↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
亡霊は、鎮魂歌を唄わない  作者: 神蔵(旧・和倉)眞吹
第七幕 明国、決着(仮)
57/58

第三章 暗殺計画~ディスカッション~

 ウェイ・ジョンシェンの暗殺。実行するに当たって考えれば、問題は山積みと言ってよかった。

 まず、明国への密入国。そこまでに、錦衣衛ジンイーウェイに見付からない、もしくは彼らの襲撃を受けない保証などないので、それらをくぐること。

 仮に、入国できたとして、首都である北京ベイジンへの移動。更に、皇宮への侵入。

 侵入が叶ったとしても、ウェイ・ジョンシェンその人の普段の居場所も特定しなくてはならない。加えて、こちらが目的を遂げたあとも生き残るつもりなら、生きて皇宮を出る為の経路をいくつか想定しておく必要もある。

 皇宮を出るまでに、何らかの妨害を受けない保証も、もちろんない。

 そもそも、皇宮に入ってから、ウェイ・ジョンシェンを暗殺するまでが長いだろう。手始めは、ウェイ・ジョンシェンの通常の行動を熟知し、どこで仕掛ければ暗殺を成功させられるか、を調べるところからだ。

(……考えるだけで、目眩してくるな)

 自分は、もしかしてとんでもなく厄介な事情を持つ女性に惚れてしまったのではないか。だが、今更理解しても手遅れだ。

 苦笑して、そっと腕の中にいるフェイジェンの頬を撫でる。それに釣られるように、彼女の瞼が気怠げに上がった。

「……シア?」

 どこか甘ったるい声が、普段よりぽってりと紅くなった唇から紡がれる。愛し合ったあとの、甘いものを含んだ瞳が、シアを見上げた。

「何、……考えてたの?」

 問い掛けではあるが、きっとフェイジェンにはバレている。そう思うと、無意識に苦笑が深くなった。

「……何でもねぇよ」

 試しに言ってみたら、即座に「嘘」と返って来る。

「……後悔、してたんでしょ。あたしと……一緒になった、こと」

「それはない」

 今度はこちらが、きっぱりと即答しつつ、彼女の唇を自分のそれで軽く啄んだ。

「じゃ、何考えてたか、言ってよ。……誤魔化さないで」

「……誤魔化してるわけじゃ、ないんだけど」

 苦笑を深くしながら、彼女を抱き締める。

「……色々、やること多いなって、考えてた」

 観念して告げると、一拍のののち、彼女の腕が背中に回る。

「……やっぱり、後悔してるじゃない」

「……何で、やることが多いって言っただけで、後悔してるになるんだよ」

「だって……」

 フェイジェンは、言い淀んだ末に、沈黙してしまった。それに、いささかムッとして、シアは彼女の耳の下へ唇を押し当てる。

 途端、彼女の身体が震えた。が、構うことなく、最近見付けたその弱点に、舌先を這わせる。

「ちょっ……シア、」

「続き、されたくなきゃ、白状しろよ。そっちこそ今、何考えた?」

「だっ、だって……ほかのひとと一緒になってたら、こんな面倒なことしなくて済んだじゃない!」

 慌てたように言われて、シアはピクリと身体を硬直させた。言葉の内容と二重の落胆に、ガックリと脱力してしまう。

 俯いた顔は、自然彼女の胸元へ埋まる。

「えっ、ちょっ……シア?」

 何、どうしたの、という言葉が続くが、「うん、悪い」とモソモソと呟くことしかできない。

「……お前さぁ。俺を何だと思ってるわけ」

「……な、何って……」

「なぁ、フェイ。俺のこと、全然信じてねぇだろ」

「えっ」

 彼女の胸元から、ムクリと顔を上げると、荒々しく彼女の唇を塞ぐ。

 喉の奥から漏れた声に煽られるように、苛立ちのまま彼女の口腔をき回した。

 呼吸の限界まで口づけ、啄むようにして解放すると、まだ愛し合った直後だった所為か、口づけだけで早々(そうそう)に彼女の瞳は潤んでいる。

「……ッ、も、何……」

「……何が、不安?」

 息をはずませながら、シアは彼女の溶けた目を見つめた。

「……えっ……?」

「……心底面倒になった挙げ句に、俺がお前を捨てるんじゃないかって思ってるか? それともいっそ、そうしてくれたほうが、フェイは楽になれるって?」

 フェイジェンの目が見開かれ、身体が今度は怯えたように震える。だが、シアは構わなかった。

「……簡単に女を捨てる男だと思われてるなら、心底心外だ。前にお前が言ったこと、そっくり返すぞ。今更手遅れだよ。もう離れられねぇって知ってるクセに、よくそんな残酷なこと言えるな」

