第八章 処断
翌朝、宮正司での朝会を終えたシアは、チョンユンの案内で、密かに朝鮮からの使節団の控え室へ向かった。
〈失礼致します。チェ正使様はご在室でしょうか〉
チョンユンが、敢えて明国語で室内へ呼び掛ける。使節団と言っても、すべての人間が、明国語に堪能なわけではないからだ。今からの話は、なるべく朝鮮人に伝わらないほうがいい。
〈お入り下さい〉
久し振りに聞くチェ正使――チェ・ミョンギルの声が、やはり明国語で答えた。
振り返ったチョンユンに、小さく頷いて見せ、シアだけが控え室へと入る。部屋へ滑り込むと、室内では朝鮮からの正使として正装したミョンギルが、一礼した姿勢でシアを迎えたのが目に入った。
『お久し振りです、大君様』
顔を上げたミョンギルが、唇の形だけで挨拶する。室外に聞かれない為の配慮だ。
朝鮮を発つ前には、彼は確か読唇術は使えなかったはずだが、今回の作戦の為に、出国前に修得したらしい。
ちなみに、ミョンギルを含む朝鮮からの使節団が、明国へ到着したのは、シアたちがチェソンの私邸に入った夜のことだ。
ともあれ、要らない苦労を掛け通しで、何十回目かで申し訳ない気分になりながら、シアは『一人か』とやはり唇だけで返した。
『はい。例のものはこれに』
ミョンギルは、シアの前に、面積の広い、浅い箱を差し出す。中身を確認しながら、『フェイは?』と一番気になっていたことを訊ねた。
直後、控えめに扉を叩く音が室内に響く。
〈チェ正使様。ご夫人がお見えです〉
再度、潜められたチョンユンの声音が訪ないを告げ、ミョンギルが〈お通ししろ〉と応じた。
音もなく開いた扉から、大明帝国の皇女としての正装をしたフェイジェンが現れる。彼女は、足音を殺したまま、真っ直ぐにシアに向かって来た。
その美しさに見惚れることができたのは、彼女が肉薄するまでの、ほんの数瞬の間だった。
『綺麗だ』も『会いたかった』も口に出すより早く、駆け寄った彼女は、躊躇いなくシアに抱き付き、シアの唇を己のそれで塞ぐ。離れていたのはほんの二日ほどの間だったのに、随分久し振りに思える口づけは、ほんの一瞬で終わった。
思えば、ただ二晩、彼女を引き離すのにも苦労した。ミョンギルの到着が、遅れれば遅れただけ、シアが皇宮に先に潜入するという策も、考え直さざるを得なかっただろう。
最終的に、彼女の説得までミョンギルに丸投げしてしまい、最早ミョンギルには一生頭が上がらない。
無事でよかった、という言葉は、互いに目を見交わすだけで済ませ、シアはミョンギルに視線を戻す。
ミョンギルもまた、シアに軽く会釈するように頷き、先程蓋を開けた、浅い箱を示す。その箱には、朝鮮の王族が身に着ける、正式な着衣一式が入っていた。
***
「――斯かる事情にて、先日、新しい王殿下が、朝鮮王として即位されたことを、ここにご報告申し上げます」
ミョンギルが、拱手で礼をしながら、綾陽君の即位を報告する声が、明国皇宮の正殿である皇極殿の中に、朗々と響く。
「して、その新しい王は、如何なる血筋の者ですか?」
皇極殿の議場に居並んだ、大明帝国の臣下の一人が、口を開いた。
「新たな王殿下は、即位前の御名を綾陽君様と仰います。廃王の異母弟である、定遠君様のご長男です。後程、この定遠君様にも、追尊王〔本人の死後、王として諡号を与えること〕としての承認も賜りたく」
「しかし、その定遠君様と仰る方も、側室腹の王子なのでしょう。先々王・宣祖殿下には確か、ご嫡男がおられましたな。その御方は、如何されたので?」
