第七章 潜入
「――あの」
大明帝国の皇宮――紫禁城。
その正門の前で番をしていた衛兵は、声のしたほうへ目を向けた。
視線の先には、如何にもか弱そうな少女が一人、立っている。
濡れ羽色の髪は、簡素な三つ編みに結ってあり、着衣も簡素なそれだ。どう見ても未婚の、一般庶民の娘である。
だが、一般庶民の少女と言い切るには、美貌が桁違いだ。
逆卵形の輪郭に、切れ上がった目許、通った鼻筋に薄く引き締まった唇が、絶妙に品良く配置されている。
「……何の用だ。ここは民が気軽に立ち入っていい場所ではないぞ」
凄絶な美貌に、一瞬呆気に取られていた衛兵は、気を取り直して少女に問うた。
「重々、承知しております。ですが……こちらに伺候している遠縁の姐姐〔『姉さん』『姉』の意〕からの手紙が途絶えたので……心配で、こちらまで来ました。どうか、お取り次ぎを」
「そういうことはしていない。帰れ帰れ!」
「お願いします! 私、稔時雅と申します。私の遠縁の姐姐は、稔九さんです。尚食局で女史をしていて、近々里下がりをするはずでした。どうか……」
形のよい眉根がクッと寄り、眉尻が哀れっぽく下がっている。止めに、極上の黒曜石と見紛う瞳が、縋るように衛兵を見上げた。
妓楼でも簡単にはお目に掛かれない美貌に、上目遣いに見られて白旗を揚げない男はいない。この衛兵も、例に漏れなかった――心情的には。
しかし、最近皇宮を牛耳っているウェイ・ジョンシェン太監は、かなり気難しい人間だ。ちょっとでも気に入らないと、すぐに相手の首を刎ねるのがお定まりなのだ。
否、あっさり殺してくれるなら寧ろマシなほうで、死ぬ前に、理由の分からない拷問をたっぷり加えられることもある。
うっかり情に流され、職務外のことをして、命を危険に晒すのは御免だ。
「できれば願いを叶えてやりたいが、俺も命は惜しい。頼むから、帰ってくれ。今なら見ない振りができる――」
「これ!」
直後、鋭い声が少女の背後から飛び、少女本人はもちろん、衛兵もビクリと身体を硬直させた。
衛兵が視線を向けた先からは、身分証を掲げた女性が歩み寄って来る。
身分証からすると、女性の名は、ウー・ツァィシン。役職は、尚宮〔皇后を直接補佐する女官部署・尚宮局の長〕のようだ。
「これは、……ウー尚宮」
「何事です。この娘は?」
「いや、それが……」
「ウー・ツァィシン様と仰るのですね。私、レン・シーヤーと申します。どうか、話を聞いて下さい」
「話とは?」
ツァィシンは、シーヤーの腕を引いて、正門から一度離れた。
「お願いします。私、ここで……皇宮にて伺候していた姐姐の遠縁なのです。先日から急に姐姐と連絡が取れなくなって……ジゥ姐姐のお母様に頼まれて様子を見に来たのです。ですが、門前払いを食わされて……ウー尚宮様。ジゥ姐姐を……レン・ジゥさんを知りませんか?」
明らかにホッとして、職務に戻る衛兵を横目に、ツァィシンは、声を潜めた。
「……そなた、今何と言った?」
「えっ、あの……レン・ジゥさんを知らないか、と……」
シーヤーが繰り返すなり、ツァィシンは、シーヤーの腕を引いて、衛兵の許へ戻った。
「すみません。わたくしはたった今、里下がりから戻った、ウー・ツァィシンです。この娘を連れて皇宮へ入りますが、あなたもあの方も、何も見ていませんね?」
あの方、と言いながら、ツァィシンは、もう一人の衛兵へ顎をしゃくる。ツァィシンと相対している衛兵は、ギョッと目を剥いた。
「そんな……勘弁してくれよ。ウェイ太監にバレたら、大目玉を食らうだけじゃ済まないかも知れないんだぞ」
「何かあったら、皇后娘娘に申し上げて下さい。その気になれば、ウェイ太監よりも皇后娘娘のほうが、位は上なのですから」
きっぱりと断じると、ツァィシンは、シーヤーの手を引き、衛兵が否も応も答える前に、女官用の通用口へと歩み去った。
***
実質、ツァィシンがいないと調査が停止する三日間は、イェンにとっては永遠にも等しかった。まさに、一日千秋の思いで三日を過ごし、やっと里下がりから戻ったツァィシンは、見たことのない、超絶美少女を連れていた。
