第十一章 李适《イ・グァル》の乱【後編】
行方が分からないのに、闇雲に動き回っても仕方がない。
シベクとユの、もっともな意見に、ヤキモキしながら宿で待機すること、約二日。
その間、綾陽君が公州へ向かったらしいことが情報として入ったが、クァルたちの行方が知れたのは、ほぼ二日が経とうとする頃合いだった。
利川方面へ向かったという影契の報せで、シアはフェイジェンとシベクと共に馬を駆った。
この辺りになると、もうシベクを説得して投降を促したり、朝廷に問い質してクァルとチョンの冤罪捏ち上げを認めさせる段階になかった。それだけ、今回の反乱による戦闘で、犠牲者が出ている。
どちらも、もう刀を引くに引けない状況だ。どちらかが死ぬしか、決着はないように思えたが、シアはどうしてもそれが嫌だった。
どうしたって、納得できない。やってもいない罪をかぶせられて死ぬ人間が出るのは、もう沢山だ。そんなこと、反正で終いにしたはずだったのに――
「――大君様!」
叫んだシベクが、前方を指で示す。
影契からもらった情報で、クァルたちが潜む森の入り口まで来たシアは、目を疑った。
愕然としながら、馬を下りる。
森の入り口を少し入った辺りから、遺体が転がっていた。
(……遅かったか……!)
唇を噛みながら、森の奥へ目を向ける。
視線の先には、それがまるで道導のように、転々と遺体が倒れていた。気配を殺しながら、遺体を辿ること、八人分。
そのどれにも、誰かと争ったような形跡がない。
「……どういう……」
どういうことだろう、と我知らず口にし掛けた時、
「父上!」
という誰かの叫びが、思考を中断させた。
ハッと目を上げ、その声のほうへ視線を上げる。
目に飛び込んできたのは、見知らぬ少年が、クァルを庇うようにしがみつき、それをまた守ろうとするように抱き締めるクァルと、二人に刀を振りかぶる男の後ろ姿だ。
反射的に、携えていた弓に矢を番え、男の背中に向かって放つ。
「うぁ!」
完全な不意打ちを食った男は、悲鳴を上げて蹈鞴を踏んだ。透かさず、駆け寄ったシベクが男を、その場から遠ざけるように引き倒し、フェイジェンもクァルと少年に駆け寄る。
「大将様!」
「……お前は……」
クァルも、フェイジェンに気付いたのだろう。かつて、『カオン』の偽名で付き合いのあった少女が、唐突に目の前に現れたことに、ただ驚愕するように目を見開いている。
「……無事か、クァル」
「……大君様……」
あの日――反正への参加を承諾してくれた日以来、クァルはシアを主君と定めたのか、もう『坊や』という呼び方はしない。
「……お戻りでしたか」
まだ警戒が解けないのか、クァルは、少年の肩先に手を添えたまま、頭を下げる。
「……ああ。帰国するなり、この騒ぎだからな。間に合ってよかったけど……」
チラリと少年に目を向けると、その視線に気付いたのか、クァルも少年を見た。
「チョン。ご挨拶しろ。先々王・宣祖殿下のご嫡男、永昌大君様だ」
「えっ……」
チョン、と呼ばれた少年は、シアとクァルの間で忙しく視線を行き来させ、やがて下腹部に両手を当てて頭を下げた。
「あの……お初にお目に掛かります。イ・グァルが長男、イ・ヂョンと申します」
「堅苦しくしなくていい。俺が先々王の嫡男なのは事実だけど、イ・ウィとしてはもう、死んだ身だからな」
肩を竦めて苦笑すると、チョンは、怖ず怖ずと言った様子で顔を上げた。綾陽君、及び綾昌君と同姓同名の割に、随分印象が違う。
「とにかく、逃げるぞ」
言いながら、チラとシベクのほうを見ると、彼は見知らぬ男をすでに縛り上げていた。男は、気を失っているらしい。
「……アイツ、知り合い?」
クァルに質すと、「つい一刻〔約十五分〕ほど前まで、配下だった者です」と答えた。
「……寝返りか」
信念もなく反乱に加わったなら、命惜しさに目先の報償に目が眩むことも、なくはないだろう。
「じゃあ、あっちの八人は……」
「彼らも、共にここまで参った者です」
「全員、アイツに殺られた、ってことか」
クァルは、無言で俯いた。今の今まで味方と思っていた人間に背後を突かれたのなら、先程見た八人の遺体の側に、争った痕がなかったのも、納得がいく。
「大君様」
駆け寄ったシベクが、キビキビとした動きで、頭を下げる。
「ここにも早晩、官軍が追い付いて来るでしょう。どうするかは追々考えることにして、ここはすぐにも離れねば」
「だな。行くぞ、クァル」
「……いいえ、行けません」
「何?」
眉根を寄せてクァルに向き直ると、彼は、息子の両肩をそっと押した。
「父上?」
前へ押される形になったチョンも、訝しげな声を上げて、父親を仰ぎ見る。
