第15話 本物の証明
東の間に、長卓を出した。
「畳んでおいてよろしいのでは」オズワルドが言った。「椅子が二脚あれば足ります」
「監査官殿は書かれます。書く方には卓が要ります」
わたしは北の短辺に椅子を置いて、南の短辺にもうひとつ置いた。あいだは十二人ぶん空く。近いほうが人はよく喋る。十年、そのために卓を詰めてきた。今日は詰めない。
ギルバートは入ってくるなり、南の椅子の位置をひとつぶん後ろへ引いた。
「遠いほうが、事実だけが届きます」
「では、そのように」
彼は綴りを開いた。表紙に日付が入っている。昨日の日付だ。
「手順を申し上げます。夫人の存否は三つで確かめます。ご本人にお目にかかること。屋敷の方に伺うこと。公の記録と照らすこと。三つ揃わなければ、確かめたことになりません」
「順は」
「こちらで決めます」
わたしは口を閉じた。この屋敷で呼ぶ順を組むのは、十年わたしの仕事だった。
◇
「ご実家のお名前を」
「ロウレンツ侯爵家でございます」
「ご婚礼は」
「十年前の、春の終わりでございます」
「その朝、控えの間には何人おられましたか」
わたしは膝の上で手を組んだ。
あの朝、控えの間の扉の中に入れたのは三人だ。ロウレンツの奥様と、乳母と、仕立ての者。わたしは廊下にいた。盆を持って、扉の脇の壁に背をつけて立っていた。並びは覚えている。中の並びは、知らない。
「……覚えておりません」
「覚えておられない」
「緊張しておりましたので」
ギルバートは書いた。書いてから、次を訊いた。
「では、去年の秋の茶会にお招きになった方のお名前を」
「二十六名でございます」
「言えますか」
「ヴィエラ伯爵夫人。ロッシュ子爵。アーレン男爵。カリス男爵夫人と義妹君。ハーヴェル家より二名」
そこから先も出た。順に。上座から時計回りに、家格ではなく、話の通りやすい順に。誰の右に誰を置いて、誰と誰を同じ辺から外したかまで、口が勝手に並べていく。
途中で、やめておけばよかったと気づいた。気づいたときには二十三人目だった。
「よく覚えておいででいらっしゃる」
「わたくしの家の卓でございますので」
「床におられた方が」
「……床からでも、名は覚えられます」
「覚えておられることは、証明になりません」ギルバートはペンを置いた。「侍女でも覚えられます」
悪意はなかった。この人はいま、思いついたことを言っただけだ。
◇
屋敷の者が順に呼ばれた。
訊かれたのは一つだけだった。北の端の椅子に座っている方は、どなたか。
二十一人が、二十一回、同じ答えを返した。
奥様でございます。
嘘をついた者はひとりもいない。この屋敷の者が十年見てきた奥様は、その人しかいない。庭番も、馬丁も、洗い場の者も、丘を上がってくる馬車から降りる公爵夫人を、わたし以外の姿で見たことがない。
ミルカは十六番目だった。
「北の端の方は、どなたですか」
「奥様です」
「なぜそう思われますか」
「ほかに見たことがないので」
ギルバートはそれを書いた。書いてから、綴りを閉じた。
「屋敷の中で作った答えは、屋敷の外では数えません」
「作っておりません」わたしは言った。
「作っていないことと、外から数えられることは別でございます」
◇
三つ目に、彼は奉公人帳面を出させた。
オズワルドが持ってきた。ギルバートは表紙から順に繰って、下から二番目の行で止まった。
「侍女、一名」
「はい」
「この一名は、どなたですか」
オズワルドは答えなかった。
「十年、賃金が払われております。受け取っている者がおります」
「……おります」
「名は」
「帳面に名を書くのは、家令と、料理番の長と、馬丁の長だけでございます。あとは頭数で数えます」
「この一名を雇い入れたのは、どなたですか」
「わたくしではございません」
「では、どなたが」
オズワルドは答えなかった。この人の黙りは、たいてい答えの代わりに置かれる。今日のそれは、置くものを持っていない者の黙り方に見えた。
「出生を証する紙は」
「ございません」
ギルバートはペンを取った。書きながら、書いたものを声に出した。この人は書いたものを必ず読み上げる。隠して書かないという意味では、公正な人だ。
「当家奉公人二十二名のうち一名、氏名不詳。年のころ、二十代半ばの女。出生を証する紙なし。以後、氏名不詳の女と記す」
わたしは、その一行を目で追った。追い終わってから、追う必要のない一行だったと気がついた。読めば分かる。読まなくても、十年、そこに何が書いてあるかは知っていた。
わたしがどこで生まれたかを書いた紙は、どこにもない。
