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第五章 出立への策

 シベクからミョンギル経由で綾陽君《ヌンヤングン》――現国王にシアの『発案』が届いたのは、翌日になってからだったらしい。

 王主催の宴が王宮で催されたのは、数日後のことだ。

 錦衣衛《ジンイーウェイ》が、いつ、どこからこちらを見ているか分からない為、シアもフェイジェンも、念入りに変装して、月影楼《ウォリョンル》を出た。シアは筆頭妓生(キセン)のような派手な装いで馬に跨がり、戦帽《チョンモ》と、垂れ下がった薄布《ノウル》で顔を隠した。

 他方、フェイジェンは妓生に付き従う妓夫《キブ》の出で立ちで、月影楼から妓生房《キセンバン》へ移動する行列に加わり、王宮へと入った。

 招待を受けていた貞淑《チョンスク》姉と貞正《チョンジョン》姉に軽く挨拶し、実際に策を話し合う為に王に会ったのは、翌日の夜になってからだ。

 ミョンギルを先導に、簡素な女装姿で王の居所を訪ねたシアが、王と顔を合わせたのは実に二月《ふたつき》振りのことだった。


「――久し振り。相変わらず綺麗だねぇ」

 開口一番、厭味なのか本気なのか分からない挨拶を喰らわされ、シアはヒクリと頬を引き攣《つ》らせた。

 変装の為に、久方振りに黒く染めた髪は、一纏めの三つ編みにした髪をうなじの辺りで結い上げ、そこへ簪を挿す、髷髪《チョクモリ》という髪型に結ってあった。貞淑姉から借りた、藤色の上衣《チョゴリ》と、上衣より薄い藤色のチマという上下を身に着けたシアは、外見だけならどこからどう見ても、両班《ヤンバン》宅の奥方だ。

「……それ、いい加減十代半ば過ぎた男に言うことじゃねぇだろ」

 しっかり人払いされているのは承知だったので、シアは勧められるより先に、王の対面へ遠慮なく腰を下ろす。

「だーって、どう見ても、どっかの両班の奥方か、引退妓生で行首《ヘンス》やってるご婦人じゃん」

「妓生が引退すんのは、五十過ぎてからだろ。俺はまだ十七だし、……つか、容姿に関して人が自覚してること、それ以上言うと、ぶっ飛ばすぞ」

「やだなぁ、褒めてるのに」

「褒めてねぇだろ! 大体、『話があるから会ってくれ』っつったら、『バレねぇ変装して来い』って返事したの、そっちじゃねぇかよ!」

 早々(そうそう)にぶち切れて綾陽君を睨《ね》め上げるが、綾陽君のほうはビクともしない。

「僕は『バレない変装』って言っただけで、『女装して来い』とは一言も言ってないよね?」

「そこまでにして頂けますか」

 早くも本筋からズレ始めた二人の言い合いを、ミョンギルの淡々とした声音が制止する。

「あまり久方振りの会話と洒落《しゃれ》込む時間はありません。要件だけ、手短に」

 唇を噛み締め、チラリとミョンギルのほうを睨《ね》め付けるように見てしまう。が、何か言い返すことはせずに、シアは綾陽君へ視線を戻した。

「そう言えば、ミョンギルさんとも課題があったよね?」

 その時にはもう、綾陽君の顔からも、からかい混じりの笑いは消えている。

「課題?」

「そう。でも、先に君の要件を訊くよ。まあ、何に関することかは察しが付くけど」

「なら、話は早いな」

 シアも、先刻までの戯《たわむ》れによる余韻を表情から削《そ》ぎ落とし、居住まいを正す。

「単刀直入に言う。大君《テグン》の地位を、俺に返してくれ」

 途端、綾陽君は眉根にしわを寄せた。

「……どういう意味? やっぱり、今更王位が欲しくなったの?」

 問われて、シアは呆れたように目を細めてしまう。

「……何《なーん》で『大君位を返せ』っつっただけで『王位が欲しい』になるんだよ。耳と脳、大丈夫か?」

「だって、大君位なんか返したら、明国にどう説明するのさ。王位継承順位として、先々代殿下の嫡男が生きてれば、そっちに譲るのが正論だってことくらい、僕だって分かってる。だからこそ、反正《パンジョン》前、僕的には君を殺すしか道がないと思ってたんだからね」

「威張って言うことかよ。じゃ、言い直す。大明帝国の公主《ゴンジュ》殿下《ディェンシャ》を妻にもらい受けるのに相応《ふさわ》しけりゃ、別に永昌《ヨンチャン》大君……俺自身《イ・ウィ》として生き返ることには拘《こだわ》らねぇ。できるだけ高い王族の身分があれば、それでいい」

