第九章 明国での結末
「――聞いたな、皆の者」
ウェイ太監が、その場から立ち去るのを確認した皇帝が、議場に降りたまま口を開く。
「我が姉上――ジュ・フェイジェン公主は、見ての通り、生還した。今後、フェイジェン公主の正当性を疑う者、命を狙う者はただでは置かぬ。また、今後ウェイ太監に何か言われても、フェイジェン公主の命を奪うような命令は無視せよ。しつこいようなら、朕の命令を盾にして構わぬし、場合によっては朕の寝殿に駆け込んで来ても罪には問わぬ」
「承知致しました、陛下」
その場にいた、明国内の臣下が、揃って拱手し、斉唱する。
それを確認すると、皇帝はフェイジェンに向き直って、手を取った。
「姉上。今までさぞご苦労されたことでしょう。弟として、何の援助もできなかったこと、お詫びのしようもございません」
「……構いません、陛下。仕方のないことですから」
「とんでもない。せめて、今後の姉上の生活に関しては、全責任を持たせて下さい。まずは早速、皇宮内に居所を用意させますが……」
今夜の宿をどこに、とでも思ったのか、皇帝が無意識に泳がせた視線が、シアのそれとカチリと噛み合う。
「……ところで、そなたは……」
誰だ、と続き掛けたのを、フェイジェンが素早く「陛下」と遮る。
「この方のことも含め、今後のことはどうか、人払いしてから」
皇帝は、一つ瞬きすると、フェイジェンの手を放し、臣下たちに向き直った。
「本日の朝議は、これまでとする。皆、下がってよい。朝鮮の使節団の皆も、宿へ引き取るがいい。今日は、ご苦労であった」
「傷み入ります、陛下」
今度は、朝鮮からの使節団も含め、その場にいたほぼ全員が斉唱する。
「衛兵は聞きなさい」
続いて、イェンが口を開いた。
「この場にいる罪人は、しばし投獄するように。処罰は、追って沙汰する。それまで、脱走などのなきよう、厳重に見張るのです」
「かしこまりました、皇后娘娘」
衛兵が、揃って拱手したのち、罪人たちを引っ立てて、議場をあとにする。
ややあって、その場には、シア、フェイジェン、皇帝夫妻、チェソン、ミョンギルだけが残った。
「ツァィシン。議場の扉を閉じて、人払いを徹底なさい」
「はい、皇后娘娘」
一つ、万福をしたチェソンが、扉のほうへ、足早に歩いて行く。彼女が、外を確認し、扉を閉じるのを見届けると、イェンもシアに目を向けた。
「……さて、昨夜の内に軽く聞かされてはいたけれど……」
イェンには、昨夜、皇帝とランユーがそれぞれ引き上げたあと、性別だけを明かしていた。フェイジェンのことも、その時話したのだ。
彼女の逃亡生活に終止符を打つ為に、危険を冒して皇宮へ潜り込んだこと、その為に、以前からの旧知であるチェソン、ことツァィシンの手を借りたことも――。
だが、イェンは、この場ではシアが性別を偽って後宮へ入り込んだことに関しては触れなかった。最早、何もかも話しても応変に対処してくれる、と言える信頼が、夫に対してないに違いない。
その対応は、シアにとっても有り難かった。シアは、拱手して頭を下げる。
「皇帝陛下、皇后娘娘には、初めてお目に掛かります。わたくし、朝鮮の現国王殿下の王弟、イ・シア、王族名を綾煉君と申します」
「王弟?」
「左様です」
答えを引き取ったのは、ミョンギルだ。
「実は、国王殿下のお父上・定遠君様には、ご正妃との間に、国王殿下と弟君がお二人おられましたが、殿下と弟君方の間にもう一人、異腹の弟君がおられました。王族としての御名を、綾豊副守様と仰いましたが、万暦三十二〔西暦一六〇四〕年、ご逝去されました」
副守とは、王族を意味する爵号で、品階は従四品。王の側室の子、つまり『君』の爵号を持つ王子の、側室が産んだ息子に与えられる爵位だ。