まさにその御方本人であるシアは、使臣団の最後尾でギクリと身を縮ませてしまう。
何だったら、『イ・ウィ』としてここに来てもいいのではないかと思っていたが、やはり甘い考えだったと再認識した。別人としての戸籍を捏ち上げてもらって、正解だった。
「その御方も、廃王即位ののちに謀殺されました。先王が廃された理由の一つとして、その罪状もございますゆえ」
ミョンギルの、平板な声での答えに、発言した臣下は、納得し兼ねるという顔をしたが、口を閉じた。
「とにかく、先の廃王が、儒教の教えに反する罪を、幾つも重ねて犯した。ゆえに、政変が起きた。そういうことだな」
直々に口を開いた皇帝に、ミョンギルが「御意」と答えて更に頭を下げる。
「分かった。新王即位、及び新王の亡き父君への追尊に関して、そなたが帰国する際に、任命の勅書を遣わす」
「有り難き幸せ」
「では、次の議題に移る。皇后をこれへ」
「それでは、わたくしたちは一度、宿へと引き取らせて頂きます」
ミョンギルが改めて一礼すると、皇帝が「待て」と引き留めた。
「何でしょうか、陛下」
「そなたたち、朝鮮の使節団にもこの場にいて欲しい。皇后の希望だ。聞き入れてもらいたい」
シアの前方にいる朝鮮の使臣たちは、戸惑った顔を互いに見交わしている。
それを余所に、ミョンギルだけは、涼しい表情で「承知致しました」とだけ答え、後方へ目配せする。
ミョンギルの背後にいた者たちは、最後尾のシアとフェイジェンから順に、皇帝の正面から脇へと下がった。
「皇后娘娘のおなり!」
直後、太監の一人が皇后の来訪を告げる。この大明帝国の皇后、ヂャン・イェンが、後ろに女官と太監を従え、皇極殿の議場へ入場して来た。
「皇后ヂャン氏、皇上にご挨拶致します」
足を止めたイェンは、万福を一つし、口上を述べる。イェンに従って来た者の内、拘束されていない者も、イェンに倣う。
「楽にせよ」
「はい、皇上」
もう一つ、頭を下げたイェンは、姿勢を戻した。そして、すぐ後ろに従って来たチェソンに、
「罪人たちをここへ」
と命じる。
「はい、皇后娘娘」
答えたチェソンは、更に後ろにいた、衛兵に目配せした。
衛兵たちは、キビキビと顎を引くと、後ろ手に拘束された罪人を引き連れ、前へ出る。そして、最前列に跪かせると、罪人たちが逃げ出さないよう、すぐ後ろに待機した。
それを確認したイェンは、ゆったりとした動作で、居並ぶ臣下たちのほうへ向き直る。
「皇上の許しを得て、臨時ではあるが、ツーランを害した真犯人の裁きの場を設けさせて頂いた」
「越権行為です!」
途端、大胆にも、皇后であるイェンの口上を遮った者がいた。
シアから見て、罪人の前、皇帝より後ろで、臣下のほうを向いていたイェンが、声のほうへ視線を向ける。
「何が越権だというのだ、ウェイ太監」
シアは、思わず息を呑み、『越権行為だ』と叫んだ男を見た。視線を悟られる前に慌てて目を伏せたが、男の容姿は、その一瞬で焼き付いている。
(アイツが)
四角い輪郭はふっくらとしており、眉が異様に長かった。跳ね上がった眉尻からは、ふさふさとした眉毛が伸びて垂れ下がっている。対照的に、目尻は極端に下がっており、その目許に縁取られた小さな目はどんよりと濁っていた。
その濁りの奥に、あらゆる欲望を滾らせている瞳は、どこかケシに似ているような気がした。
「越権でなくて何だというのです、皇后娘娘」
ウェイ太監は、臣下と同じように並んでいた列から、一歩前へ出た。
「第一皇子様の件は、すなわち皇族内の揉め事です。本来であれば、裁きの担当は、三法司であり、まずは刑部の審理を受けるのが筋でしょう。陛下」
