出会いのとき
隼人の網膜にはしっかりと純白のブラジャーが映っていた。『ソレ』は彼女が気づかないまま、歩行のリズムに合わせて上下、左右に揺れ動いていた。
しばらく小刻みに跳ね回るブラジャーを目を奪われていた隼人だが、ここでとても大切なことに気がついた。
“もし、このまま彼女にブラジャーが背中に付いていることをオレが伝えなかったらどうなる?”
そんなことは考えるまでもなく隼人にだって分かった。
“彼女は入学式の日に、ここから学校まで自分の背中にブラジャーをぶら下げたまま気付くこともなく歩き回ることになる。もちろん、駅前や駅の中、電車の車内、学校までの間に多くの人たちの目にさらされることになる… 本人が気づいていないだけに痛々しいだろうな… 外国人だし、今日中に学校だけでなくこのあたりで一番の有名人になっちまう…”
周囲を見たが人通りのない歩道には隼人の他に誰もいない。
“ここで今すぐ、オレが彼女に伝えればいい、ってことだよな…”
隼人の表情は曇っていった。
“ただそうすれば、ここで彼女には大変な恥をかかせることになって絶対にオレは嫌われるに違いない。そして彼女はオレの姿を見るたびに今日のことを必ずフラッシュバックするだろう… となると、彼女とこれからの高校3年間ずっと顔を合わせたり話をすることもなくなるに違いない…”
さらに重大な問題が無意識に隼人の口をついてでた。
「オレには英語がサッパリわかんネーとときている… こんな状況をどう彼女に伝えりゃいいんだ
…」
何も知らず先を行く彼女はまっすぐ駅近くの人通りの多いエリアに向かっている。なすすべもなく、その後ろをついて歩く隼人の頭の中ではジレンマがループする。
“彼女が大きな恥をかくのをオレ一人で終わらせるのか、それとも大勢の人たちに拡散することになるのを黙って放っておくのか… ああ、オレは自ら進んで嫌われ者になれるのか…”
すでに彼女は人通りの多いエリアに差しかかり、もう隼人に迷っている時間はない。決断の時がきた。
“オレは嫌われてもいいから、今ここで彼女に伝えなきゃいけない! オレのことなんかより彼女のことを一番に考えなきゃいけないに決まっているだろ! 言葉の壁だってなんとかしてやる!”
「す、すみません!」
「…………」
彼女は無反応だった。勇気を振り絞って出した隼人の声が彼女には届いていない。彼女は隼人の呼びかけには全く気が付いていないようだが、よく見るとイヤホンをしている。何事もなかったように彼女はそのまま進んで行く。
“チキショー! こうなったら、体にさわってでも絶対に話しかけてやる!”
隼人は急いで追いかけて彼女の肩をたたこうとした。が、とにかくあわてていたのと、せっぱ詰まっていたせいで、勢いの余りつんのめってしまい彼女の肩を強く引っぱってしまった。
隼人の方を振り向いた彼女の顔は驚いていても本当にきれいだった。大きく見開かれた青い目は澄んでいて、小ぶりな鼻と口元は知性を、引き締まったあごは強い意志の持ち主であることを感じさせた。耳から外れたイヤホンからは小さな音の日本語が漏れ出ていた。
しばらく彼女に見とれてしまった隼人ではあったが、なんとか彼女にピンチを伝えるために頭をフル回転させ始めた。
“英語でブラジャーをぶら下げているって何て言うんだ? はずすっていうのはどう言うんだ?日本の英語教育は肝心な時に役にたたねーし!”
今ここで自分の不勉強をいくら棚に上げても彼女にかける言葉は隼人の頭に思い浮かぶはずもなかった。彼女の方も見知らぬ男子に突然後ろから肩を引っ張られて呆然としていた。
しばらく二人とも無言で見つめあっていたが、彼女は着崩れした制服をただすとイヤホンをつけて再び歩き出した。隼人はとにかく何かを言わなければならない気持ちがいっぱいでマジで必死だった。
「あなたのブラジャー、えーと、ユーアー ブラジャーで、付いている、ウィズユー、わかる? アンダスタンド?」
彼女の顔が怒りの表情に変化するとともに溶けた鉄のように真っ赤になっていることに、自分が話すことで精いっぱいの隼人は気づかない… そしてさらに言葉を続ける…
「ア、アンド、取る、テイク…オフだったかな? オーケー?」
次の瞬間、彼女のビンタが隼人の頬にさく裂した。
“いきなり後から肩を引っぱっておいてナニゴトかと思ったら、どうしてワタシがブラジャーで、おまけにワタシが服を脱がないといけないの?!”
彼女は胸の内でゲキオコ真っただなかだった。
一方、この一撃をまともに受けた隼人は腰が砕けて片膝を地面についていた。
「今まで父親にも殴られたことがないのに」
不意にビンタをくらって隼人も怒っていたが、向きを変えて去ろうとする彼女へ視線を移すと、まだ彼女の背中ではブラジャーがヒラヒラと舞っている。もうろうとする意識の中でなんとか彼女を救いたい気持ちが何度も打ち寄せる。
“何とかブラジャーを取ってあげなきゃ、オレが早く取ってあげなきゃ”
その場をサッサと去ろうとする彼女の腕に隼人は必死に追いすがる。
“シツコイわね!”
嫌悪する表情を隠そうともせずに彼女が再び手を振り上げて勢いよく振り返る。と、隼人は自分の顔を左腕でかばいつつ右腕で彼女の背中の方を何度も指さした。
何か意味があるのかと彼女が隼人の指さす方向を振り向いてもその先には何も見えない。隼人は彼女の物を探す動作と同調して動き回る背中のブラジャーの動きを見てどうしたらいいのか分からなくなった。
“そうだ!”
ひらめいた隼人はスマホを取り出した。そして左右に体をひねる彼女のことを撮り始めた。
断りもなくスマホを向けて動画を撮り始めた隼人に対して、彼女は怒りの極致にある人がとる、感情とは真逆の冷静そうで丁寧そうな態度でもって近づいて来た。
彼女は隼人の目の前に立ち止まると隼人が必死に差し出すスマホの画面を冷酷な目で見つめた。心の内には何かあったら絶対に許さないという強い意志が秘められていることが明らかであった。
隼人のスマホの動画を見た彼女の表情は見る見るうちに激怒から羞恥へと変わっていく。それと同時に無理な姿勢で自分の上着の背中をのぞきこみ、引っかかるブラジャーのホックを何とか取り外した。そのまま無造作にそれをカバンに押し込む。そして目をしっかりとつむったまま隼人に何度も何度もお辞儀をして走って去っていった。