初対面、という意味でも見たことがなかったが、こんな特上の美貌がまさかこの世にあろうとは思わなかった、という意味でも初めてお目に掛かる美しさだ。
質素な身なりに見合わない――というか、その容姿だけで、質素な身なりはどうだってよくなって来る。
唖然と、ツァィシンとその美少女を見比べていると、ツァィシンは、少女の手を一度放し、一つ万福をした。
「皇后娘娘。わたくし、ウー・ツァィシン、只今里下がりより戻りました」
「……あ、ああ……よく戻った。首を長くして待っていたぞ……」
決まり文句を口に出すのも、上の空だ。挨拶したツァィシンよりも、美少女に見惚れることに忙しい。
「皇后娘娘。恐れながら、早速ですが、しばし人払いを願えますか」
重ねて話し掛けられ、イェンは目を瞬いた。気を取り直したように頷き、ツァィシン以外の女官へ目配せする。
その場にいた、数人の女官は、それぞれに万福をすると、二、三歩後ろへ歩き、きびすを返した。
その場に誰もいなくなったことを確認し、イェンはツァィシンに向き直る。
「……どうしたのだ。その娘は、外から連れて参ったのか?」
「……それが……レン・ジゥを訪ねて参ったとのことなのです」
「何だと?」
レン・ジゥ、と言えば、先日、イェンが早産することになった、甜点心の調理に関わった、尚食局の女史だ。
あの時、ランユーは最初、自らが桂花糕を作ったと言ったが、よくよく調べたところ、少しだけ、桂花糕を作る場から離れた瞬間があった、と皇帝には告げたらしい。その間に、桂花糕に桂皮末を入れたと白状した為、ランユーの独断で処刑されたと言う。
「……そなたは……」
呆然と口を動かし掛けたイェンを、ツァィシンが「無礼だぞ」と少女のほうを見ながら遮った。
「こちらへ来て、ご挨拶して名乗らぬか。こちらは、大明帝国の皇后娘娘であるぞ」
ツァィシンが厳しい声音を落とすと、少女はハッとしたような顔をし、慌てて万福をした。
「皇后娘娘には、初めて御意を得ます。申し遅れました。わたくし、レン・シーヤーと申します。レン・ジゥ女史様は、わたくしの遠縁の姐姐でございます」
「……遠縁?」
「はい。姐姐は、近々里下がりをする予定でした。ところが、先日からもう半月も、便りがございません。姐姐のお母様も、とても心配なさっていて……親戚の中で動けるわたくしが、様子を見に、都まで参りました。ですが、皇宮にはおいそれと入れそうになく、宿を取って、更に数日迷っておりましたが、手立てもなく……」
「それで、今日になって、皇宮の正門へ?」
質したのは、ツァィシンだ。
「はい」
「……そうか……」
イェンは、溜息と共に眉根を寄せた。
「シーヤーと言ったか」
「はい、娘娘」
「誠、気の毒だが……レン女史は……処刑されたのだ」
「えっ!?」
シーヤーは、弾かれたように、俯けていた顔を上げる。
「それは誠ですか!? 何故、ジゥ姐姐が……」
「実は……わたくしの胎の子を早産させてな。動機は分からぬままなのだが、早々に奉聖夫人が処刑してしまった。せめて、理由を知りたく思っていたのに……」
「そん、な……」
身内を失った悲しみに、一瞬悄然として見えたシーヤーは、ややあって、「あの」と怖ず怖ずと顔を上げた。
「恐れながら……皇后娘娘。申し上げても、宜しいでしょうか」
「何だ?」
「……本当に恐縮ですが……わたくしに、後宮内を調べる権限を下さいませんでしょうか」
「何?」
「わたくしも、姐姐がそのような暴挙に及んだ理由を知りとうございます。今更、姐姐がしたことを明かしても仕方がありませぬが、……身内として、せめて納得したいのです」
切々と訴え、懇願するように見上げるシーヤーを、イェンは静かに見つめ返した。その瞳は、真剣そのものだ。
通常なら、いくら信頼するツァィシンが連れて来た娘とは言え、簡単に相手の要求を聞き入れるわけにはいかない。だが、頼みの夫が頼りない今は、どこから差し出された救援でも、受け入れたい気持ちだった。
