第十章 李适《イ・グァル》の乱【前編】
国境を越えた辺りから、何となく国がざわついているのには気付いた。だが、何が原因かは、よく分からない。
ふと、視線が合ったシベクも、同じことを感じているようだった。
言葉を交わすことなく、小さく頷いた彼は、一番近い影契の拠点へ早馬を飛ばし、現在の国の状況を聞く手筈を整えた。
そして翌日、届いた便りは、まったく思い掛けないものだった。
「イ・グァルが反乱!?」
「イ・グァルって……右捕盗庁の元・大将様よね!?」
シアとフェイジェンは、揃って目を剥いた。
「左様です」
とシベクが答える。
「……マジかよ……何で選りに選ってアイツがそんなこと……」
自発的な反乱などという言葉と、一番無縁そうだったのに――無意識に漏れた呟きに、答えるようにシベクが口を開く。
「そう言えば大君様は……府夫人様もですが、先の反正後の、論功行賞についてはご存知ありませんよね?」
「え」
「ええ……」
シアが固まるような声を出し、フェイジェンが頷く。
「反正の最中の話は、わたくしも又聞きなのですが……弘済院での待ち合わせに、キム・リュ様が中々顔を出さなかったのは、ご記憶で?」
「ああ」
「コトが終わったあと、父がよくよく聞いてみたところ、どうもキム・リュ様……クァノク様は、反正勃発の密告が成されたという報せに、一時反正への参加を見合わせようとお考えになり、躊躇っている間に出立が遅れたそうです。クァノク様が務めるはずだった一軍の長を、イ前大将様が代行なさったのですが、途中でクァノク様が合流して来て、元通り隊長をやらせろと騒ぎ、しばし揉めたとか」
「……正気か?」
「一応お訊きしますが、どなたのことで?」
「キム・リュに決まってんだろ」
「同意しますが、ここだけの話にして下さいね」
「分かってるよ。それで?」
「とにかく、イ前大将様がおられなかったら、出撃の間合いが遅れ、反正も成功したかどうか分かりません。それ程のお働きをなさったのに、論功行賞を与える議論の際、クァノク様の主張で、イ前大将様の報償が、二等功臣に留まったとか」
「はあ?」
二等功臣、というのは、朝鮮に於いて、何らかの功績を挙げた人間に与えられる恩賞の一つだ。ほかに一等と三等がある。
二等も、恩賞の内容だけを鑑みれば、決して悪くはないはずだが、それにしても、出足で重要な役を担った割には低いという見方もできる。
「……何だ、それ。ちなみに、主張した本人は何等だったんだ?」
「一等功臣です」
「マジかよ。自分の思い切りが悪くて反正が失敗し掛けたのに、自分と同等は嫌だってか? 呆れるな」
「同感です」
「まさか、それが不満で、反乱を?」
「まさか。あの方に限って、それは有り得ません。続きがございます」
「続き?」
「はい。二等功臣に留まった上、兵馬使兼副元帥として、寧辺の軍営に左遷されたとか」
寧辺は、朝鮮北部、平安道の真ん中辺りにある地名だ。
「……それでも、アイツに限っては、沸点に達するには余裕がありそうだけどな……」
シアは眉根を寄せ、そうするともなく、緩く握った拳を口許へ当てる。
あの男――イ・グァルという男は、武官試験に史上最年少の十二歳で及第した実績を持つ。その為、周囲のやっかみたるや相当なもので、散々理不尽な目に遭って来た所為か、現在四十前にも拘わらず、かなり達観したところがある。
「沸点が低かったのは、ご子息のようで」
「ご子息?」
シアが、眉根を寄せたまま顔を上げると、シベクは深刻な顔で頷いた。
「ご子息は、李栴様と仰います。父君でおられるイ前大将様と、共に任地へ赴かれたようなのですが、地元の両班諸侯と交わる内に、世間話の一つに、お父君への論功行賞について、不満を漏らされたそうです。その件が、都へ伝わる過程で話が大きくなったようで、宮廷に届く頃にはすっかり、謀反の企みになっていたらしいのです」
「はああ?」
相変わらず整いまくったシアの容貌が、これ以上ないくらいにひん曲がる。
「何っだ、それ。マジで訳分かんねぇ。何で世間話の愚痴りが謀反の企みになるんだよ」