「わたくしは、追っ手を引き付けますので、どうか、息子をお願いします」
「父上!」
「駄目だ!」
チョンとシアが同時に叫ぶが、クァルはビクともしない。
「もういいのです。わたくしは、どこで死んでも、悔いはありません。ですが、息子だけは生き延びて欲しい」
「父上! 嫌です、私の迂闊な発言が、この事態を招いたのです、死ぬなら私も一緒に――」
「死ぬ死ぬ言うなっ! この馬鹿父子がっっ!」
放っておいたら、果てがなくなりそうな父子のやり取りに、シアは強引に割り込みながら、クァルの胸倉を掴んだ。
「何でそんな簡単に諦めんだよ! 諦めらんねぇから、ここまで逃げて来たんじゃねぇのか!?」
「大君様」
「ふざけんなよ。濡れ衣着せられたまんま、黙って死ぬつもりか。今すぐ一矢報いるのが無理でも、時間掛ければひっくり返せる、俺がいい例だろ!」
息を呑んだような、硬い表情で唇を引き結んでいたクァルは、やがてユルユルと苦笑し、顔を伏せた。
「……俺には、味方がいない」
「あ?」
「坊やにはいただろう。反正の時には、少なくとも二千はいた。加えて、何かの隠密組織も付いてた。だが、俺はどうだ?」
口調が戻り、上げられた顔は、泣き出しそうに歪んでいる。
「十二の頃から、周りは敵だらけだった。俺はただ、普通に試験に臨んで合格し、普通に職務に就いただけだ。それなのに、あることないこと朝廷で弾劾されて、未だに無実の罪で晴れたものなんてない。公式には立派な前科持ちだ。先の殿下が取り成してくださった時だけ、職務を全うできたし、右補盗庁の大将でいられたのも、思えば先の殿下のお陰だ」
「ッ……」
息を呑むのは、シアの番だった。クァルの胸元を掴んでいた手から力が抜け、ノロノロとその手を下ろす。
「……俺を、……恨んでるよな。光海兄上を引き下ろさなきゃ、なあなあでも何とかなってたのに……」
「……いいや」
きっぱりと否定する声が上から降って来て、シアはいつの間にか俯けていた顔を上げる。
「なあなあな状態に、いい加減ウンザリしていたのも事実だし、坊やの誘いに乗る決断をしたのも俺自身だ。それに、坊やは坊やの冤罪を晴らす手段として、俺にも頼る必要があった。坊やが罪悪感持つ必要はない」
だがな、と挟んで、泣き出しそうな苦笑のまま、クァルは言葉を継いだ。
「もう、疲れたんだ。どんなに誠実に仕事に臨んでも、誰かが足を掬おうとする。俺だけならともかく、家族まで巻き込んで……もう終わりにしたい。頼むから、妻の許へ逝かせてくれないか」
「嫌だね」
「は?」
完全に明後日の返答だったのか、クァルが目を真ん丸に見開く。その鼻先に、シアは人差し指を突き付けた。
「あんたが諦めたまんま死ぬのも、チョンからあんたを永遠に引き離すのもお断りだっつってんだ。理解できたか?」
「ってお前っ……!」
「何が、『妻の許へ逝かせろ』だ。いや、気持ちはめっちゃ分かるけどな、俺は生憎、残される息子のほうの気持ちに、より共感するね」
脇で見ていたチョンも、名指しされて瞠目する。
(……あんな思い、選りに選って自分の手でほかの人間にさせて堪るかっつの)
フェイジェンと夫婦の契りを結び、フィギルを喪った痛みはもう、すっかり忘れたと思っていた。
けれども、似た状況に立てば否応なく、フィギルの最期が脳裏に再生される。だが今は、過去の感傷に浸っている時間はない。
瞬き一つで、無理矢理思考を切り替えると、シアはクァルの鼻先へ突き付けた手を下ろしながら言葉を継いだ。
「この状況で、一人で生き延びろ? あんた馬鹿か? 残されて何しろってんだよ、仇討ちか? それとも、あんたの無実を証明するのか? 先に冤罪吹っ掛けられたコイツが、それをどうやってやり遂げろって? 手立ても取っ掛かりも与えずに生き延びさせるのは、親としての優しさでも何でもねぇ。右も左も分かんねぇ嵐の中に、しかも本当に一人っきりで放り出すなんて、無責任以外の何者でもねぇぞ。まあ、あんたはいいよな、死んで楽になるんだから、あとはコイツがどうなったって、寧ろ知ったこっちゃないだろ」
「言わせておけばっ……!」
思わず、と言った様子で殴り掛かって来るクァルの拳を、シアは片手で軽く往なした。体勢を崩したクァルの足許を思い切り払う。
転倒したクァルは、息を詰めるように呻いた。
「ッ、父上!」
チョンが慌てて、クァルを助け起こそうと駆け寄る。
だが、チョンは肩先に手を添えただけで、クァルは自力で立ち上がった。そして、振り返ってシアを見る。
シアも、黙ったまま、クァルを見つめ返した。
無表情に睨み合ったのが、どのくらいだったのか。やがてクァルが、フッと口許を苦笑の形に弛ませた。
「……は、まったく……この期に及んで、まさか息子ほどのガキに諭されるなんてな」