「それ、は」

 彼女の言い分を遮るように、シアは熱を取り戻し始めた身体を、彼女の肢体へ押し付ける。

 フェイジェンは、鋭く甘い悲鳴を上げ、腰を仰け反らせた。

「ッ、シ、ア」

 何とか身をよじろうとする彼女に、シアはクスリと笑いをこぼす。

「これも前に言ったよな。今度、変に謝りやがったら、朝まで寝かせねぇって」

 何をされるか、嫌でも察したのだろう。

 フェイジェンは、赤と青が程よく混ざったような顔になり、腰を引こうとする。けれど、シアは構わず彼女の両手首を片手で纏めるとその頭上へ縫い止め、彼女を見下ろした。

「……悪いけど、今日だけはお前の要望は聞かねぇ。前に警告はしたからな」

「ちょっ、」

 彼女の言い分を遮るように、彼女におおかぶさる。何か言い掛けた彼女の顎先を捕らえ、強引にその唇を塞いだ。


***


「――で、ウィたちはどうするって言ってるの?」


 翌日。

 綾陽君ヌンヤングン――こと、現国王の執務室へ呼び出されたミョンギルは、内心は疲れた渋面ながら、表面上は淡々とした顔で「は」と小さく頭を下げた。

大君テグン様たちのお言葉をそのまま申し上げますと、ウェイ太監タイジェンの暗殺をお考えだと」

「は? 暗殺!?」

 思わず叫んだ王は、慌てて自身の口を手で押さえ、「どういう意味?」と声をひそめてただす。

 ミョンギルは、そもそもフェイジェンを追う相手は、現在明国の実質皇帝とも言っていい、ウェイ・ジョンシェンであること、倭国ウェグクに行き損ねたのも、彼が放った刺客である錦衣衛ジンイーウェイの襲撃で負った傷が元であったことを、い摘まんで説明した。

かかる事情で、府夫人プブイン様……懐淑ファイシュ公主ゴンジュ様としましては、またぞろ出発の日を突き止められては今度こそ殺されてしまうので、攻め手に転ずることを考えておられます。その為には、錦衣衛に指令を下すウェイ太監を殺してしまうのが手っ取り早いと考えておられるようです。それに関して、殿下に助太刀を頼みたいとは申しておられませんが、わたくしの意見を申し上げても?」

「……何」

「万が一、本当に逃亡の途中で公主様が殺されでもした日には、大君様が単身、明国にいくさを仕掛け兼ねませんよ」

 王は、思い切り顔をしかめた末に、「要するに、手ぇ貸せって言ってるよね?」とミョンギルに返した。

「滅相もない。ただ、わたくしはこう思う、と申し上げているだけです」

「ふざけないでよ。こう見えても、僕だってウィとは、それなりに付き合い長いんだ」

 ぶすくれた表情の中にも、王のそれは真剣だった。

「そりゃ、あの子が七歳で江華島カンファドに流されて、十六で再会するまで会ってなかったけど、性分しょうぶんは分かってるつもりだよ。大切に思う相手の為なら、国と心中することだって決め兼ねない子だってことくらい、君に言われなくても知ってる」

 頬杖を突いた王は、ジロリとミョンギルを見上げて続ける。

「……で? 僕に都合して欲しいのは、明国への入国の手段? それとも、公主サマの生存申請した上で、ウィとの結婚を申し入れること?」

 ミョンギルは、目を丸くしたのち、その目をスッと細めて王を見つめ返した。

「お言葉ですが、公主様の生存は、すでに本物の皇帝陛下のお耳にも入っております。陛下が錦衣衛を使っての襲撃……もとい、捜索をお許しになったということは、恐らく朝廷でも懐淑公主様の生存は周知かと。そして、後者に関しては最後の手段だと、殿下もお分かりのはずでは?」