「まったく同感でございます。ですが、朝廷では謀反に違いないということになり、寧辺へ兵が派遣されました。朝廷でも、臺諫から、イ前大将様への弾劾が続いたそうで、ご子息が身に覚えのない罪状で捕らえられるに至り、抵抗した結果、都に進撃するしかなくなったようです」
臺諫とは、官吏取締の任を負う司憲府と、王への諫言機関である司諫院を合わせた総称だ。
「臺諫って……本来なら、冤罪を防ぐ働きをしなくちゃいけない官庁なんじゃ?」
「御意にございます」
最早、どこにどうツッコミを入れればいいか分からない。覚えず深い溜息を吐いたシアに、シベクが容赦なく先を続ける。
「イ前大将様率いる反乱軍は、開城を通過し、臨津江を渡ったそうです」
臨津江は、川の名前だ。そこを渡ると、都はすぐ目と鼻の先である。
「その報せを受けた王殿下は、都を離れられたと。興安君様もご一緒だそうで」
「興安兄上が?」
興安君は、諱を李瑅と言い、シアの異母兄だ。慶平君、貞和姉、キェと同母の兄で、彼らの母・温嬪の子どもたちの中では一番年嵩である。
彼ら四姉弟の内、貞和姉とキェとは親しく付き合いがあったが、慶平君とはついこないだ初めて会った。興安君とは、会ったことが一度もない。
「何でここで、興安兄上が出て来るんだよ」
「それが……反乱軍と内通した、という話が、どこからか出て来たようで、重臣が興安君様を、南方に流刑にした上、囲籬安置〔流刑先の家の周囲に塀を建てて、幽閉する刑〕するよう、王殿下に進言したそうです。ですが、つい先日、伯父である廃王を追放したばかりで、すぐまた証拠もないのに叔父上を処罰するのは気が進まなかったのでしょうね。王殿下は、その意見を退け、興安君様を連れて、共に避難されたとか」
「じゃ、今ファベク兄上は、都にいないってことか?」
「左様です。行き先までは、ここには書かれていないので、ここまでが最新の情報でしょう」
シアは、いつしか立てた片膝に肘を預け、口許へ拳を当てて目を伏せた。
「……分かった。とにかく、都へ急ぐぞ」
「その前に、確認いたしますが」
立ち上がろうとしたシアを、シベクが止める。
「何だよ」
「行って、どうされるおつもりです?」
「どうって」
「此度の反乱、大君様も府夫人様も、ついでに言えばわたくしも、一切関わりありません。放っておいてもいいのでは?」
「その内、正規軍が制圧するだろ、ってか?」
「仰る通りです」
「どうかな。相手はあのイ・グァルだぜ?」
かつてだろうが何だろうが、捕盗庁の大将を務めた人間が、どのくらいの戦闘能力を有しているか、シアはよく知っている。
加えて、つい先日は反正軍の一軍を、一時とは言え、その手に預かっていた男だ。
「その反乱軍、規模はどのくらいなんだ」
「……蜂起当初の規模ですが、一万二千ほどだそうです」
「……こないだの反正軍は、二千くらいだったよな」
反正時を、一万も上回る数の軍勢だ。政権を執って一年前後の綾陽君が、どんな下手を打ったか知らないが、この短期間でそんなに不満を持たれるなど、半端ではない。
「……とにかく、行くぞ」
「ですから、大君様が介入する理由は何です」
「放っとけないからだよ」
「反乱軍を率いているのが、イ前大将様だからですか?」
「それもある」
「ほかには何が?」
目の前でワチャワチャやられて、黙ってられるか――そう言い掛けて、シアは瞬時、口を噤んだ。
(……違う。そうじゃない)
確かに、目の届く場所でドンパチやられたら、叫びながら止めに入りたくもなる。けれど、根本の理由は違う。
「……嫌なんだよ」
「何がです」
「無実の罪、捏ち上げでかぶせられて、挙げ句死にそうになってる人間、指咥えて見てるだけなんて、悪いが我慢できねぇ。俺自身、同じように陥れられて、死に掛けたんだからな」
「しかし、イ前大将様が、大君様をお助けしたわけではないでしょう。イ前大将様をお助けする理由が?」
「アイツだって、本来なら助ける理由なんかない俺の頼みで、参加する義理もない反正に付き合ってくれた。その恩恵は、あんただって受けてるはずだよな」
初めて、シベクが息を呑むように押し黙った。ややあってから、詰めていた息を吐き出すようにしながら口を開く。
「……そうですね、分かりました」