「ちったぁ、頭冷えたか? 生きる決心が付いたなら、とっとと逃げるぞ」
立てた親指を、クイッと背後へ向ける。
クァルは苦笑したまま、シアを見下ろしていたが、やがて胸元へ手を当て、頭を垂れた。
「我が主君に、従います。大君様」
いつぞやと、同じ言葉を返され、しばし唖然とクァルを見上げたシアは、今度こそ「気色悪っ!」と呟いて、きびすを返した。
***
「――それでは、殿下。失礼致します」
「お休みなさいませ」
ここまで、就寝の為の準備をしてくれていた、女官と内官たちが、口々に言って頭を下げる。彼ら彼女らが退出したあとの室内は、シンと静まり返り、チョンはそっと溜息を吐いた。
イ・グァルの蜂起を聞いてから、通算で十日ほど経った。避難先の公州から都へ、意外に早く戻れたことに、安堵していいのかは何とも言えない、と思っている。
まさか、即位して一年経つか経たないかの内に、内乱が起きるとは思わなかった。それも、かつて自分の即位に協力し、反正で戦果を上げてくれた武将が、蜂起するとは――何があったかは、チョンにも分からない。
心当たりがあるとすれば、論功行賞の件しかない。
反正功臣の一人である、キム・リュがあまりにも主張した為、最終的にはイ・グァルを二等功臣に序列し、寧辺へ派遣するのに、チョンも同意した。
反正が終わった直後だったこともあり、国境の守備が不安だったことも確かだ。イ・グァルなら任せられるし、反正前にも似たような任務に就いていたのだから、不満はあるまい――と、思っていたが、違ったのか。
ともあれ、クァルは都から早々に敗走し、乱は終結した。逃げていた反乱軍幹部の九人中八人の首を持って投降して来た者を、今は保留的に牢に入れてある。
残る一人――選りに選って、反乱の首謀者であるイ・グァルと、その息子で、(チョン兄弟と同姓同名の)イ・ヂョンは逃亡し、行方不明だ。
その捜索にも頭が痛いのに加え、王に推戴された叔父である興安君を、選りに選って、シム・ギウォンとチョンの従兄弟違いであるシン・ギョンジン、そして、ミョンギルの義父に当たる張晩が、チョンに一言の断りもなく三人だけで協議した上で殺害してしまった。
その三人も、(キョンジンに関しては若干迷いはあったものの)もちろん投獄した。
(あーああ……折角、光海伯父上の処刑は回避したのに、いくら反乱軍に王として祭り上げられたっていうか、自分で反乱軍に擦り寄ったっていうか……あの叔父上も何だってこう、要領悪いんだろ。にしたって、釈明も訊かずに裁判とかも経ずに殺すとか、あり得なくない?)
これで自分もいつまた、誰かの反正によって引き摺り下ろされるか、ビクビクしながら王位に座らなくてはならなくなった。
はーああ、と盛大に溜息を吐いた直後、「失礼致します」と室外から声が掛かった。
「殿下。大王大妃様が、お目に掛かりたいと、いらしております」
「……こんな時間に?」
もう夜中だ。
大王大妃――つまりウィの生母、及び、ウィの同母姉である貞明公主もまた、チョンと共に公州に避難していて、今日やっと、共にこの慶運宮に落ち着いたばかりだ。
幸い、慶運宮は、反乱軍が乗り込んで来た都にあっても無事だった為、今こうして都へ戻ったチョン、すなわち現王の仮宮として、ひとまず利用できている。
「……分かった。とにかく、お通しして」
「はい、殿下」
返事から一拍の間ののち、障子戸が開く気配がして、大王大妃と彼女付きの内人が室内へ姿を現した。
「大王大妃様。このような夜更けに、どうなさいました」
なぜ、大王大妃ともあろう者が、供が内人なのだろうか、と疑問に思いつつも立ち上がり、上座を大王大妃に譲る。
普通に王位継承が成されれば、大王大妃は先々王の正妃で、先王の正妃である大妃より位が上だ。
そして、親や目上の身内を大事に敬う儒教の教えを国是としているこの国では、王と言えどもその慣習には逆らえない。
兄弟を殺め、義理とは言え、一時は母を蔑ろにした光海君を引き下ろす口実とできたのは、その国是のお陰だ。
当然、母の上の血筋である祖母――これも、チョンにとっては、大王大妃は義理の嫡祖母という位置付けだが――も、同様に尊び、敬う必要がある。
この国の頂点にいるように思える王であっても、大妃、及び大王大妃には、上座を譲らなくてはならない。
大王大妃が、顔を少し俯けたまま腰を下ろすと、チョンは左手を上に重ね、膝を突く大礼で挨拶した。
深々と頭を下げる動作を三度繰り返すと立ち上がり、下腹部へ手を当て、浅い辞儀をする。
「……座るがよい」
そう告げた、大王大妃の声に、チョンは初めて彼女の顔を見直した。
©神蔵 眞吹2026.




