第六章 第一皇子、暗殺
「実は……つい先日、皇后娘娘は、ご出産遊ばした御子を、亡くされたばかりなのです」
「……何だって?」
辛うじて声を出せたのは、シアだけだ。
フェイジェンもシベクも、唖然と口を開けている。
「……ちょっと待てよ。確か、チェソンの報告書って、見たのふた月半くらい前だったよな」
言いながら、シアはシベクに視線を向けた。それを受けて、シベクが強張ったようになった口を開く。
「……左様です。ですが、見た時点から最低でもひと月は経過しておりますから、報告書の時点から合計して三月半は経っていると」
「ッあー……そっかー……その時からだと、皇后娘娘が妊娠してから七ヶ月くらいか? 産まれるの、早くねぇ?」
いくらシアが男でも、赤子が産まれるまでには、母親の胎内で十月十日は待たなくてはならないことくらい知っている。もちろん、それも目安であって、予定日に多少の前後があることくらいも分かっている。
「それにしたって、三月も早産したら……」
言い掛けて、ふと貞正姉のことが頭を過ぎった。
あの姉も、そうだった。
確か、シアの母と貞明姉の廃位を議論した戊午庭請への召集を拒否した貞正姉は、夫を仁城君に殺害され、その衝撃で、お腹にいた子を早産した。やはりちょうど、七ヶ月の頃だ。
『月満ちずに産まれた子は……保たなかったらしいわ』
貞正姉の早産から、産んだ子の早世を話してくれたのは、貞淑姉だ。
「……何か、あったのか?」
問うと、チェソンは首を傾げた。
「何か、とは」
「だから……早産するような、精神への打撃、みたいな……例えば、皇后娘娘の両親のどちらかが亡くなった、とか」
「いえ。皇后娘娘のご両親は、どちらもご健在です。早産なさったのは、その……」
チェソンは、目をウロウロと泳がせ、唇をキュッと引き結ぶ。だが、それも一瞬のことだった。
すぐに、吐息を漏らすように唇を解いた彼女は、続きを口にする。
「クァ氏……奉聖夫人が原因です」
「何ですって?」
「馬鹿な……あんなに警戒してたのに」
あの報告書によれば、奉聖夫人は、皇帝の寵愛を受けているという話だから、やはり出産前に追放するのが難しかったのだろうか。
疑問を察したのか、チェソンは硬い表情で続けた。
「……何しろ、その……こう申し上げては不敬ですが、皇帝陛下が、その……奉聖夫人を盲目的に信じておいでなので、どうお話申し上げても、奉聖夫人を皇宮から出すことにはご同意を頂けず……」
そうこうする内にひと月が経過し、ランユーの間者によって、イェンの懐妊は、皇帝の知る所となった――
***
「聞いたぞ、皇后!」
ツァィシンによる、フォン貴人についての報告から約ひと月。
イェンの棲まう坤寧宮へやって来た皇帝は、喜色満面でイェンを抱き締めた。
「あ、あの、皇上?」
「懐妊してもう五月になるというではないか。何故、朕に黙っていたのだ?」
息を呑んだイェンは、皇帝の背後にランユーが共に来ているのに気付く。同時に、自分の懐妊をどこかから嗅ぎ付け、皇帝に漏らしたのも彼女だと悟った。
事態を把握する頃、皇帝はイェンの肩先を持って、顔が見える距離まで身体を離す。
「こんなにも喜ばしいことを、何故すぐに教えてくれなかった? まさか、産み落とすまで黙っているつもりだったのではあるまいな」
戯けるように問う皇帝は、心からイェンの懐妊を喜んでいるのが分かる。
「先日、シュァを亡くしたばかりだったが、あの子の母である慧妃が懐妊し、皇后も……何と嬉しいことだ。大事にして、元気な子を産んでおくれ」
「……あ、ありがとうございます、皇上」
戸惑ったように絞り出したイェンは、伏せた瞼の下で、目を泳がせる。
「どうした、皇后。具合が悪いのか?」
「いえ……」