イェン個人としての気持ちと、それでも国民の母たる皇后としての立場の間で揺れ動き、無意識にツァィシンに目を向ける。
目が合ったツァィシンは、今一度周囲に目を投げると、足音を殺すようにしてイェンに近付いた。
そして、聞き耳を立てている者を警戒するように、イェンの耳許へ唇を寄せる。
「……考えがございます。どうか、娘娘のお心のままに」
潜めた声音に背中を押され、ツァィシンが離れるのと同時に口を開いた。
「――よかろう。今日付で、そなたを宮正司の女史として配属する。誰の下に付くかは、ツァィシン、そなたの権限で決めてよい」
「かしこまりました、娘娘」
ツァィシンは、深々と頭を下げると、同じく頭を下げたシーヤーを伴い、イェンの私室を辞した。
***
「――第一段階突破、ってトコだな」
その夜、取り敢えずツァィシンの部屋で休むことになったシーヤー――こと、シアは、寝台にドサリと腰を下ろし、息を吐いた。
ちなみに、偽名の『レン・シーヤー』は、朝鮮での『イム・シア』をそのまま明国語の発音にしたものだ。偶然とは言え、殺されたレン・ジゥが同じ姓で、身分証を仕込み直す手間は省けた。
「……大君様。ここは敵陣でございます。あまり、素でお話になりませんよう」
「分かってるよ」
肩先を上下させたシアの声も、ツァィシン、ことチェソンのそれも、同じ部屋にいてさえ聞こえるかどうかの音量まで下げられている。
「――あ」
「どうかなさいましたか?」
あることに気付いて声を上げたシアに、チェソンが目を上げる。その視線を捕らえ、シアは唇の形だけで『あんた、読唇術できるよな?』と訊いた。
影契は、チェソンの例にも見られるように、間者の側面も持つ。時に、彼女のように、外国に潜入することを要求されることもある。
外国に潜入する場合、母国語で読唇術ができれば、かなり有利だ。
思った通り、彼女は読唇術を体得しているのか、無言で頷いた。それを確認すると、シアは唇だけで先を続ける。
『早速だけど、「宮正司」って何だ?』
『朝鮮の後宮で言うところの、監察女官の集まりです』
朝鮮での監察女官は、尚正と呼ばれる女官を長とする、後宮内の捕盗庁の役割を担っている。
不正取締だけでなく、全女官の素行をつぶさに観察し、評価するのが職務だ。その評価は、定期的に取り纏められ、各女官の昇進・降格、後宮からの退去の基準となる。
『朝鮮では、監察女官の集まりや、部署はありませんが、明国では監察女官を一つの部署に纏めています。それが、宮正司です。女史は、内人と同等の地位と思って頂いて構いません』
『……なるほどな』
『大君様の配属先には、明朝、業務が始まり次第お連れ致します。上司となる、典正〔捜査担当官〕も、朝鮮から参った影契ですので、どうかご安心下さいませ』
***
「――では、あとを頼むぞ」
「承知しました」
翌日、チェソンに宮正司へと連れて行かれたシアは、宮正司の正七品・典正として配置されている影契である、金淸胤(本名・金淸胤)の下へ、女史として配属された。
「レン・シーヤーと言ったか」
「はい。宜しくご指導下さいませ」
チョンユンに頭を下げたシアは、一つ万福をし、「付いて参れ」というチョンユンに続いた。
どこの部署に於いても、女史は一番下の内人に相当するらしく、品階はないと言う。
仕事内容は、文書作成、ほかの雑務で、これもどこの部署に於いても大抵同じらしい、ということには驚いた(シアの認識だと、部署が違えば、下位の女官の仕事もそれに応じて違う印象だからだ)。
明国後宮の女官組織は、六局一司と言って、この内の一司が、すなわち宮正司を指す。
六局は、チェソンも属する尚宮局を筆頭に、宮中の礼儀作法・儀式・音楽・書籍の管理担当の尚儀局、服飾〔トータルコーディネイト。ヘアメイクを含む〕担当の尚服局、就寝時の皇族の世話係の尚寝局、裁縫・工芸品の製作・金銭管理担当の尚功局と、例のレン・ジゥが所属していた尚食局だ。