 瞬《またた》き一つののちには、綾陽君の表情から、疑惑のそれは消えた。

「……つまり、公主サマも公式に(・・・)生き返ることに方針転換したってこと?」

「アイツはまだ、明確なことは何も言ってねぇ。ただ、考えてるとは思うぜ。明国の実質皇帝を殺さずに、自分も死なずに済む方法はな」

 はっきり話してくれないのが、心底もどかしい。

 けれど、立場が逆なら、彼女が徹底した協力を明言してくれていても尚、躊躇《ためら》うだろうとも思えるから責めることもできない。それこそ、今のシアにできることと言えば、せめて彼女への偽りない愛をあらゆる方法で伝えることだけだ。

 こんなに愛しているのだから、迷いなく信じてくれと。絶対にこの手を放さないと――だが、フェイジェンからすれば、信じてないわけではないことも、立場を逆にすれば手に取るように分かる。

 自分が彼女の立場であれば、愛する相手をできるだけ危険に巻き込まず、事態を収拾するには何が最善か、その考えが行き着く先も分かる気がした。それが相手の故国を少なからず巻き込む手段であったら、ギリギリまで迷い、考え付いていたとしても相手に打ち明けられないだろう。

「……だけど、もしそれ(・・)が可能なら、それ(・・)を実行することで、暗殺なんていう過激な最終手段が回避できるとしたら、アイツがそれを選ばざるを得ないってトコも分かってる。だから、俺も前以《まえもっ》て、あんたの承諾を取っとこうと思っただけだ」

「僕の承諾?」

「ああ。あんたの承諾と……覚悟」

「覚悟って……まさか、明国と戦《いくさ》にでもするつもり?」

「戦《それ》を避ける為の覚悟だよ。俺が王族としてアイツと公式に結ばれたら、国にどういう影響があるかくらい、あんただって分かってるだろ」

 彼女と結ばれた最初の夜、彼女を抱いた結果として起き得ることで、シアが最も恐れていたのが、このことだった。きっと、彼女もそうだと思う。

 ただでさえ、実質的に主従関係にある国同士の王子と皇女が結ばれるということは、必ずしも慶事では括れない。

 仮令《たとえ》、本人同士が愛し合って結ばれたのだとしても、互いの国の民にとっては違うことにもなる。特に、朝鮮にとっては――。

「……そうだね」

 吐息混じりに言って、綾陽君は顔を上げた。

「明国の中の誰か……特に、高位にある人間を手に掛けて解決ってのは、僕としても一番避けて欲しい事態だ。それならまだ、君を公式に生き返らせて、こっちから公主殿下をもらい受けたいって申し出るほうが、遥かにマシだと思うよ」

 シアは、表情を動かさずに綾陽君を見つめ返す。分かってくれた、と喜ぶのが早いのは、これまでの経験則で知っている。

「……分かった。じゃ、僕からの代替え案を出すよ」

 少しの沈黙を挟んで口を開《ひら》いた綾陽君は、ミョンギルのほうへもチラと視線を向け、シアにまた目を戻す。

「今から言うことは、ミョンギルさんにも僕からの答えになると思う」

 ミョンギルに向けた、綾陽君の答え――先日、ミョンギルから聞いた、彼ら二人の間で成《な》された、話し合いの結論のことだ。シアも、無意識に自分の背後に座るミョンギルに投げた視線を、綾陽君に向け直す。

「ウィを、王族に戻すのは構わない。だから、もう一つ、王族の系譜に偽《にせ》の戸籍を捏《でっ》ち上げることにした。ウィが、今日みたいな話を持ち出すのを見越して、実はキョンジンおじ上に頼んで、もう準備を始めてる。もう少し待ってくれれば、使える状態にできるのは、そう先じゃないよ」