皇帝の言葉を否定しながら、イェンはランユーのほうへ目を向けた。それに釣られるように、皇帝もまた、彼女のほうを振り返る。
「何だ。乳母が気になるか? 感謝せよ。そなたの懐妊は、乳母が朕に報せてくれたのだ」
イェンは瞬時、鋭い視線をランユーに向けると、皇帝に視線を戻す。
「皇上。お願いがございます」
「ん? 何だ」
「まずは、奉聖夫人を、この場から退出させて下さいませ」
言い終えるなり、皇帝は目を見開いた。次いで、呆れたように苦笑する。
「……まだそんなことを申しておるのか。安心せよ。乳母はそなた懐妊を黙っていたことなど気にしておらぬ」
「二人きりでお話がしたいのです。どうぞ、人払いを」
辛抱強く、静かに重ねて言うと、皇帝は吐息を挟んで、顎をしゃくった。
周囲にいた女官たちは皆、一つ万福で礼をすると、しずしずと部屋をあとにしていく。もちろん、ランユーもだ。
それを見届けると、皇帝はイェンに目を戻す。
「……どうした。何を話したいと申すのだ」
「お願いでございます、皇上。どうか、奉聖夫人を、皇宮から追放して下さいませ」
「まだそんなことを」
「今までわたくしが懐妊を秘して来たのは、あの女のいる場所で産みたくなかったからでございます」
「皇后!」
率直な物言いに、ついに皇帝が声を荒らげた。
「いくら皇后でも、口が過ぎるぞ。よいか、奉聖夫人は、朕の乳母であり、母である。そなたは朕の掛け替えない伴侶で皇后だが、母を侮辱するのは許さぬぞ」
「わたくしも、これから母になるのです! 我が子を守る為なら、皇上のお怒りを買うのも、覚悟の上でございます!」
思わぬ反論を受けた所為か、皇帝が目を剥く。その目を、イェンはしっかりと捉えたまま、言葉を継いだ。
「以前にも申し上げましたが、これまでに皇上の御子が皆流産、あるいは皇上の寵を頂いた女官、側室が急な死を遂げたのは、すべてあの女と、ウェイ太監の計略でございます。永寧公主の死も、同様です。物証は残念ながらありませぬが、手の者の調べにより、状況証拠はございます。また、先頃、想像妊娠を疑われて餓死した裕妃は、真実、誠に身籠もっておりました」
裕妃――こと張奇奇は、イェンに負けず劣らず、正義感の強い女性だった(ちなみに、同じヂャン姓ではあるが、親戚ではない)。その気性を買われて、宮正司〔後宮内の警察部署〕に配属されていたくらいだ。
『皇后娘娘。わたくし、ヂャン・チーチー、先日、陛下の寵を頂き、子を身籠もりましたこと、謹んでご報告致します』
そんな彼女が、担当医婆〔医女〕に付き添われ、イェンの許へ挨拶に来た日を、今も覚えている。
安定期に入ったところで、側室『妃』に任命したのもイェンだ。皇后としての責務だったが、それが気に入らなかったのか、それとも懐妊自体が不愉快だったのか、想像妊娠だと騒ぎ立てたのはランユーだ。
『裕妃娘娘は、月満ちても子を産む気配がございません! 想像妊娠なのにわざわざ報告し、陛下と皇后娘娘を軽んじたのです!』
大変な言い掛かりだった。
その時、裕妃はまだ、妊娠七ヶ月だった。それを月満ちたと断言したのだから、それこそ捏ち上げも甚だしい。
しかし、よく調べもせずに、皇帝は裕妃を最下級の女官・女史に格下げした上、彼女自身の宮へ幽閉した。飲食物を絶たれた彼女は、胎の子諸共餓死したのだ。
自分がもっと力のある――それこそ、ランユーよりも権力のある皇后だったらと思わない日はない。
「――裕妃は、宮正司の元・女史で、その職務に相応しく、正義感が強く、真っ直ぐな女人でした。決して、権力欲しさに偽りを言う者ではありませぬ。せめて、彼女の名誉の為、裕妃の件は今一度調べ直すこと、お許し下さいませ。そして、奉聖夫人に正当な裁きを――」