朝鮮の後宮だと、調理担当は水刺間、医療担当は内医院と完全に別業務だが、明国の後宮は、尚食局で飲食物と薬類の管理を纏めて担当しているらしい。
(……にしても……)
後宮だけ、グルリと一廻り案内してもらい、シアは思わず溜息を吐いた。
(広すぎだろ……)
記憶力は(一時半生の記憶が飛んでいたことはあるとは言え)悪くないほうだと思っているが、一度では覚え切れない。
昨夜の内に、チェソンにも『無理してすべて覚える必要はない。最低限、自分の職場だけ覚えればいい』と言われていたが、確かにそれで手一杯だ。
後宮部分だけでも、タガが外れるほど広い。正直、昌徳宮も広いと思っていたが、紫禁城は桁違いだ。
敷地が広ければ、建物の大きさもそれなりだ。塀の高さは、とてもではないが飛び乗れるそれではない。
建物の意匠は、朝鮮の王宮とも似た所があるが、大きさは倍以上に見えるし、門の敷居もぼんやりしていては足を引っ掛けて転ぶ気しかしない。
(……ま、覚える前に出ることにはなりそうだけど……)
「ジン典正様」
まだ目線だけをキョロキョロさせていたシアは、自分の前を歩くチョンユンを呼ぶ声に、我に返る。
視線を前へ向けると、チョンユンの前に、一人の女性が、万福をしたところだった。
見た目、二十歳前後だろうか。そこそこ整った顔立ちをしている。
「そちらが、新しく入った女史ですか」
「そうだ。今、後宮を一廻りして来たところだ。まだ不慣れゆえ、そなたも気に掛けてやってくれると有り難い」
「分かりました、典正様」
今度は、軽く会釈するように顎を引くと、女性はシアをチラリと見て、チョンユンに向き直る。
「あとは、わたくしが引き受けます」
「そうか。では、頼んだぞ」
仕事に戻って行くチョンユンを見送ると、女性はシアに歩み寄った。
「宜しくね。私、朴素璡と言うの。皆にも紹介するから、行きましょう」
「宜しくお願いします。レン・シーヤーと申します」
「そう。シーヤーは、幾つになるの?」
歩き出しながら、気さくに訪ねるスージンに、シアは「十七になります」と答える。
「そうなんだ。私、今十九なの。二つ年下ね。気軽に姐姐と呼んでいいのよ」
シアは、黙ったまま微笑を浮かべた。
「ところで、訊いてもいいかしら」
「はい、姐姐」
「シーヤーは、どうして後宮に?」
「どうして、と言いますと……」
「だって、後宮に入るには少し遅いじゃない。十代半ばで入って、しかもいきなり宮正司の女史に配属されるなんて、異例中の異例よ」
「……それが……」
少し、戸惑うように言い淀んで見せたシアは、足を止めて、通路の端にスージンを導いた。
「……姐姐は、レン・ジゥ女史様をご存知ですか?」
潜めた声音で問うと、スージンは目を見開いた。
それが、演技かどうかは分からない。ただ、現状で、いきなり核心を突いた質問をして来た意図が、ただの好奇心であるはずがなかった。
しかもここは、後宮の捕盗庁・宮正司だ。
「……レン妹妹〔後宮で、年下・階級の低いの仲間や側室を指す〕のことなら、知っているわ。最近、処刑されたでしょう」
「実はわたくし、ジゥ姐姐の遠縁なのです。ジゥ姐姐を訪ねて参ったのですが、処刑されたと伺って……その理由が知りたくて、皇后娘娘にお願いしたのです。そうしたら哀れに思って下さったのか、特別なご許可を頂けて」
スージンは、もう一度目を丸くした。
「でも、宮正司の女史は、定員四名よ。いくら皇后娘娘でも、後宮の規則を破るのは、あまり褒められたものじゃないんじゃないかしら」
暗に、「上に言い付けるわよ」と言わんばかりの空気に(と言っても、現在の後宮で、皇后より上の権力を持つのは、ランユーだけだが)、シアは困ったような顔をしてみせる。
「そう仰られても、皇后娘娘のお許しが出ましたし……元々宮正司にいた女史が一人、坤寧宮の配属になったのは、ご存知でしょう?」
「……そう言えば、昨日まで宮正司にいた女史が一人、今日は見当たらなかったわね。てっきり、具合でも悪くて伏せってるのかと思ってたけど……」