十年前の春、王都の外れの洗い場にいた。年は十六だった。十六だということも、誰かがそう言ったから、そう思っている。ある日、馬車が一台止まって、中から名前を訊かれた。
ユーニス・レイル、と答えた。
レイルというのが何なのかは、いまでも知らない。誰の名で、どこから来た音なのか、訊く相手がいなかった。訊く前に、わたしはその馬車に乗っていた。
◇
扉が開いた。
旦那様が入ってきて、卓の前まで来て、綴りを取った。
二つに裂いた。それから、四つに。
紙の音は思ったより小さかった。
「クレスウェル公」
「その紙に名が要るなら、私が書く」
「では、何とお書きになりますか」
旦那様は答えなかった。
「奥方様のことでしたら、すでに書いてございます。書き足せるのは、夫人でないほうの名だけでございます」ギルバートは鞄から新しい綴りを出した。「お書きになりますか」
旦那様の手が、破った紙の上で止まった。
書けば、この人が偽りを書いたことになる。書かなければ、氏名不詳のままだ。三つ目の道はない。三つ目を作れるのは、この卓では家の主ではなかった。
ギルバートは新しい紙に、破られる前とまったく同じ文を書いた。速さも同じだった。破れたのは四枚になった紙のほうで、役所へ行く紙は一枚のままだ。
「写しは、昨日のうちに出しております」
旦那様は破った紙をひとつに重ねて、上着の内側に入れた。捨てなかった。
◇
「監査官殿」わたしは言った。「三つ目が、まだでございます」
「三つ目」
「公の記録と照らす、と仰いました。人には二度お会いになりました。屋敷の者には二十一度お訊きになりました。記録が、まだでございます」
「記録は取り寄せております。四半期の報告、四十枚」
「足りません」
わたしは卓の縁に指を置いた。
「その四十枚は、全部この屋敷から出た紙でございます。屋敷の中で作った答えは、屋敷の外では数えない。そう仰ったのは、監査官殿でございます」
ギルバートは、はじめてペンを置いた。
「では、何を」
「十年前の、婚礼の記録を」
オズワルドが息を吸う音がした。「そちら」と言いかけて、そこで止めた。止めるには遅い。卓の上に出た議は、その場で取り下げると取り下げた理由が残る。
屋敷の外に出た紙で、夫人の名が載っているものはひとつしかない。婚礼の記録だ。役所と、司祭の側と、両方に控えがある。取り寄せれば日が要る。日が要れば、その日数だけ屋敷は動く。
それだけのつもりだった。
「賢いご提案でございます」ギルバートは綴りに書き足した。「こちらの得にもなります」
「では」
「本日はここまでに」
彼は椅子をひとつぶん、元の位置へ戻して出ていった。座らせ方を知っている人は、立ち方も知っている。
◇
夜、書斎の扉が細く開いていた。
旦那様が奉公人帳面を開いておられた。下から二番目の行に、ペンの先を当てている。当てたまま、動かしていない。
「旦那様」
「……」
「お書きになりますか」
「書けば、帳面が偽りになる」
旦那様はペンを置いて、帳面を閉じた。それから、閉じた表紙の上に掌を置いた。
「いずれ、君が書け」
「わたしが」
「君の名だ」
わたしは扉の枠に手をかけたまま、そこから動かなかった。
名を書ける者は三人だと、この屋敷は決めている。家令と、料理番の長と、馬丁の長。三人とも、自分の名を自分で書いた。書いたその日に、帳面の中で頭数から人になった。
「今日、取り寄せが出ました」わたしは言った。「役所からこちらへ、五日ののちに参ります」
「そうか」
「五日ございます」
「ユーニス」
「はい」
「五日を数えるな。今夜は寝ろ」
わたしは頭を下げて、書斎を出た。
出るとき、卓の隅に紙が一枚あった。ギルバートが役所へ回す申請の控えだ。字が細くて、行が真っ直ぐで、行の終わりで下がらない。
——十年前、当家婚礼における記録一切。式次第、参列の名簿、および立会人の署名。
立会人の欄に何が書いてあるのかを、わたしは見たことがない。
あの朝、わたしは廊下にいた。
【本日の席次】東の間・長卓ひとつ・二席。北の短辺と、南の短辺。あいだは十二人ぶん空いております。
調書の書き方の話を少し。
役所の記録というのは「分かっていることだけを書く」という決まりで動いています。名前が確認できない人は、確認できないと書く。これは実務としては正しくて、勝手に名前を推測して書かれるほうが、よほど怖い。
正しい手続きが、いちばん深いところを踏み抜くことがあります。踏んだ本人に悪意がないので、抗議する先もない。監査官は仕事をしただけです。今日この屋敷でいちばん筋の通ったことをしたのは、たぶんあの人でした。
破った紙を捨てなかった人については、また今度。
次回、主人公は自分から名乗り出ます。旦那様が、それを止めます。