言いながら、皇帝のほうへ対面するように、身体の向きを変えたウェイ太監は、拱手して顎を引く。
「それでなくとも、第一皇子様の件は、終わった話です。速やかに、皇后娘娘へ退出するよう、ご命令を」
「ウェイ太監」
皇帝は、穏やかにウェイ太監を呼んだ。
「はい、陛下」
「すまない。この件は、朕が今一度調査し、黒幕を明らかにするよう皇后に直々に指示した」
「それは許されぬことです。陛下、どうか皇后娘娘に退出の命を」
「ウェイ太監。朕の言葉を最後まで聞いてはくれぬか」
「陛下は間違った判断をなさっておいでです。これまで朝議へもお出にならず、今日初めて政の場に出て来た陛下に、正しい判断はお出来にならぬでしょう。どうか、今まで通り、わたくしにお任せを」
「ウェイ太監!」
皇帝が声を荒らげた途端、ウェイ太監が弾かれたように顔を上げる。
恐らく、皇帝がウェイ太監に対して、大きな声を出したことなどなかったに違いない。その証拠に、二の句が継げない、とでも言うように、ウェイ太監は沈黙してしまった。
そんなことは初めてだったのか、居並ぶほかの臣下も、呆然とした表情で、皇帝とウェイ太監とを見比べている。
その場が静まり返ったのを見澄ました皇帝は、声と共に浮かし掛けた腰を、静かに椅子に下ろした。
「今、皇后が申した通り、本日の審議は、朕が許可した。ゆえに今この時より、何人足りとも、皇后の言動を遮ることは許さぬ。皇后を遮ることは、朕に物申すことと同じと心得よ」
更に戸惑ったようなざわめきが、さざ波のように広がる。が、はっきりとした反駁の声は上がらず、全員が拱手した腕に顔を伏せ、是の意を示した。
それを確認した皇帝は、イェンに目を向ける。
「始めるがよい。皇后」
「はい、皇上」
イェンは忙しく皇帝のほうへ振り返って万福をすると、再び臣下のほうへ向き直った。
「ウー尚宮。調査の報告を」
「承知致しました、娘娘」
イェンの側に控えていたチェソンが、報告書と思しき書物を手に、前へ出る。
「まず、証人として、レン・ジゥ女史、プー・スージン女史、宋多論女史、玉鮮瀅司膳は、前へ」
名を呼ばれた四人の内、スージンだけが後ろ手に拘束されており、ほかの三人は衛兵に付き添われて前へ出る。司膳とは、尚食局の下部組織の一つ、司膳司〔食事の調理・味付け・配膳担当〕の長だ。
「まず、レン・ジゥ女史に問う」
呼ばれて、レン・ジゥが進み出ると、皇帝の側に立っていたランユーは、サッと顔色を変えた。
まさか、と唇が動くのが分かる。
当然だろう。ジゥは処刑されたことになっていたし、ランユーは、ジゥを殺したと信じていたに違いない。
チェソンもチラリと目を上げ、ランユーの顔を確認すると、特に何も言うことなく、証人のほうへ向き直った。
「あの内輪の宴の日、奉聖夫人に何か、指図されたことはないか?」
「……お答え致します、ウー尚宮様」
弱々しく万福をしたジゥは、目を伏せたまま続ける。
「あの日……奉聖夫人に命じられ、わたくしは、桂花糕に桂皮末を混入しました。でも、香り付けに入れるよう頼まれただけです。決して、皇后娘娘を……延いては御子を害するつもりなど……」
「だが、仮にもそなたは、尚食局に属していたのだ。調理担当だったとは言え、生薬の知識もあったであろう。命じられた量を入れれば、皇后娘娘が早産する可能性もあるとは考えなかったのか」
「わたくしは、……しがない女史です。末端のわたくしが、事実上、後宮の頂点であらせられる皇太后娘娘に、何を物申せましょう」