「黙らぬか!!」
滅多に声を荒げることのない皇帝の、二度目の激昂に、イェンは息を呑んだ。目を大きく瞠ったイェンを見て、皇帝はハッとしたように口を閉じ、一瞬ばつが悪そうに視線を泳がせる。
「……い、いや、……すまない。皇后はきっと、懐妊の所為で、必要以上に気が昂ぶっておるのだろう」
「皇上」
「だが、大丈夫だ。乳母に限って、そのようなことをするはずがない。裕妃が懐妊を偽ったと、乳母が言うのなら、それは本当だろう。どうか、乳母を疑うようなことを言って、朕を悲しませないでくれないか」
「皇上……」
これだけ言っても通じないか。
いつも以上の落胆と疲労を感じながら、イェンは吐息と共に告げた。
「ならばどうか、里下がりをお許し下さいませ」
「何だと?」
「皇上がどうお思いになろうと、あの女の性根はわたくしがよく存じております。あの女を信用することはできませぬ。あの女がいては、後宮は安住の地ではないのです。こんな危険な場所で、子を産んで育てるのは不可能ですゆえ、わたくしが実家に下がります」
「皇后!」
皇帝は、今度は狼狽えるように叫ぶと、オロオロとしながらイェンの両肩に手を置いた。
「実家に戻って何かあったらどうする。皇宮から実家までの道中も心配だ。皇宮にいなさい。皇宮なら、国中から選りすぐった医官が沢山いるし、乳母もいる。皇后が不安なら、乳母に出産の一切を任せよう。それが一番安心だ」
「皇上!」
最悪の決定に、思わず金切り声を上げたイェンの両肩を、皇帝はポンポンと易しく叩いた。
「朕は乳母を、この世で一番信じておる。だから、そなたも信ぜよ。乳母を信ずることは朕を信ずることと心得るのだ。さすれば、何も問題はない」
「嫌です、皇上――」
「興奮しては、胎の子によくない。今日はもう休め」
「駄目です、お願いですから、」
「ああ、そうだ。裕妃……いや、ヂャン女史の件は、終わった話だ。調べ直すことは、朕の名誉を汚すと覚えておけ」
皇帝は、イェンの鼻先で、立てた人差し指を小刻みに上下させると、一方的に話を切り上げ、その日は坤寧宮をあとにした。
***
「……それで、どうしたんだ。まさか、傍観したんじゃねぇだろうな」
無意識に、チェソンを責めるような色が混ざってしまったが、どうしようもなかった。
多分、シアがその場にいたら、強引にでも何らかの策を講じようとしたと思うからだ。
チェソンは、居心地悪そうに眉根にしわを寄せ、落ち着きなく視線を左右させる。そして、下腹部に組んだ両手を当て、深々と頭を下げた。
「……申し訳ございません。奉聖夫人も、後宮内に手の者を何人も持っているらしく、迂闊に動けばわたくしの背後まで探られ兼ねませんでした。今、表向きには、わたくしは大明帝国・皇后娘娘の侍女ですが、わたくしの本分は、朝鮮に、延いては大君様にお仕えし、忠誠を尽くすことです。大君様に危険が及び兼ねない行動は、どうしても採れませんでした」
シアは、息を詰めるように唇を引き結んだ。
チェソンの立場を考えれば、責める権利はシアにはないのは分かっている。チェソンが職務を優先させるのも理解はできたが、納得はできなかった。
目の前で困っている人間が、それも、命に関わる重大事を抱えた人間がいるのに、その時点では、チェソンからすれば会ったこともない相手――つまり、人となりさえ知らない相手であるはずのシアの安全を優先させられる理性が、ひどく冷たいような気がしてしまう。そんな自分の自己中心的な考えにも、吐き気がした。
「……そのあと、何があって、皇后娘娘は早産することになったの?」
訊ねたのは、フェイジェンだ。
話の流れが元に戻った所為か、それともシアの指摘から意識が逸れた所為か、少しホッとしたような顔でチェソンは言葉を継ぐ。
