第16話 わたしは、奥様の代わりです
記録が届くまでのあいだ、屋敷は数えられて過ごした。
ギルバートは毎朝、同じ刻限に書斎へ入り、同じ刻限に出てくる。出てきてからは屋敷の中を歩く。厨房の棚を開け、洗い場の樽の数を書き、馬屋で馬の齢を訊く。誰も追い出せない。追い出せる紙が、こちらには一枚もない。
三日目に、わたしの呼ばれ方がひとつ増えた。
監査官はわたしを「奥方様」と呼ぶ。紙の上には「氏名不詳の女」と書く。二つは同じ人を指していない。指していないまま、両方がわたしのところへ来る。
その日、洗い場の者が廊下で言い間違えた。
「氏名不詳の——」
言いかけて、口を押さえて、走っていった。
わたしは振り向いていた。振り向いてから、遅れを数えなかった自分に気がついた。
◇
「レイルさん」
東の間で名札を数えていると、ミルカが盆を抱えて入ってきた。
「なに」
「あの人の紙に、あたしの名前がありました」
「あったの」
「二十一人ぶん、ぜんぶ載ってました。読めないけど、数は読めます。二十一」ミルカは盆を卓に置いた。「レイルさんのが、ないです」
「そうね」
「二十二人いるのに二十一しか書いてないのって、それ、紙のほうが間違ってませんか」
わたしは名札を五枚ずつ重ねた。十年、同じ包み方をしている。
「間違っていないわ。わたしの紙が、どこにもないの」
「どこにもって、どこにですか」
「生まれたときの紙」
ミルカは前掛けの端を折り畳んだ。折って、伸ばして、また折った。
「じゃあ、あたしと一緒ですね」
「あなたはあるでしょう」
「ありますけど、読めないので無いのと同じです」ミルカは指を二本立てた。「叔母上様が言ってました。記されないものは、無かったのと同じですって」
わたしは手を止めた。
「あの人、たぶん半分は合ってます」ミルカは指を一本折った。「でも半分は違います。あたし、記されてなくても覚えてますもん」
「なにを」
「レイルさんが、あたしの名前を最初に呼んだ日です。去年の冬の、三日目。厨房の裏で、ミルカ、って」
名札の角が、布の上で揃わなくなった。
「言っときますけど、あたしの覚えてることは、ただじゃないですからね」
「お皿の分と、まとめて請求してちょうだい」
「別勘定です」
◇
四日目に、ギルバートが東の間へ屋敷の者を集めた。
「記録が届いたのち、記載と証言に食い違いが出た場合を申し上げます」彼は綴りを開いた。「北の端の方を夫人であると述べた二十一名は、偽りを述べたことになります。家門法では、当主の家に累が及びます」
「二十一名は、そう見ていたにすぎません」オズワルドが言った。
「見ていたことと、述べたことは別でございます」
庭番が足の位置を変えた。洗い場の者が誰かの背中を見た。ミルカは前から四人目で、前掛けの端に手をやらずに立っていた。
その晩、わたしは自室の机に紙を一枚出した。
名乗り出た場合に何が起きるかを、順に書いた。
一、二十一名の証言は「知らずに述べたもの」になる。知らずに述べた者は罰されない。
二、屋敷の帳面の一行が消える。二十二が二十一になる。
三、四十枚の署名は、わたしが書いたことになる。書かせた者がいたかどうかは、書いた者が言わなければ残らない。
四、旦那様は、十年、それをご存じだった。
四つ目のところでペンが止まった。
あとの三つは動く。三つとも紙に落ちる。四つ目だけが落ちない。
◇
五日目の晩、東の小食堂に三人ぶんの席を用意した。
長卓は十四席。旦那様が南の上座、わたしが北の上座。監査官をどこに置くかで、半刻考えた。
東の辺の、北から二つ目にした。その席からは、南の端が旦那様の背に隠れる。
南の端には、皿も椅子もない。卓布の上に、白い花が一輪だけ横たえてある。旦那様が屋敷におられる晩には必ず置かれる。十年、一度も欠けたことがない。
席についてすぐ、訊かれた。
「南の端の花は、どなたのために」
旦那様は答えなかった。
「習わしでございます」わたしが言った。
「習わしには、はじまりがございます」
「十年より前のことは、存じません」
それは本当だった。わたしがこの屋敷に来たとき、花はもう置かれていた。誰が置くのかも訊いたことがない。訊く立場ではなかった。
ギルバートは花を見た。それから、卓に戻した目で汁物を一口飲んだ。
書かなかった。
この五日で、この人が見て書かなかったものは、それがはじめてだった。