「無礼な! 後宮の頂点は、皇后娘娘であるぞ」
ピシャリとチェソンが叱りつけると、ジゥは縮み上がった。
「申し訳ございません!」
「……そなたの、その発言への処罰は、追って沙汰する。次、ユー・シェンイン司膳、呼び、ソン・ドォルゥン女史、前へ」
衛兵に腕を引かれ、下がらされるジゥと入れ替わりに、名を呼ばれた二人が前へ出る。
「ユー司膳、そして、ソン女史。二人は、レン女史が怪しげなものを桂花糕に入れる場面を見たと証言したそうだな。それは確かか?」
「はい、尚宮様。それは、奉聖夫人からの取り調べの際にも申し上げた通りです」
「わたくしも、同じです」
口々に証言した二人を下がらせると、チェソンは「次」と口を開く。
「苗曙烘、前へ」
その名が、チェソンの口から出た途端、ランユーの顔色は化粧でも隠せないほどの蒼白になった。
やはり後ろ手に拘束された、ミィァォ・シュホンと呼ばれた者は、着衣がズタズタになっていた。晒された胸板は、男のそれだ。
そして恐らく、自害を防ぐ為だろう。猿轡を噛まされている。
「この者は、長期間、女官として皇宮に勤めておりましたが、見ての通り、男性です。本名は、丁如函。レン女史を殺そうとしていた現場に居合わせたジン典正が捕らえ、レン女史共々保護しておりました」
いつの間にそこにいたのか、ジン典正、ことチョンユンが黙って頭を下げた。
次いで、チェソンは部屋の後方へ目を向け、「ディン家の者をこれへ」と告げる。指示を受けた衛兵が、数人の人間を前へ連行し、跪かせた。
「ディン・ルーハン」
名を呼ばれたルーハンは、無反応で目を伏せている。だが、チェソンは構わず続けた。
「そなたは、レン女史を殺そうとしていたそうだな」
沈黙を返すルーハンに、チェソンは畳み掛ける。
「分かっているだろうが、この者たちは、そなたの家族だ」
言われて、ルーハンは初めてハッと目を上げた。その目をしっかりと捉え、チェソンは言葉を継いだ。
「レン女史を殺害するよう命じたのは誰か、この場で白状せよ。白状しなくては、そなたの家族を順に殺していく」
明らかに、ルーハンの顔色が変わった。無意識にだろうが、彼が家族だと示された者たちのほうへ視線を向ける。
彼の家族――四十代半ばに見える男女(恐らく、彼の両親だ)と、二十歳前後に見える女性(多分、彼の姉か妹だろう)が、怯えた表情で、ルーハンを見つめ返す。
「尚、白状させる為に猿轡を外すが、その時舌を噛んでも、家族は道連れだ。よいな」
酷薄な声音が淡々と断じ、衛兵が指示に従い、ルーハンの口を自由にする。
ルーハンは、一瞬皇帝の横に立っているランユーを見た。刹那、視線が合ったかに見えたが、ランユーは、ルーハンから目を逸らす。
彼女が盾になってくれないと見たのか、ルーハンの表情が失望に染まった。ノロノロと顔を伏せたルーハンは、ついに口を開いた。
「……皇后娘娘、並びに、皇帝陛下に申し上げます」
皇帝とイェンのほうへ身体を向けたルーハンは、後ろ手に縛られたまま、深々と頭を下げた。
「わたくしは……奉聖夫人に命じられて、レン・ジゥ女史を殺そうと致しました。果たせず、今に至る経緯は、先程ウー尚宮様が仰った通りです」
「……乳母よ」
さすがに、愕然とした表情を隠せていない皇帝が、表情と同じ色の声音で問うた。
「何故……左様なことをした。本当にそなたが……我が子を殺そうとしたのか?」
「それは……」
ランユーは、実質婚姻関係にあるウェイ太監をチラと見たが、視線の先にいる彼は、苦虫を噛み潰したような表情で、瞼を伏せている。