「だよね。仮に、ウィがただの王族だとしても、明国の公主が降嫁するってなったら、朝鮮もそれなりに縛られちゃうもん」

 それを差し引いても、と挟んで、王は一度下げていた目線を、ミョンギルに戻す。

「明国への入国の手段を講じたとして、そのあとどうするつもり? 本格的にその、ウェイって男を殺すつもりなら、もうちょっと明国あっちの状況、見極めてからにして欲しいな。僕個人としては、明国とコトを構えるのは避けたいんだけど」

「心得ております」

 あくまでも穏やかな表情で、ミョンギルは胸元へ手を当て、頭を下げた。

「つきましては、その為にも一度、明国へ渡ることをお許し願いたいのですが」

「君一人で?」

「ごめいとあらば、わたくしと、影契ヨンギェの仲間を数人引き連れて、と思っております。大君様と公主様、お二人を明国へ連れて参るのは、わたくしとしても正直、危険極まりないと考えておりますゆえ」

「……どういう意味」

「ジェン殿の下さった情報にると、どうやら向こうは密告天国らしいのです。ウェイ太監を一言、酒の席の冗談交じりにでも批判しようものなら、たちまち錦衣衛が聞き付け、捕縛に動くとか」

 淡々と告げると、またも王は渋面になった。

「……こわぁ……」

「同感でございます」

「同感でございます、じゃないよ。それで済む事態じゃないと思うけど」

「御意」

 御意、でもないよ、とブツブツこぼしながら、王は視線を泳がせる。

 王も決して、愚かではないし、頭の回転がにぶいほうでもない。

 酒の席の冗談交じりでも錦衣衛が動く、ということは、市街にすでに、錦衣衛の間者の目が光っている、ということにほかならないのを、理解しているのだ。だからこそ、ミョンギルもシアたちを明国の中へ入らせたくない。

 いつ、どんな形でシアたちの素性が漏れるか分からないからだ。

「……ごめん。ウィと懐淑公主サマの件、一時保留にしてもらっていいかな」

「やはり、手を貸しては頂けないと」

「ううん、少し考えたいってこと。手を貸すも貸さないも、まだ何とも言えない。これからウィのやること黙認して、もしずっコケたら、下手するとそれは朝鮮全土に波及するでしょ。その時、ウィたちは最悪、あの世に逃げることができる」

「殿下、それは」

 思わず、といった口調で言ったミョンギルを、王は手を挙げて制した。

「誤解しないで欲しいけど、それは本当に自害しろとか、僕が殺すって意味じゃない。ウィと公主サマの場合、根本的なことを言えば、今の二人の戸籍は偽物。今は誰がどうほじくっても誤魔化せるくらいに仕立ててあるけど、いざとなったら破棄すれば、彼らはこの世にいない人間にすることも可能でしょ。だけど、国王って立場にいる僕はそうはいかない。多かれ少なかれ、朝廷や国に害が及ぶくらいなら、僕も国王としてできるだけの援助はするよ。できれば、国も王室も朝廷も、無傷かそれに近い形でやり過ごせる策を考えたい。ただ、その為の材料が足りな過ぎる」

 チラリと上げられた王の目と、視線が合う。

「……つまり、その為にも明国での実地調査が必要ですね」

「ウェイ太監って人は、役職こそ内官ネグァンだけど、実質的には皇帝に等しいって言ったよね。できれば、彼の周辺とか、人間関係も詳細に調べられれば言うことないけど、さすがに厳しいよね」

「そこまで調べ上げるには、数年はります。そのかん、都とその近郊が絶対に安全と言い切れましょうか」

「そこは僕に保証を求められても、常に最悪の事態を想定して、としか言えないし、何だったら、できるだけ早く二人には国を出てって欲しいかな。もちろん、明国には何の手出しもせずに」

