第14話 死亡届は、出ておりません
叔母上が丘を下りて、六日が経った。
七日目の朝に上ってきた馬車は一台だけだった。荷は鞄がひとつ。供はいない。降りてきた男は外套を自分で畳んで腕にかけ、そのまま玄関の間へ入ってきた。
迎えの列は組んである。オズワルドが先頭、うしろに執事二人、料理番、侍女が六人。わたしは階段の三段目に立っていた。
男は列を見なかった。玄関の間の中央まで来て、そこで止まった。
「王家家門監査官、ギルバート・ノースと申します」
三十五、六だろうか。襟に監査官の記章を留めている。銀の、爪ほどの大きさのものだ。
わたしはそこを見ていた。
留めの穴が二つある。使っているのは下の穴で、上の穴には糸の跡だけが残っていた。前に留めていた者の位置だ。襟布は新しくない。記章と襟が同じ齢だとすれば、この人はこの襟ごと、誰かから引き継いでいる。
仕立ての話だ。それ以上のことは何も分からない。
「本日より、当家の家門記録の監査に入ります」
期間は定めていない、終わるまでだ、と続いた。
「遠路、ご苦労さまでございます」オズワルドが頭を下げた。「お部屋を——」
「先に申し上げることがございます」
ギルバートは鞄を床に置いた。置いてから、はじめて列のほうを見た。
「役所に、クレスウェル公爵夫人アデライド・クレスウェル様の死亡届は、出ておりません」
誰も動かなかった。侍女のひとりが息を吸って、そのまま吐かなかった。
「同時に、当家より四半期ごとに出ております夫人名義の財の管理報告は、先月まで途切れておりません」
直近の署名は三十三日前だと彼は言った。夫人のお手によるものと記されている、とも。
「監査官殿」オズワルドが言った。「何をお疑いでございましょう」
「疑いは持ちません。事実を確かめます」ギルバートは鞄の留め金を外した。「紙の上では、夫人は生きておいでです。生きておいでなら、確かめる手間は要りません」
要らないことを確かめに来た、という言い方だった。丁寧な物言いのうちで、いちばん冷たいものだ。彼は鞄から白紙の綴りを出して、紐をほどいた。
「情は要りません。事実だけ頂戴します。屋敷の方を、全員こちらへ」
「二十二名でございます」オズワルドが言った。「厨房の者は火を落としてから——」
「落として結構です。お待ちします」
◇
半刻かかった。
庭番と馬丁は靴を履き替え、洗い場の者は袖を下ろし、厨房の者は帽子を取って並んだ。ミルカは前から四人目にいて、前掛けの端をずっと折り畳んでいた。
並べる順は、わたしが決めた。持ち場ごとに固めず、交互に。この屋敷の者は十年、同じことを訊かれたら同じように答えるよう育っている。揃った答えは作ったものに見える。ばらつかせるには並びから崩すのが早い。
ギルバートは列の端から歩いた。数えていた。指も帳面も使わず、目だけで。
端まで行って、戻ってきた。
「二十一名」
オズワルドは何も言わなかった。
「奉公人帳面には二十二名。ここには二十一名。一名、どちらにおいででしょうか」
わたしは階段の三段目にいた。
その一名がどこにいるかは、屋敷でわたしがいちばんよく知っている。帳面の下から二番目の行だ。侍女、一名。名前は書いていない。十年、その一名の賃金は誰かの手を経てわたしのところへ来ている。
わたしは半歩、前に出た。
「奥様」
オズワルドの声だった。低い。列の誰にも届いていない。
わたしはもう半歩、出た。
「監査官」
階段の上から声がした。
二十一人が揃って上を向いた。ギルバートも上を向いた。
旦那様が下りてくる。三段下りて、そこで止まった。降りきらないのは、迎える側の位置ではないからだ。
「クレスウェルだ」
「お目にかかります」
「紙はどこまで見た」
「これからでございます」ギルバートは鞄を持ち上げた。「人には後で会います。紙が先でございますので」
「書斎を使え」
「では、そのように」
わたしの半歩は、誰の目にも入らなかった。列が崩れて、二十一人が持ち場へ戻っていく。ミルカが通りすがりにこちらを見た。前掛けの端は、まだ折り畳まれていた。
◇
東の廊下の突き当たりで、旦那様が待っておられた。
「今ではない」
「……はい」
「あの男は数を数えた」
「はい」
「数の合わない場所へ、自分から入るな」
わたしは頭を下げた。下げるだけでは足りない気がして、顔を上げた。
「旦那様。あの一名は、わたしでございます」
「知っている」
「帳面に、名がございません」
「それも知っている」旦那様は窓のほうへ目をやった。丘の下の王都が、朝の光で乾いて見える。「だから、今ではない」
「いつでしたら」
「……いずれ」
二度目だった。一度目は書斎で、燭台がひとつだけ点いていた晩だ。
旦那様は歩き出して、二歩目で足を止めた。
「ユーニス」
「はい」
「よく並べた。持ち場を混ぜたな」
「……お気づきでいらっしゃいましたか」
「あの男も気づいた」
それだけ言って、行ってしまわれた。
◇
オズワルドの部屋は、一階の北の廊下のいちばん奥にある。十年、入ったことがない。
扉は開いていた。彼は机の前で帳面を三冊、順に開いては閉じていた。
「そちら」
顔は上げなかった。用件を、と言われる前に、こちらから言った。
「四半期の報告に、奥様のご署名が要ると伺いました」
「要ります」
「わたしが書いた紙は、何枚でございますか」