「臨時の配属ですから、わたくしは用が済めば、すぐに後宮を退出する予定です。そうしたら、坤寧宮に異動になった女史も、宮正司にお戻しになると、皇后娘娘は仰いましたので、その方も納得されたと思いますが」
「そう……」
口許へ手を当てたスージンが、何を考えているかは分からない。
どの道、女史の執務室へ行けば、この情報は宮正司の女史の間で共有されるだろうし、上手く行けばランユーの耳にも入るはずだ。
そうすれば、今日中に動きはある。
シアは、内心ほくそ笑みながら、歩を再開したスージンのあとへ続いた。
***
果たしてシアの読み通り、ランユーが動いたのはその晩――夜も更け、もう就寝するばかりになった頃だった。
「皇后娘娘」
外から声が掛かり、坤寧宮の女史が一人、入室して来て万福をする。
チェソンの伝手で、部署違いだが、皇后の寝所にいたシアは、来訪者からは簡単に見えない隅っこで、その声を聞いていた。
「お休み前に、失礼致します。只今、奉聖夫人がお目に掛かりたいと――」
「皇后娘娘!」
女史が言い終える前に、鋭い声音が割って入る。取り次ぎの女史を、半ば押し退けるようにして入って来たのは、どう見ても年齢不詳としか言えない女だ。
一言で纏めると、『妖艶な美女』だが、シアに言わせると若干化粧が濃い。特に、紅が赤々と塗りたくられた唇に、嫌でも目が行く。
キツめに結い上げられた髪はまだ白いものが混ざったようには見えないが、ツヤが如何にも不自然だ。恐らく、黒の染め粉でも叩いてあるのだろう(もっとも、この辺り、シアも人のことは言えないが)。
「先触れもなく、御前失礼致します。皇后娘娘。一体どういうおつもりですか?」
声から棘でも生えていそうな口調でランユーが言う内に、取り次ぎの女史は小さくなって退出している。
「どういうつもり、とは?」
すでに、寝間着に着替えていたイェンは、化粧台の前から、ゆったりとした動きで立ち上がった。
「聞きましたよ。勝手な人事のことです」
「だから、何のことだ。勝手な人事とは?」
イェンは、穏やかな目でランユーを見返しながら、ランユーに向き合う。
「奉聖夫人は、何か勘違いをしているようだ。以前から思っていたが……皇上のお母上、孝和太后娘娘亡き今、後宮の主は、そなたではない。名実共に、皇后であるわたくしだ。女官の人事をわたくしが動かして、何か不都合でも?」
ランユーは、冷ややかに射るようにイェンを見据えた。
「いくら主でも、後宮には後宮の決まりがございます。主が決まりを破れば、下々に示しが付きません。それこそ、わたくしがご説明申し上げるまでもないことでは?」
「異例の人事には、異例の対応をしたつもりだったがな。宮正司の女史の人数制限のことを考慮し、余分になった女史を一人、一時的に坤寧宮に異動とした。帳尻は合わぬか?」
「その人事、尚食局の女史、レン・ジゥの件に関わると伺いました」
イェンは、瞬時キョトンと目を瞠り、次いで小さく吹き出した。
「相変わらず早耳だな。どこから聞き付けたかは、敢えて訊かぬが」
「レン女史の件は、終わった話です。蒸し返さぬよう、陛下にもキツく申し付けられているのでしょう。この人事を撤回なさらぬのなら、今すぐに、わたくしは陛下に注進に参りますが」
「好きにせよ」
即答が意外だったのか、ランユーの反駁が一拍遅れる。
「……娘娘。まさか、わたくしが申し上げぬとでも?」
「そのようなことは思っておらぬ。ご注進申し上げたければ、好きにするがいい」
「娘娘!」
「終わったことと言うのなら、別に奉聖夫人が慌てることはない。ゆったりと構えて、お望み通り、わたくしが皇后を廃されるのを見物すれば良いではないか。何故そう、目くじらを立てる?」
面白そうに重ねて言い返すイェンに、ランユーの、飛び込んで来た時の勢いは、明らかに衰えた。
「そんな……何もわたくしは、皇后娘娘の廃位を望んでなど」
「望んでいないのなら、何故わたくしの子を殺した。どうして犯人を、取り調べもなく殺すような真似を?」