「ホントに?」

「うん。だから君は君で、事態を打開する為の準備を進めてくれていい。どうせ、明に行く腹積もりなんでしょ?」

 言いつつ、綾陽君はまた、ミョンギルに目を向ける。それに釣られるように、今度はシアも顔ごとミョンギルを見ると、彼は渋い顔をして、シアを見つめ返していた。

「……大君様。無駄とは思いますが、一応申し上げます。どうか、大君様、府夫人《プブイン》様御自(おんみずか)らの明国行きは、今しばらくお待ち下さいませんか」

「それでフェイの絶対の安全が保証されるなら、いくらでも待つぜ?」

 だが、今でさえ、事態は逼迫している。

 錦衣衛が襲撃して来ないのが、いっそ不思議なくらいだ。攻撃して来ない、それすなわち安心、という状況ではなく、寧ろ空気がヒリついている気がする。

 緊張が膨れ上がった空気が、いつ破裂してもおかしくない。

 そしてそれは、この件に関係している誰もが感じ、承知していることだ。もちろん、ミョンギルも例外ではない。

 やはり、言うだけ徒労だった、という空気を載せ、彼が無言で溜息を吐《つ》く。

「……分かりました。では、早急に万全の準備を整えます。つきましては、殿下」

「ん?」

「公式に、明国へ行く沙汰をお下し下さいますか」

「いや。ミョンギルはただでも忙しいだろ」

 シアは、身体ごとミョンギルに向き直って続けた。

「今回は、シベクに手を借りようと思う。アイツなら、公式に官職に就いてねぇからな。本人とも話は付いてる」

「シベクに、ですか」

「うん」

 頷いて、シアは綾陽君も視界に入るように、また身体の向きを変える。

「兄上」

「何?」

「その捏ち上げの戸籍、半月後までに完成できるか」

「半月後?」

「ああ。俺とフェイは、明日にも貞淑姉上に付いて、シン家に入る。姉上の侍女の体《てい》でな」

「それと、半月後って期日と、どう関わるの?」

「半月は、都《みやこ》内でウロウロする。姉上に付いて、わざと外出したりとかな」

「錦衣衛の目を誤魔化す策ですね」

 口を挟んだミョンギルに小さく頷いて、綾陽君に目を戻す。

「そのあと、安山《アンサン》に行って、貞正姉上の世話になる。そこから北へ上《のぼ》って、そのまま明へ入る予定だから……」

「それ、シベクさんもくっついて行くの?」

「いや。シベクは別行動だ。明に入る直前に合流できるように、手筈は整えてある」

「分かった。安山に発《た》つ前までには間に合わせるよ」


***


 貞淑姉の侍女としてシン家に入ったシアとフェイジェンは、予定通り、半月ほど経ったあとで貞淑姉と共に貞正姉の寺院へ向かった。

 貞正姉も、錦衣衛に襲われた際は連名で苦情を申し立てたので、彼らも貞正姉を見張りはしても、直接手を出してくるのは慎重になるはずだ。

 その数日後、貞正姉の寺院にいた尼僧が二人、シアとフェイジェンの振りをして貞淑姉と共に寺院を出た。

 頃合いを見計らい、貞正姉は、寺院間交流の名目で、国境を目指して尼僧を数人引き連れ、寺院を出た。その中には、シアとフェイジェンも混ざっていた。

 その間に、貞淑姉の侍女として寺院を出た尼僧たちも、密かにシン家を出て、北へ向かう手筈になっていた。貞正姉は、国境付近で寺院へ引き返す為、シアとフェイジェンの分の人数が足りないと、錦衣衛に怪しまれるからだ。

 同時期に、明国商団と取引を日常的に行《おこな》っていた商団を装ったシベクが、商団として不自然でない人数の影契を引き連れ、別経路で北上した。このシベク率いる商団と合流したシアとフェイジェンは、商団員として何とか国境を越えた。


***


「――恐れ入ります。永昌《ヨンチャン》大君《テグン》様、府夫人《プブイン》・懐淑《ファイシュ》公主《ゴンジュ》殿下《ディェンシャ》には初めて御意を得ます。わたくし、オ・チェソン、ここ大明帝国での名をウー・ツァィシンと申します。お二方のご到着を、お待ち申し上げておりました」

 明国の都・北京《ペイジン》の外れにある屋敷で、そこの女主人であるチェソンに挨拶を受けたのは、朝鮮の都・漢城《ハンソン》を発ってから、実に二月《ふたつき》ののちのことだった。

 朝鮮式の大礼で頭を下げたチェソンは、立ち上がると、ここまで一緒に来ていたシベクにも目を向ける。

 チェソンは見た目、四十前後の、平均的な顔立ちの女性だ。

「トンシ様……いえ、延陽君《ヨンヤングン》様も、遠路はるばるお疲れ様でございました」

 延陽君とは、先の反正《パンジョン》の報償として、シベクが賜った君号である。通常、君号と言えば、側室の産んだ王子に与えられるのが一般的だが、ほかにもこうして、ある事柄に関する報償として下賜されることもある。

