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亡霊は、鎮魂歌を唄わない  作者: 神蔵(旧・和倉)眞吹
第七幕 明国、決着(仮)
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第四章 明国の事情

 政治機構が新体制になると、当面忙しいというのは、本当らしい。

 あの聡明にして、記憶力も抜群と言えるミョンギルが、自分の仕込みを失念していたくらいだ。

 そんなわけで、反正パンジョン功臣コンシンとしては、『君』号をもらっただけで、未だに正式な役職に就いていないシベクが、明から送られて来る報告を取り纏めていたらしいが、シベクはシベクで、ミョンギルへの報告の機を伺い、逸し続けていたようだ。

『一日の業務を終えたら、と毎日思い続けていたのですが、疲れているとみると、どうにも言い出し辛くて……』

 というのが、シベクの言い分だ。


「――で、『言い出し辛くて』が果てしなく続いた結果がコレ(・・)かよ」

 当面の居所となっている、影契ヨンギェの拠点の一つ――月影楼ウォリョンルの一室で、シベクが持って来た書類の山を前に、シアは溜息をいた。

「申し訳ございません」

 型通りの詫びを述べたシベクは、浅く下げた頭をすぐに上げる。

「ですが、ミョンギルから連絡をもらってから、内容はざっと纏めましたので、大君テグン様と府夫人プブイン様が、改めてすべてをご覧になる必要はございません」

「そういう訳にもいかないだろ」

 と言いつつ、シアは最初に、シベクが『ざっと纏めた』と告げた報告書を手に取った。


***


「――彩星ツァィシン。ツァィシン?」


 名を呼ばれたツァィシン――こと、ウー・彩星ツァィシン、本名・オ・彩星チェソンは、瞼を上げた。

 この日、とばりで仕切られた皇后ファンホウの部屋の隅で休んでいたツァィシンは、寝台から素早く起き出し、帷を掻き分ける。

 天蓋から降りた、皇后の眠る寝台の帷を、「失礼致します」という一言と共にそっと引きひらくと、この明国の皇后、ヂャン・イェンが、上半身を起こしていた。

 年齢的にはまだ少女――ツァィシンの娘と言っても過言ではない年の少女に見える、この国の母は、黒目がちの瞳でツァィシンを見上げる。

「どうなさいましたか、皇后娘娘(ニァンニァン)〔娘娘=明国後宮で使われる、皇后・側室に対する敬称〕」

 ツァィシンは、薄手の上着を皇后の肩先へ掛けてやりながら、イェンを見下ろした。

「できるだけお休みになりませんと、お腹の御子に毒でございます」

「シッ!」

 イェンは、ツァィシンの声がそれほど大きくなかったにもかかわらず、鋭く制するように、自身の唇へ人差し指を当てた。

「……そのことは、まだ口に出さないで。お願い」

「ご心配なく。わたくし以外に知る者はおりませんので」

 ツァィシンも、専門の医女ウィニョではない。が、それでも皇后の懐妊に気付けたのは、ひとえに故国・朝鮮に於いて、影契としての鍛錬を受けたお陰だ。

 鍛錬の一環として、影契は構成員となると、あらゆることを学ぶ。その中に、医学も含まれており、人にもよるが、医院に配属されれば否応なく、深い所まで学ぶことになる。

 ツァィシンが、故国で医女として働いていたのは、影契の任務で内医院ネイウォンにいた数年間だ。年齢的にも十代半ばから二十代始めに掛けての、知識の吸収が良い頃合いだったことも、利したのだろう。

 今でも脈診くらいはできるし、それで懐妊を判断することも可能だ。

「ただ、皇后娘娘。じきに、四月よつきに入ります。人によってはお腹も目立ってくる頃合いですから、ほかの方(・・・・)の口から漏れるよりは、娘娘から直接、陛下ビーシァに申し上げるほうがよいかと」