有力な味方はない。否応なくそれを悟ったらしいランユーは、不承不承という感情を隠さないまま、言った。
「陛下に御子が産まれることで……この地位を失うのが、恐ろしかったのです」
「何故、朕に子が産まれたら、乳母がその地位を失うのだ。通常、皇子の乳母は、乳離れと同時に、皇宮から退出するのが習い。朕が、その習いを破り、乳母を皇宮へ留め置いているのに、朕が子を持ったところで、その地位を失うことなどないと分からぬのか」
「子が産まれ、無事に成長したらッ……きっと陛下は、その御子と、生母様に愛情を注がれます! そうなれば、ただの乳母など用済みではございませぬか!」
「皇上」
ランユーを遮るように、イェンが口を開いた。
「恐れながら、申し上げても宜しいでしょうか」
「……何だ」
「彼女には、余罪がございます。先にも申し上げた通り、フォン貴人と裕妃、そして、永寧公主の死にも、奉聖夫人が関係している状況証拠がございます」
「何?」
「皇上。彼女が皇宮内で自由に闊歩していては、今後も皇上の御子が危険に晒されます。これまでは、この皇后位の権威を存分に活かすことが適わず、皇上の御子や後宮の妹妹たちの命を守ることができませんでした。それは、わたくしの不徳の致すところではございますが……まずは、奉聖夫人の処断を、どうか御裁可下さいませ」
下腹部に両手を揃え、頭を下げるイェンと、悔しさにか泣き崩れているランユーを見比べた皇帝の頭に渦巻いているものが何か、シアには分からない。
だが、長い沈黙ののち、皇帝は「分かった」と告げた。
「乳母・奉聖夫人クァ氏は、朕の乳母であり、母も同然であるが、証拠も証人も充分に揃っており、犯した罪は明白だ。よって、奉聖夫人の名だけを残し、クァ氏をクァ氏自身の宮へ、永久に幽閉する」
「陛下!」
必死に遮ろうとするランユーを無視し、皇帝は続ける。
「また、必要な飲食物は与えるが、それを渡す以外でクァ氏の宮を訪れることを、何人にも禁ずることとする。侍女も太監も、クァ氏の宮からは即刻退去せよ。クァ氏を、宮へ連れて参れ」
後半は、衛兵に向けられた言葉だ。衛兵たちは、「はっ!」と答え、拱手すると、ランユーに駆け寄った。
「何をする、無礼者! わたくしは、奉聖夫人! 陛下の乳母にして母ぞ! 触るでない!!」
ジタバタと暴れ、身を捩る彼女を苦もなく両脇から捕らえた衛兵たちは、彼女の叫びもモノともせず、その場から退出して行った。
それを一瞥したイェンは、改めて皇帝に頭を下げる。
「つきましては、皇上」
「……何だ」
「捜査に協力してくれた者たちを、労いたく存じます。この場で、皇后の名の下、報償を与えること、何卒お許し下さいませ」
「……いいだろう。よきに計らえ」
「感謝致します、皇上」
更に頭を下げたイェンは、議場を振り返った。
「チェ正使、これへ。発言を許す」
名指しされたミョンギルは、通路へ出て拱手し、頭を下げる。そして、使節団を振り返った。
それが合図だったように、シアの隣にいたフェイジェンが、薄布を被ったままの姿で通路へ歩を進め、ミョンギルの隣へ歩む。
ミョンギルは、無言で前へ進むよう手で示した。
フェイジェンが、自ら頭部に被っていた薄布を払い、ミョンギルに預ける。そして、イェンの前まで歩き、万福をした。
「皇后娘娘には、初めて御意を得ます。わたくし、名をジュ・フェイジェン、公主としての諡を、懐淑と賜った者です」
すると、イェンもまた、フェイジェンに万福を返す。
「こちらこそ、お初にお目に掛かります、お義姉様。どうぞ、お顔をお上げ下さいませ」