半刻ののち、彼は席を立った。役所への便が出る刻限だという。立ちぎわに、南の上座のほうへ頭を下げた。
「クレスウェル公。明朝、北の端の方にもう一度伺います」
わたしは同じ卓についている。三つ隣にいる。名を呼ばずに済ませる言い方を、この人はいつも持っている。持っていて、選んでいるのではない。呼べる名を、こちらが渡していないだけだ。
「承知いたしました」と、わたしが答えた。
ギルバートは一度こちらを見て、それから出ていった。
残ったのは二人で、卓は十二人ぶん空いている。
旦那様が立ち上がった。皿を下げさせるのだと思って、給仕を呼ぼうとした。
旦那様は卓を回ってこられた。北の端まで来て、わたしの椅子の背に手をかけた。
引いた。
椅子を引かれたのは、十年ではじめてだった。引くのは給仕の役で、この屋敷では誰の背後に立てるかが持ち場ごとに決まっている。決まりの外にいる人が、決まりの中の手つきをした。
「立て」
「……はい」
「書斎へ」
◇
書斎の燭台はひとつだけ点いていた。
机の上には何も出ていない。紙も、帳面も。
「旦那様」
「なんだ」
「明日の朝、監査官に申し上げます」
「何を」
「北の端に座っている者が、誰であるかを」
旦那様は答えなかった。
「二十一名は、知らずに述べただけになります。屋敷に累は及びません。四十枚の署名も、わたしが書いたことにいたします」
「書かせた者がいる」
「言わなければ、残りません」
「言え」
「言えば、屋敷の帳面を書ける者がいなくなります」
燭台の火が、机の縁のところで一度細くなった。
「旦那様」
「なんだ」
「十年、なぜ黙っておいででしたか」
旦那様は何も言わなかった。答えないというかたちで答える人だ。今夜は、そのかたちが少しだけ違って見えた。
だから、わたしのほうから先に言った。十年、一度も口に出したことのない言葉だった。
「わたしは、奥様の代わりです」
言ってしまうと、思ったより短かった。
息の長さでいえば、席次を読み上げる二行ぶんもない。十年、この一行を言わずに済ませてきた。誰も訊かなかったからではない。訊かれる位置に、わたしがいなかったからだ。
言い終えて、次に自分の口から出てくるはずのものを待った。
出てこなかった。
名乗って、役を降りて、屋敷を出る。段取りは紙に四つ書いてある。四つ目でペンは止まったが、あとの三つは動く。動くはずのものが、机の前で止まっていた。
五つ目があった。
十年、卓の上にいたアデライド・クレスウェルは、では誰だったのか。
わたしが名乗れば、あの人は消える。二十六人が覚えている公爵夫人も、ヴィエラ伯爵夫人が「昔から窓際がお嫌い」と言うときの昔も、去年の秋の砂糖壺も、丘を下って十年ぶん積み上がったものが全部、無かったことになる。記されないものは無かったのと同じだと、この屋敷では言う。
わたしが名乗るというのは、わたしの名を取り戻すことではない。
名前のないまま組んできた十年ぶんの卓を、こちらから畳むということだ。
畳めば、奥様が残らない。奥様が本物なら、わたしはどこにもいない。
膝の上で、手が止まっていた。
「ユーニス」
「はい」
「まだだ」
わたしは顔を上げた。
「明日ではない、ということでございますか」
「明日でもない」
「では、いつ」
旦那様は机の上に手を置いた。何も置いていない机の、真ん中のあたりだった。
「君が名乗る前に、私が名乗るべきものがある」
机の上には、紙が一枚も出ていなかった。
この人が何かを言うときは、いつも先に紙が出ている。十年、そうだった。
【本日の席次】東の小食堂・長卓・十四席のうち三席。南の端は、今夜も空いております。
制作の話をひとつだけ。
この題名を本文で口に出させるのは、第一部を通してこの回の一度きりと決めて書いてきました。十五話ぶん、地の文でも数えて使っています。安売りすると、看板の字が薄くなるので。
言わせてみて分かったのは、この台詞は白状ではなく手続きだということでした。彼女は謝っていないし、告白もしていない。事実を一行、卓に置いただけです。置いたあとで、置いた本人が困っている。名乗れば自分は数えてもらえる。そのかわり、十年ぶんの仕事が誰のものでもなくなる——そこまでは、彼女も計算に入れていませんでした。
段取りの得意な人が、はじめて段取りに落とせないものを持ち帰った回です。
次回、南の端の席に、はじめて名札が置かれます。