「ですからそれは、わたくしにも孫のような御子ゆえ、つい、反射的に犯人を殺すよう命じただけです」
「証拠は?」
「は?」
「左様に自信満々に申すのであれば、レン・ジゥ女史があの時、菓子に毒物を混入したという、確かな証拠はあるのであろうな」
「ですから目撃者が」
「目撃者? 初めて聞く話だ。詳しく聞かせよ。誰のことだ?」
追及されて、ランユーは、しまったという顔をしたが、すでに遅い。
「朕は聞かされていたが」
それまで、そこには姿のなかった者の声が割り込んだ。寝室の奥から姿を現したのは、皇帝だ。
ここまでの会話をすべて聞かれていたと悟ったのだろう。ランユーは、瞬時目を見開き、次に視線を落として唇を噛む。
「そう言えば、確かに誰のことかは聞いていなかったな。乳母よ、朕にも言えぬのか?」
「いえ、それは……」
ランユーは、ウロウロと伏せた瞼の下で目を泳がせると、すぐに口を開いた。
「陛下。最早終わったことと、陛下も仰っておられたではありませぬか」
「確かにそう思っておったが……乳母の様子を見て、少し気が変わった。まさか、あんな風に皇后を責め立てるとは……あんな、半ば恐喝のような言い方をされては、皇后も意地になるのも無理はない」
「陛下」
ランユーが、哀れっぽい目で皇帝を見るが、皇帝はいつものように丸め込まれることなく、ただランユーを見つめ返す。
「皇后よ。そういうことだから、先の決定は撤回する。存分に、我らの息子・ツーラン逝去の件を調べるがよい」
「はい、皇上」
万福をして、小さく膝を折った皇后は、「つきましては、皇上」と続けた。
「実は、すでに証拠は揃っております」
「何?」
皇帝が眉根を寄せる。
「どういう意味だ」
「我が子・ツーランの命を奪った者の黒幕は特定し、その者が黒幕であるという証拠も揃っております。ただ、これまでは皇上が『蒸し返すな』と仰っていたので、わたくしはせめてわたくしの納得がいくよう、調べを進めて参りました。皇上のお気が変わる機を、お待ちしていたのです」
「……そうであったか……」
呆然と呟いた皇帝は、何度も小さく頷き、皇后の肩へそっと手を添える。
「では、此度の異例の人事は」
「はい。こちらの証拠が揃ったので、皇上に申し上げる機だと、判断致しました。異例の人事を行えば、皇上も話だけは聞いて下さると」
実際、ランユーが踏み込んで来るだろうことを見越したチェソンの提案で、『今回の人事の件で話したいことがある』とイェンが皇帝を呼び出すと、皇帝はすぐに応じてくれた。
通常、部屋の外で待たされる皇帝の随行は、イェンが予め、『今宵は皇上はここへお泊まりになる』と告げ、引き上げさせていた。だから、ランユーも、ここに皇帝がいるとは思っておらず、本性剥き出しでイェンを問い質したのだ。
「左様か。よく分かった。では、証拠と黒幕をこれへ」
「皇上。それは、明日の朝議の場で申し上げたく存じます。どうか、明日だけは、朝議にご出席下さいませんか」
皇帝は、即位後からこれまで、一度も朝議に出たことはなく、皇帝の代理でウェイ太監が朝議を仕切っているようだ。普段、政はほとんどウェイ太監に丸投げし、自身は趣味の工芸に没頭しているとは、シアも軽く聞いている。
実際、それが楽しいのだろう。腕自体は実に見事なものらしいが、国の長として、民の父としてはそれはどうかと、他国のことながら心配になる。
(……つか、フェイも苦労するよな。こんなんが弟じゃ……)
チラリと視線を投げた先にいる皇帝は、シアより一つ上の十八歳で、イェンはシアより一つ下の十六歳だと聞くが、比べると、イェンのほうが皇帝より大人びて見える。
本当に苦労しているのは、正妻であり皇后である、イェンだろう。皇帝の自覚のない夫の所為で、我が子を失ったのだから。
「しかし、明日は……」
なぜか反駁しかけた皇帝に、イェンは「お願いでございます」と畳み掛ける。
「使節団の前で、明らかにしたき儀もございます。どうか、お聞き届け下さいませ」
©神蔵 眞吹2026.