現状、綾豊副守は、朝鮮国内では追尊王の庶子として、綾豊君に格上げされているが、生前は、『〝君〟の爵号を持つ王子の、側室が産んだ息子』という身分だった。
「では、この者は?」
問うた皇帝に、ミョンギルが会釈するように顎を引いて続ける。
「万暦三十四〔西暦一六〇六〕年にお生まれになった、もう一人の異母弟様です。綾豊君様のご生母であられる、定遠君様のご側室・金秀映様がお産みになった方ですが、当時は朝廷で、先の反正で粛清された大北派が力を振っておりました。定遠君様が、直感的に綾煉君様のご誕生をお隠しになったのも、無理はないかと」
「いや、しかし……その対応は、誠に意味があったのか?」
もっともな指摘に、シアは内心ドキリとする。だが、眉根を寄せて首を傾げる皇帝にも、ミョンギルは涼しい顔だ。
「はい、陛下。現に、国王殿下の下の同母弟様は、大北派に無実の謀反の罪を着せられました。そして、流刑にされた翌年、自害を迫られ、亡くなられております。定遠君様が、何が大北派の気に障るか分からず、公表してあとで失うくらいなら、と綾煉君様の存在を隠されたのは、あとになって見れば正しきご判断であったかと」
「しかし、その同母弟が亡くなったのは、いつの話だ?」
「廃王即位の、七年後でございます」
「綾煉君が産まれたのは、それより前……廃王即位より前ではないのか?」
この指摘には、ミョンギルの反応も一瞬遅れた。
「……左様です」
「であれば、廃王が、奸臣に唆されて、儒教の教えに反する罪を犯すことを見越すのは、難しくないか?」
「恐れながら、陛下」
直後、口を開いたのは、シアだ。
「発言を、お許し頂けるでしょうか」
「何だ」
「陛下は、先程重臣の方の一人が仰っていた、先々王・宣祖殿下のご嫡男についてはご存知ですか?」
「……いや、知らぬな。先程、臣下の発言で存在を知ったくらいだ」
「かの方は、わたくしと同い年です。先々王・宣祖殿下には、長らくご嫡男がお出来にならなかったのですが、長いことご嫡男をご切望でした。ご自身が、傍流から王位に就いたことを恥じ、ご自身の跡継ぎには是非ご嫡男をとお考えでしたから、先の廃王を世子の地位に就けたのも、時期的に緊急避難としてやむを得ない措置でした。そんな宣祖殿下の下に、待望の嫡男が授かったら、宣祖殿下は何をお考えになったと思いますか?」
「……世子のすげ替えか?」
「ご明察です。ですが、先の廃王は、当時すでに齢三十一。世子の座に就いてから、十年以上が経っておりました。ゆえに、当時の世子様を支持する者も多かったのです。その筆頭が大北派でした。支持勢力としては、世子様をすげ替えられては堪ったものではありません。口に出すのも憚られますが……彼らは世子様をすげ替えられる前に、王殿下に死んで頂く必要がありました」
「……まさか」
「ご推察の通りです」
シアは、更に頭を下げて続けた。
「宣祖殿下を手に掛けた大北派は、世子様を次期王として承認して頂くに邪魔と考えた、宣祖殿下のご長男・臨海君様、ご嫡男の永昌大君様、そして、先程、チェ正使の話に出て来た、王殿下の同母弟であられる綾昌大君様を、次々に捏ち上げの罪で死に追いやりました。その辺りを、我が父である定遠君様は、わたくしが産まれる時には察していたに相違ございません。永昌大君様とわたくしは同い年とは言え、わたくしは大君様より半年ほど遅い生まれです。朝廷での形勢を見極めるには、充分だったかと」
「……成程……」
ひとまず、納得したように呟いた皇帝は、「それはそれとして、だ」と言葉を継いだ。
「何故、現国王の王弟とは言え、異腹のそなたが、使節団に付いて参った? それに、正式に使節団に加えられていたなら、何故そなたが正使として参らなかったのだ」
「事情がございます」
そこでフェイジェンが、口を挟んだ。