「無事にお二人をここまでお連れ下さり、感謝申し上げます」

 チェソンの挨拶を受け、シベクも鷹揚に頷いた。

「ああ。そなたも、任務ご苦労。今回は、無理を言ってすまない」

「滅相もない。こういう時の為の、潜入任務でございますれば、今後もご遠慮なく」

「……完っ全な私事(俺らごと)で、当たり前みたいに『任務』として仕事こなしてくれちゃうのも、気が引けまくるなんてもんじゃねぇけど……」

 思わずボソリと呟いて、隣にいたフェイジェンに目を向ける。

「……本当よね……」

 と答えた彼女も、居心地が悪いと言わんばかりに、目を泳がせていた。

「どうかお気遣いなく」

 こちらのヒソヒソ話を耳聡く聞き付けたのか、チェソンがまた、キビキビと会釈する。

「チェ提調《チェジョ》様より、お話は伺っております。今後も、我ら影契《ヨンギェ》の主《あるじ》は大君様と考えるようにとの命《めい》を承っておりますれば、どうぞご遠慮なく」

「……あー……まあ、今はお言葉に甘えるよ。正直、二進《にっち》も三進《さっち》も行かなくなってんのは事実だから」

 近くにあった広机に手を突いたシアは、そうするともなく側頭部を掻いた。

 正直、シベクの助けがあっても、ここまで錦衣衛の襲撃を受けずに来られたのが、奇跡に近いと思っている。

 出立前に、漢城であちこち移動しまくったのが、どうやら奏功したらしい。あの動きのお陰で、恐らく錦衣衛のほうでも、標的を見失ったのだろう。

「それでは、早速ですが、本題に入らせて頂きます」

 チェソンは、挨拶が一段落したと見たのか、二通の書翰らしきものを取り出した。

「ひとまず、チェ提調様よりのご指示により、こちらをご用意しておきましたので、ご確認下さいませ」

 差し出されるまま、シアは内一通を受け取り、中身を開《ひら》く。

 中に記されていたのは、まったく縁もゆかりもない男女の名――恐らく『両親』だ――と、その子どもと思われる者の名だ。もちろん、明国の名である。

 影契の彼女がやることだから、恐らく裏をほじくり回されても、ボロが出ないくらいの完成度なのだろう。そう思いつつ、隣に目をやると、フェイジェンは、書翰を開《ひら》くこともなく、ただジッと手にした書翰を見つめていた。

「……フェイ?」

 呼び掛けても、彼女はしばらく答えなかった。

 眉根を寄せるギリギリのところまで顰《ひそ》め、唇を噛み締めている。そんな表情は、明国までの旅の間《あいだ》にも、時折目にしていた。

 何か思う所があるのだろうが、いくら夫婦だからとて、相手が言い出さないことを無理に聞き出す権利はない。どうかするとすぐ、『何を悩んでいるんだ?』と訊きそうになるのを、シアはこのふた月の間、それこそ数え切れないほど呑み込んで来た。

「……恐れ入ります。府夫人様。何か、書類に不備でも?」

 フェイジェンの行動を待ち兼ねたように、口を切ったのはチェソンだ。

 いいえ、と小さく答えたフェイジェンは、尚も沈黙を挟んだのち、静かに広机に書翰を置いた。

「……ごめんなさい。こういう文書を偽造するのが、どれくらい手間の掛かることか、あたしは痛いほど知ってる。だけど、今回これを使う機会はないわ。本当に申し訳ないけど」

「どういうことだ?」

 問い掛けたのは、シアだ。

「……シアも……ごめん。ずっと考えてて……言わなかったことがある」

 シアのほうを向かないまま、俯いたフェイジェンは、再び眉根を寄せ、唇を噛み締めた。きちんと造られた偽の書類を前にして、やっと言わなくてはならないと決意したものの、まだ口の外には出し兼ねると言ったところだろう。

 シアは、腹を立てるでもなく、表情を変えることもせず、そっと彼女の手を取った。途端、ハッとしたようにフェイジェンがこちらに目を向ける。

 その動きの流れで、彼女は身体を後ろへ退《ひ》き掛けるが、シアは手を放さなかった。

「……大丈夫だから。話してみろよ」

 彼女の唇が微かに震える。尚も躊躇うようにまた俯いて唇を引き結ぶ彼女に、シアは穏やかな動きで肉薄した。

「代わりに言おうか?」

「シア、」

「どうせ、朝廷にはもう、生存がバレてる。だったら、堂々とジュ・フェイジェンとして、皇宮の、朝議の場に乗り込む。重臣と皇帝が一堂に会してるところで、ウェイの罪を暴露してやれば、これ以上のことは起きようがない。こんなトコか?」