 王の言葉が途切れると同時に、シンッと冷たい沈黙が室内に落ちる。

 だが、やがてその沈黙を破ったのは、ミョンギルのほうだった。

「……分かりました。殿下には知らぬ振りをして頂くか否か、その辺も引っくるめて、わたくしのほうにも少し、考える時間を頂きたく存じます」

了解りょーかい。次に会う時が答え合わせってことだけど、これだけははっきり言っとくよ」

「何でしょうか」

「僕はあくまで、ウィとの以前の情と、僕の国王としての立場とは別に考えてる。いざとなったら、僕は後者として、国の利にかなうと思える策をるよ。それが仮令たとえ、明国の公主サマの降嫁って形を認めて、大なり小なり、朝鮮が明国に縛られちゃうよーな策であってもね」


***


 その夜、ミョンギルからの報告を聞いたシアは、思わず小さく吹き出した。目を丸くしたミョンギルが、「どうかなさいましたか?」と訊ねる。

「……あー、悪い。ただ、何だかんだ言って、ファベク兄上も俺らに味方してくれるつもりなんだって思ったら、何かおかしくって」

「味方……で、ございますか?」

 クックッ、と笑いの残滓を引き摺るシアを前に、首を回し兼ねない角度に捻るミョンギルにもおかしくなる。

「……何だよ。まさか、あんたともあろう男も気付かないわけ?」

「……いえ、その……」

 ミョンギルは、しばし考えるように視線を上へ向けたが、ついに諦めたと言わんばかりの溜息をいた。

「……恐れ入りますが、ご説明頂いても?」

「だって、そうだろ? 『国を利する策』って言いながら、俺らに『別れろ』って言わないところがさ」

 本当に国を利する方策を探るなら、シアたちに『別れろ』と要請するか、さもなければ殺してしまうのが一番手っ取り早い。

 そのどちらもしない辺りが、一時いっときはシアに思い込みで殺意を向けていたとは思えない軟化振りだ。

 しかし、そう告げると、ミョンギルは瞬時、キョトンと目をみはり、次いで呆れたように目を細めた。

「……お言葉ですが、大君様」

「何だよ」

「わたくしから見れば、殿下はどこも変わっておられませんよ」

「どういう意味だ?」

「国を利する、と言えば、単純に国に利益をもたらす、という意味に取れるでしょう。しかし、まず大君様と府夫人様に、離縁なさるよう要求されれば、お二人は即刻駆け落ちでもされ兼ねません。その果てに、最悪、錦衣衛にでも遭遇して、府夫人様だけが亡くなられたら、大君様は明国に殴り込みを掛け兼ねません。それで、大君様お一人が死んで済むなら寧ろ幸いで、場合に拠れば、『朝鮮の人間が明へ殴り込んだ』、すなわち『明との戦を望んでいるのは朝鮮の総意だろう』という言い掛かりのもと、無用な戦が始まり兼ねません。まあ、今の明国の情勢下で、すぐにも明国が朝鮮へ攻め込んで来る恐れは低いですがね。その最悪の事態の想定のもと、殿下は大君様に協力なさろうとお決めになったのかと思います。まあ、苦渋の決断でしょう」

 噛み砕いて説明される内、シア自身も胡乱な目つきになり、黙り込むしかなくなった。この説明を受けると、善意で協力してくれると言われるより、余程納得できるのが何とも皮肉だ。

 前に、綾陽君自身にそう言われた時も、反感よりも安堵を覚えたことを思い出した。

「ところで、府夫人様は、どちらに?」

「……あー……」

 綾陽君とのやり取りに関しては終わった話題と見たミョンギルに水を向けられ、シアは再度、ウロウロと目を泳がせた。

 いくらミョンギルが相手でも、まさか妻に、とこの中で無理をさせ過ぎた挙げ句に寝込ませた、とは言い辛い。

「……フェイに用事なら、纏めて伝えるよ」

 結局、答えにならない答えだけを告げると、ミョンギルは勝手に何か察してくれたらしい。分かりました、とあっさり頷いた。

「では、本題に入らせて頂きますが、大君様はあのあと、何か妙案を思い付かれましたか?」

 直線的な質問に、シアの思考も急に現実へ引き戻される。

 あれから一日近く経とうとしているのに、脳内はまだ彼女との情交の余韻に浸っていたのだと思うと、やや情けない。

 パチン、と平手で自分の頬を軽く叩くと、ミョンギルへ向き直る。

「妙案っていうか……ファベク兄上の言ったこととかぶるけど、現状、明国の情報が少な過ぎる。だから多分、後先考えてない思い付きと大差ないと思うけど、それで良けりゃ、聞くか?」