許可を得てはいないが、公式の場でない所為か、それとも久方振りに会う姉の発言だからか、皇帝は特に咎めなかった。
「事情とは?」
「綾煉君様もまた、大北派から身を隠しておいででした。お生まれになってすぐにご逝去されたと偽り、定遠君様は綾煉君様を都からお逃がしになったのです。わたくしと綾煉君様が出会ったのは、その逃亡の旅の途中でございました」
「姉上と?」
「左様です。危うい所を、綾煉君様と、綾煉君様の養父君に救って頂き、ご縁ができたのです」
「縁とは……」
「事後報告になりましたが……帰国の前に、わたくしと綾煉君様は、夫婦の契りを結びました。何卒、お認め頂きたく」
フェイジェンが、下腹部に両手を合わせ、頭を下げる。
「えっ、何ですって……すでに、ご結婚されたと!?」
「はい、陛下」
「なりません!」
再会後、初めて皇帝が、フェイジェンに向かって声を荒げた。フェイジェンのほうは、ある程度予想していたのか、慌てる様子もなく目を上げる。
「ならぬ、とは」
「当たり前でしょう! こうして、帰国されたのです。姉上にはまず、正式に公主としての冊封の儀を執り行います。そして、公主が降嫁する為には、海選〔明国版揀擇。皇女の夫選びのオーディション〕で厳正に審査せねばなりませぬ。こんな、どこの馬の骨とも男か女かも分からぬ者を――」
「ご撤回下さい」
悪かったな、男か女か分からなくて、とシアが脳裏で呟く間に、フェイジェンが、凛と返した。
「……姉上?」
「この方は、朝鮮国の歴とした王族の方で、今は王弟でいらっしゃいます。仮に、陛下の仰る、『どこの馬の骨かも分からぬ者』であったとしても、わたくしが夫として選びました。この方以外の男の許へは嫁ぎません。もし、この方との離縁を強要し、ほかの男の許へ嫁げと仰るなら、わたくしは今からでも死を選びます」
「姉上、それは無茶というものです。第一、大明帝国の公主として戻ったからには、責務をお果たしに、痛てててて!」
「ったく、どの口か言うのかしらね、この馬鹿弟が」
ついに、公主としての言葉遣いをかなぐり捨てたフェイジェンは、皇帝の唇の端を捻り上げた。
「責務ですって? ふざけんじゃないわよ、だったらあんたは何? 皇帝のクセに、政務はあのクソ太監に丸投げして、自分は趣味に没頭してたことくらい、情報としては朝鮮にだって流れて来てんのよ」
「あ、姉上」
「自分は『皇帝』って身分に胡座掻きまくって、普段は工芸、夜は好きに女抱いて子ども作っといて、その我が子は疎か、妻も守ろうとしないって、馬鹿なの? いや、確認するまでもないわね、馬鹿よ。直近で三人も子ども殺されて、側室も殺されて、まだ懲りないの? あたしが彼と心中したら、やっと懲りるの?」
「い、痛いです、手を」
「放して欲しかったら、彼との結婚を認めるのね。まあ、認めてくれなくても構わないわ。あたしは、最初から公主としてこの国に戻ったつもりはないから」
「な、何ですって?」
フェイジェンはそこでやっと、ギリギリと皇帝の唇と頬を同時に抓り上げていた手を放した。皇帝は、解放された右頬の辺りを、涙目で擦りながら、フェイジェンに向き直る。
「公主として戻ったつもりがない、とはどういう意味ですか」
「言葉通りよ。あたしは別に、公主としての身分は要らないし、正式に生き返るつもりもないの。ただ、追い回される生活を終わりにしに来ただけ」
「ですが」
「先程も、申し上げましたが、皇上」
そこで、イェンが会話に入って来た。
「もう、お義姉様を自由にして差し上げて下さいませ」
「だから、自由にしたではないか。錦衣衛を引き上げる勅命を」
「すべての意味で、です」
「すべての意味?」
何を言っている、と言いたげに眉根にしわを寄せた皇帝を、イェンは静かに見据えた。