オズワルドは帳面を閉じ、次の一冊を開いた。手は止まらなかった。
「四十枚でございます」
十年、四半期ごと。数は合っている。十一日前に渡した白紙の十五枚は、まだこの数に入っていない。日付はこちらで入れるとこの人は言った。入れた先を、わたしは知らない。
「白紙の十五枚は」
「手元にございます」オズワルドは抽斗を開けずに、机の左の縁を指の背で叩いた。「役所へは、まだ一枚も出しておりません。出すのは綴りが揃ってからでございます」
まだどこへも貼られていない。貼られていないうちは、十五枚は十五枚のまま、この人の抽斗の中で順番を保っている。
「読まずに署名したものがございます」
「読ませておりません」
「なぜでございます」
「読む必要がないからでございます」
わたしは机の前に立った。帳面が三冊、羽根ペンが二本、砂の壺。並べ方に十年、乱れがない。
「奥様のお届けを出せば、持参財はロウレンツへ戻ります」わたしは言った。「そうでございますね」
オズワルドの手が、はじめて止まった。
「お子がございませんので」
「三月のうちに」
「三月では済みません。半年で、この屋敷の年の費えは三分の一減ります」
彼は帳面を閉じて、机の端へ寄せた。屋根を葺き替えたのが二年前、馬を二頭替えたのが去年。使用人は二十二名で、賃金は月ごとに一度も遅れたことがない。全部この三冊の中にあって、全部この人が回してきた。
「二十一名になれば、一名の行が消えます。二十二名のままなら、消えません」
わたしは自分の指を見た。手袋はしていない。屋敷の中では、もう外している。
「オズワルドさん」
「なんですか」
「二日前に亡くなった方の茶会を、明後日にお開きになったのは」
彼は答えなかった。わたしは待った。
「ご署名は、お亡くなりになる三日前に頂戴しておりました」
羽根ペンの削りかすが、机の縁から落ちた。
「紙はできておりました。足りないのは、出す日に夫人が生きておいでだという証だけでございます。その月の報告を役所へ出す日は、茶会の翌日でございました」
「卓に二十六人。二十六人が奥様を見ます。見た者が二十六人おれば、紙は通ります」オズワルドは新しい羽根を手に取った。「明後日は手始めでございます。そう申し上げたはずです」
十年ぶんの卓が、頭の中で一斉に裏返った。ヴィエラ伯爵夫人の窓際も、ロッシュ子爵の左も、去年の砂糖壺も、全部わたしが組んだものだ。組んだものが何のために使われてきたのかを、わたしは今夜はじめて教えてもらった。
「そちらの賃金も、そこから出ております」
「存じております」
「では、話は終わりでございます」
「ひとつだけ」わたしは扉のところで止まった。「あなたは、奥様を埋めさせませんでした」
「埋めれば、紙が要ります」
「紙の要らない人が、この家にひとりおります」
オズワルドは羽根ペンを置いた。はじめて、こちらを見た。
「わたくしは屋敷の帳面を守っております。それだけです」
◇
厨房へ下りる前に、氷室の残りを数えた。
監査官が屋敷にいるあいだ、止められる段取りと止められない段取りがある。氷は止められない。北の棟の石の床は冷えるが、それでも夏は夏だ。葬儀の晩から、氷は錫の盆に載せて運んでいる。錫なら、溶けても床に跡が残らない。
「ミルカ」
「はい」
「明日から、桶を空で持たないで。菓子の分を取ったあとの、いちばん小さいのを三つ」
「北ですね」
「洗い場の前は通らないで」
「通りません」
持っているものが、その場にいる理由になる。この子は十六でそれを知っている。監査官は数を数える人だ。数える人はたいてい、手ぶらで歩く者のほうを見る。
◇
翌朝、書斎の扉が開いていた。
卓の上に紙が積んである。積み方が変わっていた。十年ぶんの控えが、年ごとではなく種類ごとに分けてある。夫人名義の紙だけが、いちばん手前に。
ギルバートは、その山のいちばん上の一枚を光にかざしていた。
「おはようございます」わたしは言った。
「おはようございます、奥方様」彼は紙を下ろした。「紙は、ひととおり拝見いたしました」
「早うございますね」
「読む順を決めれば早く済みます」
この人も、順で仕事をする人だ。
「四十枚、すべて同じ手でございました」ギルバートは端を揃えた。「十年、一度も筆勢が落ちておりません。長く床にある方の手ではございません」
「……」
「これは疑いではございません。事実でございます」
彼は紙を伏せて、その上に掌を置いた。
「では、夫人にお目にかかりましょう」
わたしは、その人の三歩前に立っていた。
【本日の席次】玄関の間・列ひとつ・二十一名。帳面には二十二名と書いてございます。
家令のオズワルドについて、少しだけ。
この人は屋敷を裏切っていません。むしろ十年、いちばん熱心に守ってきた側です。屋根を葺き替え、馬を替え、二十二人の賃金を一度も遅らせなかった。守り方が、人をぜんぶ「行」として数えるやり方だっただけで。
行を減らさないために、彼は死んだ人を卓につかせました。ひどい話ですが、帳面の側から見ると筋が通っています。筋が通っているものは、たいてい始末が悪いです。
ところで、みなさまのお勤め先の帳面には、みなさまの名前は載っているでしょうか。頭数のほうで数えられていませんか。
次回、証明が始まります。監査官の調書には、決まった書き方があるそうです。