「それが……それから程なく、奉聖夫人の提案で、皇帝陛下もご同席の、内輪の宴を催すことになったのです」――
***
名目は、イェンと慧妃の懐妊祝いだった。
ランユーが提案した際、先日、言い争ったあとの気まずさを引き摺っていたらしい皇帝は、喜んでその提案を受け入れ、自らイェンの許へ報告にやって来た。
「まさか、断らぬであろう? 乳母も、皇后と仲直りしたいのだ。大人気なく拗ねるのは、もうやめよ。皇后も母になるのだから、いい加減大人になれ。さすれば、朕も安心できる」
イェンは、噛み締めるように結んだ唇を、小さく震わせていた。
ランユーの提案する宴など、何があっても出席したくない。そう思っているのが、チェソンにも手に取るようだった。
ただ、イェンからすれば、ランユーという姑の味方ばかりする夫には、もう何を言っても通じない。これ以上、夫の不興を買わない為に、宴への出席を拒むことは、できなかったのだろう。
一方、その若さと真っ直ぐさ、公正な考えを隠しもせずに、普段からウェイ夫婦と対立して来たイェンと違い、慧妃はあまり目立たなかった。
先頃、子を亡くしたことと、今再び懐妊していることを除けば、ウェイ夫婦の目に付くことはなかったのか、宴が始まって程なく、体調不良を理由に退席するのを咎めることはなかった。
妊娠によるものと思ったのか、皇帝もあっさり彼女の退出を許したが、イェンの退席は許さなかった。
宴が進む中、やがて立ち上がったランユーは、手ずから作ったと言って、イェンに甜点心〔デザート〕を差し出した。
皿に盛り付けられたそれは、見た目はよくある普通の甜点心だ。
ちょうど旬だった桂花〔キンモクセイ〕を砂糖漬けにしたものを混ぜ込んだ、桂花糕〔蒸しケーキ〕は、割合最近広まり出した菓子だった。
調理する人間の感性によって、見た目は微妙に違うが、目の前にあった桂花糕は、白地に桂花をちりばめた、綺麗な菓子だ。
籠に入ったそれを、一応チェソンが毒味しようとしたところ、皇帝がそれを止めた。
「大丈夫だ。乳母がまさか、皇后に毒になるものを入れるはずがなかろう」
「しかし」
「なあ、皇后。朕を信じているなら、食べておくれ。乳母の気持ちを、汲んで欲しい」
無意識に視線を投げた先にいたランユーは、一見害のない笑みを浮かべていた。だが、チェソンには、含みのある笑みに見える。
恐らく、イェンにもそう見えたのだろう。
微かに眉を顰めたまま、けれど逃げることもできず、桂花糕をチラリと見た。
中々箸を付けようとしないイェンに、早々に苛立ったのか、皇帝が箸をとる。
「仕方がないな。朕が食べさせてやろう。そうすれば、皇后も口を付けてくれよう」
イェンとランユーを応分に見て、それこそ邪気のない――いや、どちらかと言うとランユーに媚びるような笑みを浮かべた皇帝は、容赦なく箸で一口大にした桂花糕をイェンの口許へ運んだ。
仕方なく口を開き、桂花糕を飲み込んだイェンに異変が現れたのは、程なくだ。
腹痛を訴え腹を抱えて、身体を丸めて呻き出した。すぐに脈を診たチェソンは、御医と医婆を呼ぶよう指示し、イェンを坤寧宮の寝室へ運んだ。
一昼夜苦しんだイェンは男児を産んだが、男児は数日で息を引き取ってしまった。月満ちずに産まれた為だろう、と御医は告げた。
「……絶対に、奉聖夫人……あの女の仕業よ……!」
どうしようもなかったとは言え、返す返すも、ランユーが差し出した菓子を口にしたことが悔やまれるのだろう。
子を失った悲しみと、ランユーにまんまとはめられた悔しさに涙しながら、早産した為の体調不良で横たわった寝台から、イェンはチェソンを見上げた。
「……ツァィシン……頼みを、聞いてくれる……?」
「……何なりと。娘娘」