「命を狙われながら、逃亡生活するということが何を意味するか、皇上はお分かりですか?」
「……何を……」
「生活のすべてが、生きて逃げること一色になるのです。ほかに何を考える余裕も、恐らくおありではなかったでしょう。そんな中、一緒になられたということは、お義姉様にとって、綾煉君様……いえ、お義兄様との時間は、唯一の安らぎだったのですわ」
(……そんな生易しいモンじゃねぇけど)
イェンと目が合ったシアは、口には出さずに反駁する。
「ご自分の逃亡生活に愛する方を巻き込むことにも疲れ、危険を冒して明国まで幕引きを図りに来たお義姉様のお気持ちを、どうか汲んで差し上げて下さいませ。一度くらい、わたくしの要望を、聞いて下さってもよいでしょう?」
皇帝は、尚も何か言い募ろうとするように口を開いた。が、結局、息を詰めるような音だけを漏らして、唇を引き結ぶ。
ばつが悪そうに眉根を寄せた皇帝は、伏せた瞼の下で目線を泳がせ、完全に沈黙した。
ここまでの己の所業で、複数人の我が子を失った事実や、目の前のイェンを苦しめたことを、やっと省みたのかも知れない。
「……分かった」
ようやくそれだけ返すと、皇帝は顔を上げ、改めてフェイジェンに視線を向けた。
「姉上」
「何?」
「公主としての復位を望まない。それが誠に、姉上のご希望ですか?」
「……ええ」
「左様ですか……」
短いやり取りののち、皇帝は再度、考え込むように目線を伏せる。それから、また少し経ってから視線をフェイジェンへ戻した。
「……分かりました。では、姉上のご希望を纏めます。姉上は、公式にはこのまま、六歳の時に薨去した懐淑公主として記録される。よって、先程この場にいた臣下には箝口令を敷き、国民にも公にしない。そして、綾煉君と夫婦として生きる――以上ですか?」
「そうね。付け加えて、この内密の婚姻を盾に、朝鮮に無茶な要求をしないこと。あたしも綾煉君様も、公式にはいない人間なの。いない人間の婚姻を盾にするなんて、どれだけ愚かしいことか、さすがに理解する頭はあるわよね?」
「綾煉君も?」
皇帝が、何度目かで眉間にしわを刻む。
「どういうことだ?」
疑問は、ミョンギルとシアに向けられた。ミョンギルの視線を受け、シアが小さく頷いて口を開く。
「……万が一、陛下に、懐淑公主様のご生存を秘すことにご同意頂けない場合を考え、わたくしは朝鮮国王殿下に、王弟としての名乗りを上げ、爵位を急拵えで拝領して参りました。ですが、わたくしの生存もまた、国内にはまだ告知しておりません。わたくしも、公式に復位し、王族として生きることは望んでおりませんので、可能であれば、このままそっとしておいて頂けると、有り難く存じます」
拱手し、頭を下げると、皇帝からは沈黙が返った。三度、長い沈黙を挟んだ皇帝は、やがて、「よかろう」と言った。
「今、この場で聞いたことは、朕の胸に納めておく。そして、この場にいる者全員に、この場での話を墓場まで持って行くことを命ずる」
「承知いたしました、陛下」
その場にいた全員が、皇帝へ返答を斉唱する。
「それと、姉上」
皇帝が、改まってフェイジェンに顔を向ける。
「何?」
「姉上の身の安全の為なのですが……こののち、ウェイ太監から提出されるであろう名簿を元に、すべての錦衣衛を一旦、朝鮮国内から明国へ引き上げさせます。つきましては、姉上探索の任に就いていたすべての錦衣衛が、完全に朝鮮国内より帰国したのを確認できるまで、姉上には皇宮にいて頂きたいのです」
「今すぐに、ウェイ太監の許へ乗り込ませて頂けませんか」
フェイジェンが返答するより早く、シアが問う。
「何?」
「ウェイ太監のあの態度では、素直に名簿を渡すとは思えません。下手をすると、証拠隠滅を謀られる恐れもあります」
「まさか」