「お聞かせ下さい」

 淡々と答えるミョンギルは、反正パンジョンの前と変わりない。それに、ある種の安心を覚えつつ、シアは短く息をいて口をひらいた。

「向こうの状況からまずガッツリ探る必要はあると、俺も思う。つまり、明国あっちに行って探るしか方法はないわけだけど……ウェイ・ジョンシェンって、内官なんだよな?」

「左様ですが」

「朝鮮と明国の官吏構成って、厳密に言うと違うと思うけど……朝鮮こっちの内官って、位は尚膳サンソンが一番上だったよな?」

「仰る通りです」

「定員は二人だったっけ」

「はい」

「じゃ、そいつら非番の日は、どう過ごしてるか、知ってるか?」

 ここまでで、徐々に『不可解』という表情になっていくのを隠さなかったミョンギルは、ついに分かり易く首を傾げた。

「……と、仰いますと」

「だからつまり……内侍府ネシブの宿泊所から出て、外出するとか、外泊するとかさ。女官でも、尚宮サングンになると、非番の日は実家に帰るとか、自分で構えた自宅に戻るとかで外出する女官もいるって聞くから」

「ああ、そうですね」

 なるほど、と言うように、ミョンギルが頷く。

「確かに、内官も位が上がれば、王宮外に邸宅を構える者もおりますので、自由に外出もできるようですが」

「あっちの内官の職務内容が同じなら、そういう外出の日を押さえられれば、皇宮の外でれると思ってさ」

 シアの言わんとするところを理解した途端、ミョンギルは眉根を寄せた。

「……まさに言うは易しですね。ご存知の通り、ウェイ太監は実質皇帝です。つまり、陛下と同じ職務をこなしていると思っていい」

「役職は太監でも、休みはねぇ。つまり、皇宮の外にもあまり出ないってことか」

 溜息交じりに言うと、ミョンギルは「御意」と首肯する。

「よしんば、本物の陛下が外出されるとすれば、巡遊目的か、湯治への外出くらいでしょう。それでさえ、幾人もの手練れに守られ、緊急の仕事であれば外出先へも持ち出されます。実質、休養のない職務でございますれば」

「……マジで座らなくてよかった。めっちゃ疲れる上に窮屈すぎるわ、王座」

 肩を竦めて言うと、ミョンギルも苦笑した。

「……となると、やっぱり朝鮮こっちの都でやったようにするのが、一番手っ取り早いと思うんだよな」

「都で……大君様が、ですか?」

 話題を戻すと、ミョンギルが怪訝そうな顔で、また首を傾げる。その目を、はすに見据えるように見ると、シアは薄く笑った。

「ああ。あんたも、嗅ぎ回ったから知ってるだろ? 都に入って、僅か二ヶ月前後で、都中の女を顧客に抱え込んだ、やり手の化粧師」

「まさか」

 言うなり、ミョンギルは目を見開く。そんな彼に、不敵な笑みを深くしながら、シアは「お察しの通りだよ」と挟んで続けた。

「古今東西、妓楼みたいな場所はある。そこに需要がなくても、女がいれば化粧師の需要だってあるはずだ。加えて、身分の高い女は基本的にヒマしてるから、一度警戒心がければ結構喋ってくれる。まあ、それもこっちの聞き出し方に拠るけどな。上手くやれれば、怪しまれずに情報収集するには、化粧師は打って付けの職業ってわけさ」

