしいかと」
「結構」
彼はもう一冊を手前に寄せた。
「オズワルドさん」
「なんですか」
「役所には、いつ」
彼の手が止まった。
「何の話です」
「お届けです。奥様の」
書斎が、燭台の音だけになった。芯が燃える音がする。
「そちらの仕事ではありません」
「はい」
「明後日の茶会に、奥様は出席なさいます。それが屋敷の決めたことです」
「承知しております」
屋敷の決めたこと、という言い方をこの人はよくする。決めたのが誰なのかは決して言わない。この屋敷で紙に判を捺せるのは旦那様だけで、その旦那様は王都の議会にいて、戻られるのは来月の予定だ。ならば決めたのは目の前のこの人で、それでも「屋敷が」と言う。
「旦那様は」
「議会の会期が明けるまでお戻りになりません」
「奥様のことは」
「そちらの仕事ではありません」
同じ言葉が二度出た。二度出るときは、その先に何もない。
わたしは扉のほうへ半歩下がった。それから、下がりきる前に足を止めた。
「明後日の茶会だけ、でございますね」
オズワルドは帳面から顔を上げなかった。
「オズワルドさん」
「——明後日は、手始めでございます」
燭台の芯が、一度大きく揺れた。わたしは頭を下げて、扉を閉めた。
廊下は暗かった。突き当たりの窓から、丘の下の王都の灯が見える。この十年、あの灯のどこかにいる二十六人だの四十人だのの前に、わたしはアデライド・クレスウェルとして立ってきた。誰にも咎められなかった。咎められるはずの人は、二階の東の端で二日前から動いていない。
前掛けの隠しに、畳んだ紙の角が当たっていた。
【本日の席次】東の間・長卓ひとつ・二十七席。上座は空席のまま。
ここから始まります。主人公は嘆く前に手が動いてしまう人で、それはたぶん、嘆くことを誰にも許されてこなかったからです。
席次を組む仕事というのは実在の作法で、身分の順に並べるだけなら誰にでもできます。難しいのは「誰と誰を喋らせるか」を組むほうで、そこから先は帳面には残りません。残らない仕事を十年やってきた人が、この話の主人公です。
次回、明後日の支度が始まります。衣装部屋には、同じ寸法のドレスが二着あります。