「言っとくけど、どっちに味方するとか、反乱に協力するとか、そういうんじゃねぇ。可能なら、捏ち上げた奴らにそれを認めさせて、クァルを捕らえるのを止めさせる。その為に行くんだ」
「心得ました」
返事をして立ち上がるシベクに続いて腰を上げたシアは、フェイジェンを振り返る。
「……悪い。気が進まなけりゃ、フェイは付き合わなくてもいいんだぜ」
「何言ってるのかしらね、この人は」
呆れたように肩を竦めたフェイジェンは、当たり前のように立ち上がる。
「不条理を許せないのは、あたしも同じよ。目の届くところでそれが横行してるなら、止めなくちゃ。少なくともあたしは、それを見て見ぬ振りができる男を夫に選んだつもりはないわよ」
「……見て見ぬ振り、できる男だったらどうする?」
「もちろん」
不敵に笑った彼女の唇が、シアのそれに押し付けられた。
「死なない程度に痛め付けて、終日説教ね」
「……そら、どうも」
苦笑を浮かべ、シアは彼女の唇に自分のそれを押し付け返す。
「頼りになる妻がいて、安心して道踏み外せるわ」
「できれば踏み外さないでくれる? 面倒臭いから」
「全面的に同感です。それこそ、説得する臣下の身にもなって頂けると有り難いですね」
行きましょう、と締め括ったシベクについて、シアとフェイジェンも、宿の部屋をあとにした。
***
クァルの反乱の報せを受け取ったのは、黄州――馬の並足で、都まで三日ばかりの距離の地だった。
三日掛けて都へ向かう途中にも、耳に入って来る状況は、悪化の一途を辿っているとしか言えなかった。
都に入る直前には、その何日か前に、クァルの弟と妻、妻の父親である李邦佐が、官軍によって殺されたという情報が入った。仮に官軍を説き伏せられたとしても、今の状況では、クァルのほうを説得するのが難しいだろう。
少なくとも、シアがクァルの立場なら、委細構わず暴れている。最早、反乱を起こした意義などどうでもよく、体力が尽きるまで目の前の敵を殺したあと、死んでも悔いはないに違いない。
(説得の取っ掛かりなんて、ねぇじゃねぇかよ。朝廷のクソジジイ共が……!)
元々、今の朝廷の重臣にとって、若くして縣監の地位に就いたクァルは、目の上の瘤以上の存在だったのだろう。
反正という非常時に、利用するだけして、あとは始末する機を伺っていたのかも知れない。
どんどん朝廷の思惑通りに進む状況に、焦りで胃が捩れそうだ。焦燥に任せて馬の腹を蹴りたくなる衝動を必死で捩伏せ、都へ辿り着いた頃には、クァルの軍は敗走し、都を出たあとだった。
すぐにもクァルのあとを追いたかったが、都へ着いた時には、城門が閉まる寸前の時刻だった。
シベクの、延陽君としての身分証と、彼が使いをやって呼び出した、チャン・ユの新豊君の君号が奏功し、その夜は都の郊外に宿を取ることができた。
「……そういや、貞淑姉上は?」
宿の部屋へ座りながら、シアはシベクともユにともなく、訊ねる。
「貞淑翁主慈駕は、ご家族と、ほかの王族の方々と共に、都を出られました。こんな状態ですし、王族というだけで今は何があるか分かりませぬゆえ」
腰を下ろしながら答えたのは、ユだ。
「……もしかして、興安兄上は、都に残ってた王族だから目ぇ付けられたのか? 確か、ファベク兄上と一緒に逃げたって聞いてたけど……」
またも、二人を応分に見ながら問うと、ユもシベクも、瞬時口を閉じて苦笑した。
「……何だよ」
「……いえ。あの方に限っては多分、此度も貧乏くじを引かされただけかと」
「どういう意味?」
「反正以前も、度々慶平君様の巻き添えを食っていたのですよ」
「はあ?」
慶平君の巻き添え、とはどういう意味だろう。それが顔に書いてあったのか、問いを口に出す前に、シベクが続けた。
「慶平君様が、揉め事製造機と異名を取っていらしたのは、ご存知ですね」
「ああ」
「まあ、興安君様は、慶平君様とご両親が同じご兄弟ですし、温嬪様の御子たちのご長男として、一応弟君を止めようという気はおありだったようですが、どうも要領がお悪いと申しますか……」
「つまり?」
眉根を寄せて、首を傾げるシアに、シベクもユも、おかしそうな苦笑を浮かべたままだ。