チェソンは、余計なことは言わずに、一つ万福をした。
自由に動けなかったとは言え、側にいながら為す術なく、赤子を死なせてしまった責任を、少なからず感じていたからだ。小さな命が失われたあとでは遅すぎる対応にはなってしまったが、今からでもできることはしようと思っていた。
「……あの日……あの女が、何をしたか調べてちょうだい。特に、桂花糕に、何を入れたのか……」
「娘娘。恐れながら、お伺いします。娘娘のほうで、お気が付かれたことはございませんか?」
「気が付いた、こと……?」
イェンは、横になったまま涙を拭いつつ、鸚鵡返しに問うた。
「左様です。桂花糕を口にされた時、何か……変わったことはありませんでしたか?」
重ねて問うと、イェンはしばし考え込む顔になり、やがて口を開く。
「……そう言えば、……桂皮末の匂いがした」
桂皮末〔シナモン〕は、桂花と同じ『桂』の字が付いているが、実はまったくの別物だ。
桂皮末自体は、病の治療にも使われる、生薬の一つだ。料理の香り付けに使われることもあり、毒ではないが、妊婦に与えていいものではない。
量を誤れば、今回のように人為的に陣痛を促し、早産の原因にもなり得る。
「あのあと、桂花糕は回収し、調べも終えております。娘娘の仰る通り、桂皮末が検出されました。皇帝陛下にはご報告しておりませんが、報告書は纏めております」
「……すぐに……その報告書を持って来て、皇上をお呼びして。あの女もよ。今度こそ、言い逃れさせない……!」
「恐れながら、娘娘。すでに処罰は終わっております」
「えっ?」
瞬いたイェンの目から、細かな雫が飛び散る。
「どういう意味?」
「それが……奉聖夫人が自ら調べに乗り出し、皇后娘娘に害となるものを与えた、尚食局の女史に制裁を加えたと報告致しました」
尚食局、とは、皇宮内の飲食物や薬など、高貴な者の口に入るものを管理する部署である。
「……制裁を加えた、ですって……?」
「はい。その女史はすでに殺されたそうです」
「そんなっ……!」
「加えて、その功で、陛下に報償を頂いたと」
「そんな、馬鹿なっ……! みすみす口封じを許すなんて!」
沸いた怒りに突き動かされるように、イェンは身体を起こそうとした。が、すぐに枕に突っ伏してしまう。
「娘娘、どうか落ち着いて下さいませ」
「落ち着いていられないわ! 皇上を……皇上をお呼びして! 早く! 今すぐによ!!」
取り乱すイェンの姿に動揺したのか、新入りの女史が慌てて駆け出し、続けて中堅級の女史もあとを追った。
幸か不幸か、途中で行き会ったらしく、女史たちは一刻〔約十五分〕も経たずにイェンの寝室へ皇帝を伴って戻って来た。
「どうしたのだ。皇后が興奮していると言うから、慌てて飛んで来た」
「ああ、皇上……皇上」
チェソンに支えられて、辛うじて上体を起こしていたイェンは、皇帝が伸ばした手に、自分のそれを伸ばし返す。
皇帝にイェンを預けるようにして、チェソンはその場から一歩下がった。
「皇上、お願いでございます。どうか……どうか、奉聖夫人を罰して下さいませ」
「皇后」
「黒幕はあの者です。今一度、きちんとお調べになり、我が子の、慈燃の仇を討って下さいませ」
産まれてすぐ、『ツーラン』と名付けられた第一皇子には、諡はまだない。
皇帝は、宥めるように眉尻を下げて、イェンを優しく抱き締めた。
「何故、まだそのような誤解をしておるのだ。乳母は、我が母も同然だ。つまり、先日不幸にも亡くなったツーランは、乳母にとっては孫も同然。孫を害する祖母がどこにいよう。祖母自らが仇を討ったのだから、この件は終わったのだ。安心せよ」
「皇上!」
「皇后が、母として自ら仇を討ちたかった気持ちも分からぬではないが、そのように言って、折角我が子の仇を討ってくれた乳母を疑うようなことはせぬように」