「……本職の化粧師としての大君様の技量も、情報収集のそれも、わたくしは信用しております。大君様が大君様でなければ、正直影契の戦闘員として欲しい逸材です」

 真面目な表情で評価され、今度はシアが瞬時キョトンと瞠目した。

「……へぇ。そんなふうに思ってくれてたのか。あんたからのその評価は光栄だな」

 クス、と苦笑交じりに言うが、ミョンギルは深刻そうな顔を崩さない。

「ですが、それとこれとは別です。現状、明国は密告天国だと申し上げたでしょう?」

「……何だよ。そんなにヤバいのか」

「酒の席の冗談交じりの批判が、すぐ様錦衣衛に拠る捕縛に繋がる、と申し上げたはずです。まさか、細かい説明が必要ですか?」

 それこそ冗談ではなさそうなミョンギルの顔に、シアも口許へ浮かべた笑みを消した。

「……つまり、日常的に至る所に錦衣衛の間者がいるって状況だよな。てことは、……やっぱり、そうじゃない状況の時と違って、余所者がより目立つってことか?」

 すなわち、余所者ではない程に馴染まないあいだは、情報収集もできない、ということにほかならない。

 その意を汲んだのか、ミョンギルは「ご明察です」と言って軽く顎を引いた。

「わたくしとしては、余程状況が差し迫らない限り、大君様にも府夫人様にも、明国への入国は、お控え頂きたいと、考えております」

「言葉を返すようだけどな。俺らの状況は余程差し迫ってんだよ。それこそあんたに、細かい説明が要るか?」

 珍しく、ミョンギルが唇を噛み締めるようにして押し黙る。だが、あの(・・)ミョンギルを言葉で捩伏ねじふせられたという勝利感などない。

 寧ろ、シアの言葉でミョンギルが押し黙ってしまうほど、まさに状況は切迫しているのだ。

 今は、ミョンギルの見立て通り、錦衣衛も慎重になっている。だが、この膠着状態をいつまでも続けたくないのはお互い様だ。

 フェイジェンが最初に毒矢で殺され掛けてから、すでにふた月。あっちも、仕掛ける隙をジリジリしながら待っているに違いない。

「……どっちにしろ、突破口がなきゃ、作るしかねぇだろ」

「大君様?」

「今の状況、どっちかってと、俺らが膠着状態破るほうが、不利だよな」

 ミョンギルは、一瞬目を見開いたあと、「そうですね」と頷いた。

「多分錦衣衛(あっち)は、俺らがどこにいるかは知ってる。こっちが我慢できなくなって、隠れ場所から出てくのを、手ぐすね引いて待ってるに違いねぇんだ。全方位、四六時中警戒しまくってる俺らのほうが、正直もう疲弊してんだろ。どっちかってと、余裕がねぇのも俺らのほうだ」

 ミョンギルは、今度は沈黙を返した。唇を微かに噛み締めたその表情が、シアの言い分を否定したくともできない、という現状を、如実に語っている。

「でも、こっちが打って出るには、状況が悪過ぎる。せめて、錦衣衛がひそんでる正確な場所を特定できれば、少し違って来るんだけどな」

「もしくは、あちらが毒を使う可能性がゼロに近ければ……ですね」

「……言い直せ。ゼロに等しければ、の間違いだろ」

 立てた膝に頬杖を突いて、ミョンギルをめ上げると、彼は苦笑だけを返した。

「で、あんまり時間を掛けられなきゃ、ぶっつけの出たとこ勝負で行くしかない。ダメ元で訊くけど、あんた、今から皇宮に入り込まずに今の皇宮の詳しい状況、掴む伝手ツテが本当にねぇか?」

 ミョンギルは、数瞬、眉根を寄せていたが、何を思ったか出し抜けに「あ」と声を漏らした。思わずシアは、「あ?」と鸚鵡返オウムがえしのような、それでいてその辺の破落戸ゴロツキが威嚇するような声を出してしまう。

「何だよ、今の『あ』は」

「あ……いえ、その……」

 珍しく言い淀んだミョンギルは、握った拳を口許へ当て、目をウロウロと泳がせている。

 早々(そうそう)に苛立ったシアは、「おい」と言いつつ、ミョンギルが口許へ当てた拳を引き剥がすように、その手首を握って引き寄せた。

「三つ数えるあいだけ。さもないと、その顔の形、変えてやんぜ。いーち、」

「うわ、えっとすみません! そのっ……明国あっちにも影契をもぐり込ませていたのを失念しておりました!」


©神蔵 眞吹2026.

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。