「それは分かっている。ただ――」

 イェンは、不安げに眉根を寄せると、目を伏せた。

「……フォン貴人グゥイレン娘娘のことですね」

 殊更声をひそめ、ほとんど断定のように問うと、イェンは眉間のしわを深くする。

 馮貴人、ことフォン・梅馨メイシンは、元々皇帝付きの侍女だった少女が、皇帝の手が付いたことで、末端の側室・貴人として昇格した。

 が、身籠もっていた彼女は、妊娠三ヶ月頃に突然、病に倒れ、息を引き取っていた。それまで、はらの中の子も順調に育ち、彼女自身も特段問題もなく元気だったというのに、だ。

「……ツァィシン」

「はい、娘娘」

「馮貴人のことで、そなたに密かに調査を頼んだわね。あれから、何か分かった?」

 馮貴人が亡くなったのは、一月ひとつきほど前の話だ。元々、今も現役の影契であるツァィシンにとって、それだけあれば、裏側を調べ上げることは容易たやすい。

 それでなくても、今の明国後宮には数人、女官として影契の者がもぐり込んでいる。彼女らとの連携もある為、とっくに調査は終えていた。

「はい、娘娘」

 一礼したツァィシンは、「もしや、今わたくしをお呼びになったのは、そのことで?」と目を伏せたまま訊ねる。

 チラリと目線だけでイェンを見ると、イェンは苦笑を浮かべていた。

「……そうね。昼間だと、周りの目が気になる。今、後宮では、誰を信じてよいか分からないから」

 ツァィシンは、沈黙を返した。

 本来、後宮の頂点であるはずの皇后が、配下をまったく信用できないというのは、異常事態だ。

 それというのも、現皇帝であるジュ・ヨウジャオが即位してから、彼の乳母であり、ウェイ・ジョンシェン太監タイジェンの妻・クァ・藍玉ランユーが、実質的な皇太后ファンタイホウとして、後宮で権力をふるっているからだ。

 聞いた所によると、ランユーは、現皇帝が生まれた万暦ワンリー三十三〔一六〇五〕年、十八で乳母として入宮した。皇帝が即位したのち、奉聖フォンシォン夫人フーレンに封じられ、手厚く遇されている。

 だが、彼女も夫であるジョンシェン同様、自身の権力のみが大事な女だ。

 ツァィシンが、皇后付き女官として配置されてからこちら、懐妊した女官――正式に側室として昇格した以外の者も含む――がすべて不審な死、あるいは流産を遂げていた。

 お陰で、現皇帝が即位してから、三年が過ぎているというのに、皇帝の実子は生きて成長した子がいない。

 つい先頃まで、側室の一人・慧妃フエイフェイファン・シンの娘・淑娥シュァが唯一の皇帝の子であったが、一歳を迎えることなく夭逝した。未だ、遺体は後宮内に安置されており、永寧ヨンニン公主ゴンジュおくりなされたが、埋葬は済んでいない。

 娘を亡くした悲しみも癒えぬまま、慧妃は次の子を身籠もっている。予定日は、イェンの子よりもあとの見通しだが、無事に産めるかは何とも言えない。

 馮貴人の例にも見られるように、今の後宮で、皇帝の子を身籠もった女が出産を無事迎えられるか、産み落としたとしてもその子が無事に育つかは分からないのだ。

 通常なら、自身より先に懐妊した女官への、正室の嫉妬とも取られかねない状況だが、イェンに限ってそれはない。

 彼女が皇后として立后してから三年弱、側に仕えて来たツァィシンから見て、イェンは聡明で、公正な少女だ。

 未だ十六という若さながら、すでに広大な大明帝国に棲む、すべての民の母たる威厳を備えていた。それだけでなく、皇后候補として集められた五千人の少女の中から選び抜かれただけあり、容姿も整っている。

 曲がったことが嫌いな彼女は、早々にウェイ太監と奉聖夫人の専横と、よこしまさを見抜き、彼らを始めとする奸臣を遠ざけるよう、皇帝である夫をいさめて来た。

 これで、夫婦仲が悪ければ、とうにイェンは名目上の皇后に成り果てていただろう。

 しかし、夫婦仲はウェイ夫婦の目論見を外れて極めて良好で、皇帝は見るからに皇后に首ったけだ。

 皇帝は、妻に苦言を呈されるたびに、苦笑して繰り返すだけだった。


『皇后よ。ほかの頼みなら、朕はどんなことでも聞く。だが、あの二人は、朕にとっては両親も同じなのだ。両親を追放するなど、どうしてできよう』

『ですが、皇上ファンシャン〔明国に於ける、皇帝への敬称〕。皇上は、朝議にもお出にならず、あの者に任せきりではありませんか。あの者は、今やみずからを、恐れ多くもこの国の皇帝ファンディーと勘違いしております。奉聖夫人にしても同じく、自分を皇太后と思い込んでいるのですわ。放っておいては、のさばるばかりです。どうか、ご英断を』