「そんな、違います。あの女は、毒婦です。皇上こそ、騙されておられます。どうか、今一度お調べ直しを……」
「この件は終わった。次に朕と会う時にその話をすれば、いくら皇后でも、ただでは済まさぬぞ」
よいな、と念を押し、皇帝は立ち上がった。縋り付くように見上げるイェンの肩を、ポンポンと優しく叩くと、チェソンに「皇后を頼むぞ」と言い置いて、その場をあとにした。
***
「このあと、起き上がれるまでに回復された皇后娘娘は、もう陛下に対して、理解して頂こうとする努力をやめると宣言なさいました。そして、独自の調査を、わたくしにご命じになられたのです」
そう言って、話を結んだらしいチェソンは、一度呼吸を置くように口を閉じ、先を続けた。
「その調査の最中ですので、前々から決まっていたこととは言え、この里下がりも皇后娘娘には随分渋られました。大君様をお迎えする今日を含めて三日、何とかお暇を頂きましたので、明明後日には皇宮へ戻らねばなりません」
「分かった。その時、俺らも一緒に戻るよ」
即座に言ったシアに、弾かれたように顔を上げたチェソンの表情は、明らかに狼狽を示している。
「なりません、大君様。わたくしは一人で里下がりして参りましたし、今準備できている偽造身分証を持ってしても、大君様が皇宮へ入る名目がございません」
「女官志望とかにできないか?」
瞬時、考える顔をしたチェソンは、「難しいです」と答えた。
「大明帝国と朝鮮では、後宮の仕組みが違います。明国皇室の習いとして、十代半ばで後宮入りするということは、先例がございません」
つまり、やろうとすれば、必要以上に人目を引くだろう。
「なら、ムスリみたいなのは?」
朝鮮でなら、水賜とも呼ばれる底辺の下働きは、常に募集している。シレッと潜り込むだけなら簡単だが、チェソンはそれにも難色を示した。
「……辛うじて、罪人の家族が後宮の下働きとして入ることはございますが……」
罪人の家族、という戸籍を捏ち上げるのは、密告社会の明国では難しくなさそうだが、敵が多いことを自覚しているランユーは、その辺りも抜け目なく、確認を怠らないらしい。
皇帝の寵愛だけを盾に、後宮に君臨しているのかと思いきや、意外に頭が切れる女のようだ。
「それに、先刻も申し上げましたが、府夫人様が身の安全を確保なさる為にお望みの、皇帝陛下と臣下の同席の場を用意することが、まず簡単ではございません。どうなさるおつもりです」
「……そうだな。できれば、俺一人だけ潜り込みたいトコだけど、それはフェイが嫌だろ?」
フェイジェンのほうを、探るように見ながら訊くと、彼女は予想通り、分かり易く頬を膨らませた。
「当たり前でしょ。だったら、あたし一人で乗り込んだほうがマシよ」
「それは俺が嫌だ。って感じで、どっちか一人が乗り込む案は、平行線だからナシだろ。皇宮に入ったら一気に片付けたいトコだけど、それも無理そうだし……だから、まずは何とかして、皇后娘娘に取り入る。それには、ランユーの犯罪を明らかにするのが、手っ取り早そうだ」
「ですが、それにしてもどうやって……」
「調査自体は、一応済んでるんじゃねぇのか? 証拠がないだけで」
チェソンに目を向けると、チェソンは眉根を微かに寄せ、唇を引き結んだ。が、すぐに吐息と共に口を開く。
「……いえ。実は、証拠もございます」
チェソンの答えを聞いて、シアたちは目を剥いた。
「何?」
「それ、本当!?」
シアが眉根を寄せ、フェイジェンが身を乗り出す。
「はい。あとは、どう抜き打ちでクァ・ランユーを処罰できるように持って行くかと、大君様方の皇宮への潜入手段です」
©神蔵 眞吹2026.