「なぜか、慶平君様と一緒に、弾劾を受けてしまわれるのですよ。何もなさっておられないのに、慶平君様と一緒になって、理不尽なことをなさったような言われ方をされて……」
「はあ……」
それは、要領以前の問題なのではないか。
「要領ってより、運が悪いんじゃねぇか?」
「そうとも言いますね。人はお宜しいのですが……」
「そうでしょうか」
珍しく、投げるような物言いで、ユが口を挟む。
「廃母論の際は、全面的にそれを支持するような発言をなさっていたと伺っていますよ。人が好い方が、間違ったことを支持なさるなんて、考えられませんが」
「貴重な情報ありがとな。あの兄上が死にそうになってても、無視するわ」
母を陥れるのに一役買ったと聞いた途端、興安君は、シアの中で、慶平君と同じ扱いになった。ユは、黙ったまま肩を竦めて、相変わらず苦笑を浮かべている。
「で、都でほかに何か、目新しいことは?」
「大君様のご用命のあった、イ前大将様の行方は、現在調査中です。明日早くにも、新しい情報が届くかと」
シベクが、キビキビと答える。
「それと、一応興安君様に関してですが」
付け加えるように、ユが口を開いた。
「本日の午前中に、新王として即位なさり、反乱軍に論功行賞をお授けになったのですが、午後にはもうイ前大将様が敗走なさったので、早々にまた城を出られました。城と言っても、昌徳宮ではなく、景福宮の跡地ですが」
「景福宮って、もう使えるんだっけ?」
「いいえ。壬辰倭乱の際に全焼したまま、未だに再建もされておりません。が、仮宮としてそちらを選んだのは、昌徳宮が反正後の殿下の正宮だからでしょう。まだ内官や女官が残っていた場合、追い出すのに手間が要りますし……景福宮にも、無事な建物が残っていると踏んだのやも知れませんね」
「そっか……」
「興安君様の行方も、調べましょうか?」
律儀に訊いて、首を傾げるユに、今度はシアのほうが軽く苦笑する。
「いや、いいわ。あの兄上には、好きにしてもらやぁいい。会ったこともねぇから、やっぱ『兄貴』って名前の付いた他人だし」
「かしこまりました。それでは今夜は、大君様と府夫人様は、少しでもお身体を休めて下さいませ」
失礼致します、と結んで、シベクとユは席を立った。
彼らが部屋を辞すのを、ぼんやりと見送り、シアはそっと息を吐く。
「……大丈夫?」
横から伸びた、フェイジェンの指先が、そっと頬を撫でた。それに心地好さを感じながらも、シアはその手を取って引き寄せ、自分の腕の中に彼女の身体を閉じ込める。
「……分かんねぇ。前に朝鮮発ってからこっち、色んなことあり過ぎて……」
「……だよね」
彼女は、シアを抱き返すように、手をシアの背に回した。腕に擦り寄せられる彼女の頬の感触を意識しながら、シアは彼女の首筋に顔を埋める。
「ちょっ……」
途端、彼女がビクリと身体を震わせた。
「嫌?」
「だっ、だって、汗も流してないのに……」
「流したら、抱いてい?」
フェイジェンが息を詰めるような、声にならない声を漏らす。どちらからともなく、互いの顔が見える距離まで離れると、彼女は視線を逸らすように目を伏せたまま、小さな声で告げた。
「……一回だけ、ね。明日も多分、……早いし……」
彼女の頬が、薄赤くなっているのが分かる。
積極的に迫って来ることもあるクセに、時折こんな風に、生娘のような恥じらいを捨て切れないと言わんばかりの反応を見せる。それが却ってこちらを煽るなんて、きっと気付いていないのだろう。
クス、と小さく苦笑すると、唇を尖らせた彼女が、上目遣いに睨め上げて来る。
「何よぅ」
「別に? ……分かった、了解。早く、湯浴みしてこうぜ」
宥めるように、尖った唇に軽く口づけ、立ち上がる。一度で終われる自信もないまま、それを口にはせずに、ひとまず湯殿へ向かった。
***
(……ひどい負け戦だな)
どこか、他人事のように脳裏で呟いたクァルは、そっと息を吐きつつ、背後にあった木に背を凭せ掛けた。
見上げると、逃げ込んだ森の木々の隙間から、暮れかけた色の空が見える。
元々、反乱を起こす気など、更々なかった。
与えられた地位に、反駁する気も起きない。
難癖付けられて、弾劾を受けるのなど、十二の頃から繰り返して来たことだ。