顔を伏せていたフェイジェンは、言われた通りに頭を上げる。同時に、同じように礼を解いたイェンは、浅い辞儀のまま、続けた。
「皇上にも、こちらへおいで下さいませ。先頃、ご生存が判明したのは、皇上もご存知でしょう。お義姉様に、どうぞ、礼をお尽くしに」
静まり返った議場に、皇帝が立ち上がる音が、やけに大きく響いた。高台から降りる足取りが危なっかしいが、手を貸す者はいない。
どうにか転ばずに階を降った皇帝は、フェイジェンの前まで来てその手を取った。
「姉上……誠に、姉上でいらっしゃるのですか」
「……陛下」
「……どうか、阿校〔古代中国での、『阿』と名前の後半を組み合わせて呼ぶ愛称〕とお呼びに。一度も、姉弟としての会話をしていないのですから、一度だけ、どうか」
「……アージャオ」
皇帝とフェイジェンが生き別れになったのは、フェイジェンが六歳、皇帝が五歳の頃だ。
シア自身、そのくらいの頃にはもう、親しい兄弟姉妹とも別れてしまっていたので、再会した時には、はっきりと顔を思い出せなかった。
それでも、貞淑姉に抱き締められた時は、懐かしさで涙が出た。
今、目の前では、まさにその再現のように、フェイジェンと皇帝が抱き合って涙を流している。
「偽者だ!」
その時、感動の再会を、無粋にも邪魔する声が上がる。またも、ウェイ太監だ。
「お離れ下さい、陛下。懐淑公主殿下は、亡くなったのです。この者は、殿下を騙る偽物に決まっております」
ウェイ太監は、大胆にも皇帝の腕に触れ、フェイジェンと引き剥がそうとする。
「……亡くなった? ウェイ太監、どうしたのだ。先日と、申すことが違うではないか」
涙の残る声で、頬を拭いながら問う皇帝の言葉に、ウェイ太監は、ギクリと顔を強張らせた。
「……それは……」
「先日、そなたは申していたな。姉上を捜す為に、朝鮮に錦衣衛を派遣したと。なのに、どうして今日は、もう姉上が亡くなったなどと申すのだ」
「それは……あの、過日、捜索に派遣した錦衣衛より、懐淑公主殿下のご遺体を発見したと報告が……」
「ならば、その時点でそう報告すべきだろう。何故、今になって報告するのだ」
「ですから、それは……陛下の、精神への打撃を慮り……」
「その、朝鮮に派遣されていた錦衣衛の一人、こちらでお間違いございませんか」
ミョンギルが言い、シアがその錦衣衛を引き摺って前へ出た。
皇帝たちの前まで歩いたシアは、縛り上げられ、猿轡も噛まされた錦衣衛の兵士を、前へ突き飛ばす。転ばされても手を出すことができなかった兵士は、無様にもんどり打って倒れ込んだ。
以前、貞淑姉と貞正姉の連名で訴えられ、朝鮮国内で生きたまま処罰された錦衣衛を、シベクが商団と共に明国まで連れて来たのだ。
「この者たちは、公主殿下を捜すのではなく、捜して殺す為に放たれた者です」
告げたのは、ミョンギルだ。
今日、何度目かで目を見開いた皇帝が、
「それは、誠か」
と、誰にともなく問う。
「皇上。お義姉様は、つい先日も、毒矢で殺され掛けたと、わたくしはこの者らから聞きました」
イェンは、チラリとシアに目を投げる。
「……何と……それは、誠なのか」
「左様です」
ミョンギルが、説明を引き取った。
「その錦衣衛の兵士に訊けば、こちらの公主殿下が間違いなく、ジュ・フェイジェン公主殿下であられることは、お分かり頂けるでしょう。その兵士が、ウェイ太監のご指示で動き、公主殿下のお命を長いこと、付け狙っていたことも」
「皇上」
イェンが、畳み掛けるように皇帝に呼び掛ける。