「ウェイ太監の居所はどこです」
「ご案内致します、綾煉君様」
チェソンが、表向きの呼称で答える。
「ありがとう。フェイ、行くぞ」
「ええ」
「待て! 許可した覚えはない!」
焦ったように、背中から追い掛けてくる声には構わず、シアはチェソンのあとに続く。
「ウー尚宮! そなたは、誰の臣だ!」
「わたくしです!」
答えたのは、イェンだ。
「ツァィシン! 構わぬから行きなさい! 全責任は、わたくしが取る!」
「感謝致します、皇后娘娘」
律儀にその場で万福をしたチェソンが、喚く皇帝の声を無視して扉を開いた。
***
「チェソン! ここ、厩はあるか!?」
「こちらです!」
駆けながら、叫ぶように会話を交わす。
タガが外れるほど広い紫禁城のこと、こちらも走って追っていては、追い付く前に体力が尽きてしまう。上から確認しようにも、飛び乗るには、紫禁城の塀は高過ぎた。
幸い、歩きで居所へ向かっていたウェイ太監と、彼を護送中の衛兵たちには、シアたちが皇宮内にある厩へ寄っても追い付けた。
「なっ、何だ貴様ら!」
「皇后娘娘の遣いです!」
チェソンが叫び、シアは無言で馬から飛び降りる。逃げようとするウェイ太監は、シアの乗っていた馬に飛び付こうとしたが、シアはその足許を思い切り払った。
「わっ!」
悲鳴を上げたウェイ太監は、もんどり打って倒れ込む。その片手を取ろうとしたが、瞬間、寝返りを打ったウェイ太監は、素早く両手を頭部の脇へ突き、身体を弓のようにしならせると、反動で蹴りを放つ。
反射的に、飛び退いて距離を取る間に、空いた馬に飛び乗ったウェイ太監は、馬首を返した。鋭く舌打ちし、視線を巡らせた時には、フェイジェンが衛兵から奪い取ったのであろう弓を番えている。
それを認識した直後、彼女が放った矢は、ウェイ太監の背に命中した。
「ぐぁ!」
背を仰け反らせたウェイ太監は、呻き声と共に落馬し、馬は一直線に走って行く。
地面へ頽れたウェイ太監に駆け寄ったシアは、今度こそウェイ太監を捕らえ、後ろ手に捻り上げた。
「一体、どういうことです」
その場にいる衛兵の指揮官らしき男が、チェソンに質す声が聞こえた。
「皇后娘娘のご命令です。ウェイ太監の居所を徹底的に調べ、朝鮮へ派遣した錦衣衛の名簿を捜して下さい」
答えるチェソンの声を背中に聞く頃、ウェイ太監はやっと観念したように、額を地面へと、押し付けるように落とした。
***
フェイジェン探索に派遣されていた錦衣衛すべての完全帰国を待つ間に、シアたちはチェソンとチョンユンを手伝い、ウェイ太監夫妻の余罪を洗う手伝いをしていた。
結局、フェイジェンを狙っていた理由を、ウェイ太監が最後まで口にすることはなかった。一度自分の口から出た言葉は、瞬く間にどこまででも広がることを、彼はよく知っていたのだろう。
ともあれ、ウェイ太監夫妻の罪状確定、及び、その処罰による降格と、全錦衣衛の完全帰国を見届ける頃には、年も暮れ、天啓三〔西暦一六二三〕年が終わろうとしていた。
「――寂しくなりますわ」
時は、天啓三年十二月二十七日〔西暦一六二四年二月十五日〕。
女官の通用口まで見送りに来てくれたイェンが、心底から名残惜しげに言った。
「せめて、年が明けて、年始の祝宴までゆっくりして行かれたら宜しいのに」
「とんでもない。皇后娘娘直々に、ここまでお見送り頂くだけでも恐れ多いことですわ」
にこやかに応対しているフェイジェンだが、目が笑っていない。
今イェンが言ったことを、数日前に勧められ、「考えておきます」と返答したシアは、その夜それをフェイジェンに話したところ、震え上がって反対された。
『――シア、正気!? 明国皇宮の年始の宴がどのくらい続くか、知ってるの!?』
『……知らねぇ。どのくらいだ?』