憤りという感情すら、摩耗していたと思っていたのに、我が息子が無実の罪で捕縛されようとするのを目の当たりにした途端、訳も分からず兵士に襲い掛かっていた。
『反抗するのか!』
『やはり、謀反の企みは事実だったのだ……取り押さえろ!』
息子を腕の中に庇った時、耳に飛び込んで来た怒号に、しまったと思っても遅かった。
生き延びるには、本当に反乱を起こすしか道はなくなり、ひとまず場当たり的に都へと攻め上った。
『そなたたちとの繋がりを疑われ、殺され掛けた。責任を取って、仲間に入れてくれ』
と途中で反乱軍を頼って来た興安君を王に推戴し、仮王宮の景福宮に入った。
興安君が上機嫌で、王気取りで論功行賞を授けている最中、官軍が攻め入って来るという情報を基に王宮を打って出たが、あっという間に敗走を余儀なくされた。
もっとも、都へ入る直前に、弟と妻、義父が官軍に殺されたという情報を耳にした時から、何もかもどうでもよくなっていた。
ただもう、逃げるしかない。逃げて、敵を退けるしか、息子を守る方法はないことだけは分かっている。
今、クァルが逃げて戦う理由は、偏に残された息子の為だ。
「――父上」
もう一度息を吐いた時、横合いから呼び掛けられ、無意識に視線を向ける。
追撃されながらの旅に、まだ十六の息子は、憔悴し切った表情でクァルを見上げていた。
「……どうした」
無理に笑みを浮かべながら、息子のチョンの頭に手を載せる。
自分は武官だが、チョンは完全に文系人間なのか、教えてもほとんど剣を覚えられなかった。不意にふと、永昌大君のことが頭に浮かぶ。
あの少年も、出会った時は、今のチョンと同い年だった。だが、出会った当初から、気迫が違った。
彼が無実の罪で流刑にされ、殺され掛けたのが、僅か七つの時だということも関係しているだろう。けれど、なよやかな少女のような見た目に反し、胆力があり、戦闘能力も高かった。
目の前の息子に、あの少年のような気迫が、ほんの少しでもあればと思う。
人間、得手不得手があるのだから、無理に武術を覚えずともいいだろうと考えた己の甘さが、今はただ恨めしいばかりだ。
「……いえ……何でもありません」
何でもない、と言う割には、チョンはシュンと下を向き、クァルの胸元へ寄り掛かった。
母の死を伝え聞き、チョンも心に傷を負っているのだろう。クァルの前では気丈にしているが、時折、陰で泣いているのを、知らないわけではない。
「……申し訳ありません、父上……私が……つまらない愚痴をこぼしたばかりに……」
「……気にするなと言ったろう。過ぎたことだ」
時はもう戻せない、と付け加えそうになったのを、すんでで呑み込む。口に出したが最後、この息子はまたクヨクヨと悩み倒し、場合によっては率いた軍勢全員の命を危うくし兼ねない(軍勢とは言っても、もう両手で足りるくらいの人数しかいないのだけれど)。
ただ、そのことを、一人の父親として不甲斐なく思いこそすれ、見捨てようとまでは思わない。
平凡な毎日が続きさえすれば、チョンにも文科の科挙を受ける道もあったのだ。それはそれで、順調に行ければ、幸福な人生だっただろう。
(……来なかった未来を思っても、それこそ仕方ない。過ぎたことだ)
生きてどうするかは、本当に生き延びることができてから、考えればいい。
しかし、九割方、勝負が詰んだことも、長年武官として過ごして来たゆえの勘から、何となく悟っていた。
自分は、もう構わない。どうなってもいい。だが、チョンだけは――
「――大将様!」
思考を遮るように呼ばれ、クァルは顔を上げた。
この乱を起こしてから率いてきた者は皆、クァルを『大将様』と呼ぶ。
単に、軍の大将という意味なのか、それとも以前に右補盗庁の大将をやっていた名残なのかは、クァルにも分からない。
「そろそろ、参りましょう。追っ手が迫っているようです」
「……分かった。行こう。皆を集めろ」
「はっ!」
返事を背に、きびすを返した途端、チョンが「父上!」と叫ぶ。
弾かれたように振り向くのと、チョンが自分に抱き付くのと、たった今返事をした配下――奇益献が刀を振り下ろすのは、ほとんど同時だった。
©神蔵 眞吹2026.