『皇后。どうか、そなた自身の両親と思って、二人と上手くやって欲しい。朕にとっては、皇后もウェイ太監も、乳母も大切なのだ。朕は、大切な皆が、仲良くしてくれることを望む』


 ウェイ夫婦に関して、皇帝夫婦の会話は平行線を辿り、噛み合わないまま終える、という場面を、ツァィシンも幾度となく目にしている。

「――ツァィシン?」

 しばし、思考に沈んでいたツァィシンは、イェンに呼ばれて我に返った。

「……申し訳ございません、娘娘。ご報告致します」

 ツァィシンは、今一度一礼して、口をひらく。

「あくまでわたくしの調べに拠るものですが……やはり、馮貴人娘娘の死は、客氏の手に拠るものである確率が高そうです」

 イェンは一瞬目を見開き、「それは確か?」と静かに確認した。

「はい、娘娘。馮貴人娘娘の件だけでなく、これまでに頓死した女官、流産した側室に関しても、客氏、あるいはウェイ太監との両人の関与が疑われます。また、公主殿下(ディェンシャ)の頓死の件も、不審な点が」

「証拠は?」

「女官や側室の死、あるいは流産に関しては、有力な証拠はございません。ですが、永寧公主殿下のご逝去に関しては、状況証拠がございます」

「本当?」

「はい。それまで慧妃娘娘、及び公主殿下の御医ユーイー〔各皇族の主治医担当官〕だった者が、殿下の死後、不自然に消息を絶ったそうです。その御医が、客氏付きの女官と親しげに話していた所を見た者もおります。ですが……」

「客氏付きの女官、及び公主付きの御医、目撃者、共々不審死、か?」

「ご明察です」

 イェンは、眉間にしわを寄せ、そっと溜息を吐いた。

「……分かった。今後のことは、追って沙汰する。今日はもう休んでちょうだい」

「娘娘。差し出がましいようですが、御子のことは陛下には……」

「分かってる。必ず申し上げるわ。けど、今は時期尚早よ。せめて客氏だけでも追放に処したあとでないと、安心して申し上げられないし、この子を生きたままこの世に産み落とせる保証もない」

 イェンは、そっと己の腹部に手を当てる。そして、目を上げ、ツァィシンを見た。

「とにかく、せめてあと一月ひとつき、報告を引き延ばす。そのあいだに何とか……せめて出産を終えるまで、客氏を外へ出す口実を得たい。この際、客氏がいずれ戻る前提でも構わぬ。確実に、あの女がいない環境で、まずは出産を終えたいの。慧妃も、同じ気持ちのはずよ」