「もう、お義姉様を解放して差し上げて下さいませ。六つで国を出られてから、もう十三年にもなるのです。朝鮮から、錦衣衛を引き上げるご勅命を、どうか……」
「分かった。そのように計らおう。ウェイ太監」
「は、……はい」
自分のほうへ向き直った皇帝に、ウェイ太監は、どこか気圧されたように返事をした。
「聞いたな。朝鮮に派遣した錦衣衛を全員、明国へ引き上げよ。少なくとも、姉上捜索に関わった者を、一人足りとも、朝鮮に残すことは許さぬ」
「ですが、陛下」
「そもそも、何故、そなたは姉上を殺すことに拘るのだ。姉上が、そなたに何をした?」
「……そ、れは……」
「ウェイ太監」
それまで黙っていたフェイジェンが、口を開く。
「その理由は、わたくしも知りたい。少なくとも、わたくしにはまったく心当たりがないのだ。理由も知らぬまま、命を狙われるのがどれだけ精神を削るか、そなたには分かるまいが」
「……何も知らぬと申すか」
地の底から、何かよからぬモノが噴き出るような声音が、ウェイ太監の口から滑り出た。反射的に進み出たシアは、フェイジェンの手を引き、自分の背後へ庇う。
「つまり、知られたら困ることがある、ってことだな」
この皇極殿に入って、シアは初めて言葉を発した。皇帝のいるこの場では、口を開くには、一々皇帝に許可を得なくてはならない空気だが、今は構っていられない。
図星だったのか、ウェイ太監がまたも言葉を呑むように、唇を引き結ぶ。
「言ってみろよ。皇帝陛下の御前で、あんたが犯した罪を自白する度胸があるならな」
ウェイ太監は、歯を剥き出しに噛み締め、シアを睨み付けた。だが、刃物も持っていない相手の睨みくらい、どうと言うことはない。
シアも冷え切った目で、ウェイ太監を見据え返した。
「ウェイ太監」
「ッ……」
皇帝に呼び掛けられても、最早、『はい』とさえ返せないらしいウェイ太監は、黙って拱手した腕の中に、顔を埋めるように伏せる。
「何故、姉上のお命を狙っていたのか、話せぬのならそれでよい。深くは問わぬ。だが、ここまでだ。姉上のご無事な姿を確認した以上、もう朝鮮国内に、錦衣衛を置いておく理由はない」
「陛下、それは」
「仮に、錦衣衛を派遣する理由がほかにもあるとしても、姉上探索の為に派遣した錦衣衛は一度全員引き上げさせよ。姉上は無事に戻られた。文句はないであろう?」
「ですが……」
「何をしている。すぐに名簿を渡さぬか」
ウェイ太監に言い返す言葉を考える暇も与えず、皇帝はウェイ太監に、手を差し出した。
「あの……名簿、ですか?」
「そうだ」
「何の……」
「とぼけるでない。姉上探索の為に派遣した、錦衣衛の名簿だ。司令塔に、今すぐに朝鮮から引き揚げるよう、勅命を下す。それから、乳母と共に犯したそなたの余罪を、徹底的に洗うゆえ、しばらくは私邸での謹慎を命ずる」
「陛下、わたくしは何もしておりません! 奉聖夫人のしたことと、わたくしは無関係ゆえ……」
「何を言う。そなたたちは夫婦であろう? 仮にそなたが何もしていないとしても、妻のやることに目を瞑った罪はある」
「陛下、わたくしは無実です」
「ウェイ太監。そなたを、朕は父と思っている。潔白ならもちろんそれを証明するゆえ、黙って従って欲しい。強制的に連行させることは、させたくない。乳母のような姿を見せないでくれぬか、頼む」
切々と縋るように言って、頭を下げた皇帝に、付け入る隙を見出せなかったのか。ウェイ太監は、悔しげに歯軋りした末に、衛兵に囲まれて、一度その場を辞した。
©神蔵 眞吹2026.