『半月よ、半月っっ!! 一日でも参加したら、終わるまで放してもらえないわ! 用事が終わったんだから、とっとと帰りましょ! いつまたアージャオの気が変わるか知れやしないわ!』
(……確かに、参加したくもねぇ宴に半月も縛り付けられちゃ、堪んねぇな)
目眩してくる、と思いながら、シアは無意識に眉間を押さえた。
「お義兄様、どうかなさいましたか?」
それを目敏く見たのか、イェンがシアに声を掛ける。
「……いいえ、何でも」
慌てて愛想笑いをしながら、シアは顔を上げた。
「お義兄様。ツァィシンを返して差し上げられず、申し訳ございません」
「いえ……最終的には、彼女自身が決めたことです。こちらこそ、騙すような形になって、申し訳なく思うことが幾つもございますゆえ」
「とんでもない。事情を考慮すれば、すべて仕方のないことですわ。間諜だったと聞かされても、ツァィシンを憎む気にはなれません。理由はどうあれ、彼女は彼女のできる範囲であったとしても、全力でわたくしの力になってくれました。彼女の能力は、処刑するにしろ、帰国を許すにしろ、手放すには惜しゅうございます。ほかの……協力者に関しても、同じことですわ。今後も、わたくしの下で、重用したく存じます。ご安心下さいませ」
「かたじけない」
イェンとシアは、互いに頭を下げ合う。
ほかの協力者とは、すなわち、チョンユンを含む影契のことだ。
チェソンのことを話した時、チョンユンに関しても明かさざるを得なかった。イェンが、彼女たちの処遇について、シアに打ち明けたのも、数日前のことだ。
影契としての勤めを辞め、明国人として生き、終生イェンへの忠誠を誓うことを条件に、間諜としての罪を不問に付すと――。
『――従えません、大君様』
イェンの決断を告げた時、チェソンは硬い表情で頭を下げた。
『わたくしたちは、あくまでも大君様の為、故国・朝鮮の為にこの明国の皇宮内にいる者です。用済みであれば、死ねとご命じ下さい。この場で毒を飲み干してご覧に入れます』
『んなことされても、寝覚め悪ぃんだよ。最終的に今回、俺の為に働いてくれたことは、心の底から感謝してる。返し切れねぇ借りができたとも思ってる』
『貸し借りなど、考えたこともございません。わたくしたちは、大君様の忠実な僕なれば、命じられれば火の中にでも飛び込みます』
『だったら、大君としての最後の命令だ、っつったら、従ってくれるか?』
『なれば何故、死ねと仰って下さらないのです!』
覚えず、と言った様子で顔を上げたチェソンは、シアの泣き出しそうな微笑を見てか、息を呑んだように口を閉じた。
『……前に、ミョンギルには言った気がするんだけどさ……無用に死人出すの、嫌なんだよ。どーっしても、朝鮮への忠義が気になって死にたいってんなら、俺らが朝鮮に帰ってから、俺の目の届かないトコでやってくれ。でも、可能なら生きてて欲しい。もっとも、これは俺個人の我が侭に近いから、死ぬのがあんた個人の意思なら止められないけど――』
あのあと、チェソンやチョンユン、ほかにも潜入しているであろう影契が、どう決断したかは知らない。決して、簡単なそれではなかったに違いないが、彼女たちはシアたちが発つまでに、心を決めてくれた。やはり、影契の構成員すべてに、頭が上がらない。
「チェソン……いえ、ツァィシンとほかの者にも、どうか、わたくしからの感謝をお伝え下さい。恩を、生涯忘れないと」
「必ず伝えますわ」
同じ間合いで頭を上げ、微笑み合う。
「お元気で」
どちらからともなく告げると、シアは、フェイジェンとミョンギルと共に、きびすを返した。
年始の宴終了まで明国に残るミョンギルと別れ、シベクの商団と共に帰国したシアとフェイジェンを待っていたのは――イ・グァル挙兵の報せと、綾陽君の不在だった。
©神蔵 眞吹2026.