「娘娘。恐れ入りますが、一つ、確認させて頂きたいことが」

「何?」

「……その……いざとなったら、彼女(・・)ご夫君(・・・)共々……?」

 口にははっきり出さず、ツァィシンは、自分の喉元で指を立てた掌をスッと横へ振る仕草をした。

 イェンは、まばたきした直後、苦笑を浮かべる。

「いざとなったらも何も、本当は今すぐそうしてしまいたいけれど……正当な理由もなくそれをしたら、彼ら(・・)と同じ水準になってしまうでしょう?」

 それだけは御免なの、と付け加えたイェンに、ツァィシンもまた苦笑を返し、一礼して後退した。


***


「――向こうも向こうで、マジ腐ってるな」

 ツァィシン――オ・チェソンからの報告書を纏めたものに目を通したシアは、吐き捨てるように言って、冊子のようになった報告書をほうった。

 パサッという音と共に床へ落ちたそれを、フェイジェンが拾って、シアと同じように中身に目を落とす。

「……この感じだと、上手くやれば、皇后娘娘が味方についてくれる確率が高いわね」

「だな。っても、楽観は禁物だけど」

 フェイジェンとシアのやり取りに、シベクは特に口を挟まなかった。付け加えるべきこともないからだろう。

 シアは、フェイジェンのほうへ向けていた視線を、シベクに向ける。

錦衣衛ジンイーウェイの監視の件はあるけど、これならすぐ明に乗り込んでもよくないか?」

 問われたシベクは、眉根にしわを寄せた。

「……口で言うほど簡単ではありません。大君様も、承知しておられると思いますが」

「分かってるよ。一応纏めるけど、まず、国境越えだろ? その為に、錦衣衛の目ぇ欺いて、なるべく攻撃受けないよーに、受けても退しりぞけて国を出る必要があるってトコだよな」

 はすに見上げるようにしてシベクを見ると、彼は眉間に寄せたしわを深くする。『だから、言うほど簡単じゃないんだよ』と顔全体に書いてある。

「……とにかく、ここでグダグダ言ってても始まらねぇ。今日から動くぞ」

「お待ち下さい、大君様。動くと言っても、どうされるおつもりで?」

「そう言うからには、そっちの意見は纏まってんのか?」

「まずは、ミョンギルが殿下の要請で明国へ潜入しますから、ミョンギルの戻りをお待ち頂けませんか」

「それを待てねぇから、この報告書、出してもらったんだろ。これ、ちなみにいつ頃の話だよ」

「……そうですね……最新の報告があったのは、一月ひとつきほど前ですが」

「だったら、言うほど変わらねぇぞ。仮に、ミョンギルが行って帰るの待ったとしたら、最短でも三月みつきだろ。この報告書と現時点の時間差より状況悪いじゃん」

 珍しく口籠もったシベクだったが、すぐにまた口をひらいた。

「では、具体的におっしゃって下さい。ここからどうなさるおつもりですか?」

(……何かコイツ、切り返しがミョンギルに似て来やがったな)

 厳密には、シベクのほうがミョンギルより五歳ほど上だが、とにかく友人として付き合っていると、血が繋がっていなくても似て来るのかも知れない。と言ったことを脳裏に巡らせながら、シアは思わず胡乱げに細めた目で、シベクを見た。

「そうだな。近々、宴の予定でもあると動けるんだけど」

「宴、ですか?」

 思わぬ角度からの発言だったからか、シベクの目がキョトンと丸くなる。

「そ。王宮での宴。王族もなるべくかたよりなく招かれてると、すっげぇ助かるかも」

「王族の方が、偏りなく、ですか?」

「ああ」

 何か問題でも? という含みと共にシベクに目を向ける。

 明国へ行く件で渋面だったシベクの顔が、今度は別の意味でしかめられたように見えたからだ。

「……お言葉ですが、大君様。王族の方を偏りなく、となると当然、仁城君インソングン様や慶平君キョンピョングン様もおいでになられる可能性はご承知で?」

 仁城君や慶平君の名を出され、シアもさすがに眉根を寄せる。

 慶平君は、そもそも反正パンジョンに絡むような罪状がなく、仁城君はシアやシアの母と貞明チョンミョン姉、キム家一族を無実の罪に陥れた件があったが、二人とも王籍剥奪とまでは行かなかった。

「……あの馬鹿兄二人だったら、それでも謹慎中だ。まさか、謹慎中の人間まで宴には呼ばねぇだろ」

「ほかの王族の方々とは、顔を合わせても宜しいので?」

貞淑チョンスク姉上と貞正チョンジョン姉上に話通しといてもらや、あとはバレるよーなヘマはしねぇよ」

 シアは、ニヤリと不敵に唇の端を吊り上げる。しかし、シベクは益々分からないとばかり、今度は首を傾げた。

「貞淑翁主(オンジュ)慈駕チャガと貞正翁主慈駕に、ですか?」

「ああ」

「一体、何をお考えです」

「もちろん、まずは錦衣衛に見付からないように、都から離れる策さ」


©神蔵 眞吹2026.

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