 シアが言う内に、小刻みに震え出した彼女は、小さく、何度も首を振って俯く。逃げ出しそうになる彼女の身体を、シアは包《くる》み込むように抱き締めた。

「シア、……ッ……」

 何でそれを、とか、どうして分かったの、という台詞が、彼女の脳内を回っているのは、手に取るように分かる。

「……立場逆にしたら、簡単に想像付くからな。俺がお前の立場なら……今俺が言ったようにすれば、命懸けの追っ掛けっこにもやっと片が付く。その代わり、お前と別れないといけないかも知れないし、お前の国も大なり小なり巻き込むことになるかも知れねぇ。けど、この追走劇に決着《ケリ》付けねぇ限り、お前の命にも関わる。……どっちに転んでも、損害は出るからな。それも、あんまり小さくない損害が」

「ごめ、」

 ごめん、と言い掛ける彼女の唇を、素早く自分のそれで塞いで遮る。

「……それでも、俺ならお前の命と、身の安全を最優先にする。国民にはマジ迷惑掛けるから、本気で最終手段だけど、……これから明国の無理難題と、後金《フグム》の間《あいだ》で綱渡りするのはファベク兄上だから、正直知ったこっちゃねぇしな」

 フェイジェンは、瞬時キョトンと目を瞠《みは》り、やがてユルユルと苦笑した。

「……本当に、いいの?」

「……二つ返事で『御意《いい》』とは、正直言い兼ねますがね」

 シアが口を開《ひら》くより早く、横合いからシベクの声が割り込む。

「悪い」

 シアは、シベクに顔だけ向けて、肩を竦めた。

「『悪い』で済むとお思いですか。大君様と府夫人様は、早晩倭国(ウェグク)へでも渡られるのでしょうから、今後の朝鮮(我が国)の状況など、本気で知ったこっちゃないでしょうけど」

 見たことのない渋面で、シベクは腕組みして、シアを半ば睨み据えている。だが、シアはシベクを、無表情に見つめ返した。

「本当に悪いとは思うけど、俺も撤回しないぜ。手ぇ引きたかったら、いつでも引いていい。言う通り、今後困った状況になった朝鮮(国)に残されるあんたに、その原因を作った俺たちに、今後も気持ちよく仕えろなんて、それこそ自己中もいいトコだしな」

 すると、何を思っていたのか、シベクは虚を突かれたような顔をした。次《つ》いで、渋面に苦笑が混ざったような表情になる。

「……まったく……それ(・・)、意識してやっておられるのですか?」

「それって?」

「あなた様がそんな方だから、影契(我々)はお側を離れられないのです。無意識でやっておられるなら、誠質(タチ)が悪うございますが」

「……悪い、言ってる意味が本気で分かんねぇ」

「分からぬなら、分からぬままでおいで下さい。それと、先にも申しましたが、少なくともわたくしが離反するご心配は、無用でございますれば」

 シベクは、苦笑を浮かべたまま、胸元へ手を当て一礼した。

「……それ、有り難く受け取っていいのかな」

「構いません。わたくしが好きでやっておりますことゆえ」

「わたくしも、離反は致しませんが」

 下腹部に手を当てたチェソンが、会釈のように顎を引いて続ける。

「ただ……先程大君様が仰《おっしゃ》った、朝議の場に乗り込む件ですが」

「何だよ」

「先にお届けした、わたくしからの報告書にも記載していたと思いますが、もう随分長いこと、皇帝陛下は朝議にはおいでになりません」

「……マジで?」

「はい。ですので、陛下と大臣が一堂に会する場、というのを設《もう》けるのが、そもそも難しいのです」

「じゃ、皇后《ファンホウ》娘娘《ニァンニァン》は?」

 それまで、シアの腕の中に収まっていたフェイジェンが、半ばシアを押し退《の》けるようにしてチェソンに向き直る。

「皇后娘娘に頼んで、どうにかならないかな。例えば、何かの口実で宴の席を設ける、とか」

 すると、チェソンは一層、曇った表情になった。

「……厳しい、か」

 シアが低く断じると、チェソンは「申し訳ございません」と再度頭を下げる。

「今の皇后娘娘に於かれましては、そのようなご気分ではあらせられないかと」

「どういう意味?」

 問うたのは、フェイジェンだ。

「実は……つい先日、皇后娘娘は、ご出産遊ばした御子を、亡くされたばかりなのです」


©神蔵 眞吹2026.

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