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第十二章 旅立ち

「――ウィ!?」

 頓狂な声を上げた綾陽君《ヌンヤングン》に、シアは「シッ!」と自身の唇に人差し指を当てた。

 その格好は、先刻、取り次ぎの女官が告げた通り、大王《テワン》大妃《テビ》――母の扮装だ。

 よくよく見れば、母でないことはすぐに分かりそうなものだが、今は時刻柄薄暗い。

 更に、王族の顔を直視してはならないという、宮中の規則のお陰で、大王大妃の身に着ける、龍補《ヨンポ》の入った唐衣《タンウィ》と、裾に刺繍の施されたチマ、大王大妃としての髪型・オヨモリに結い上げていれば、俯いて下しか見ていない内官《ネグァン》、及び女官を誤魔化すのは容易《たやす》かった。

 一方、大声を制された綾陽君は、自分で自分の口を押さえながら振り返って、シアと共に来た女官を確認する。

 そちらは、やはり内人《ナイン》の扮装をしたフェイジェンだ。

 大王大妃の供として、内人では不自然なような気もしたが、尚宮《サングン》だと、よくよく顔を確認されたら偽者だとバレ兼ねなかったので、仕方なかった。

「……ひとまず、座れよ。ちゃんと人払いはしたけど、一応声落としてくれると助かる」

 シアは、自分の唇に当てていた人差し指をクイと下へ向けて、綾陽君に座るよう促した。

「……何でここにいるの。明国に行ってたんじゃ?」

「ついこないだ帰って来た。で、帰国するなり、この騒ぎに出会《でくわ》したからな」

「……その騒ぎで、一応王宮、厳重警戒中なんですけど?」

 呆れたように目を細め、どうやって潜《もぐ》り込んだんだと言外に訊く綾陽君に、シアは肩を竦めた。

「正面から堂々とお邪魔したよ。公式には生き返ってないけど、特に慶運宮《キョンウングン》にいる女官とか内官には、公然の秘密ってヤツだからな。『争乱があったって聞いて、飛んで帰った。母上に会いたい』っつったら、簡単に中に入れてくれた」

 唖然と口を開けた綾陽君は、次いで疲れたような溜息を吐《つ》きつつ、ようやく腰を下ろす。

「……で、それは口実?」

「いや? 実際に会っても来たよ。まあ、兄上が仮宮として慶運宮《こっち》使ってるって聞いたからそうしたんだけど……少しあんたにも話があるから、母上の衣服と顔貸して欲しいって頼んだ」

「顔って」

「幸か不幸か、母親似なんだよな、俺。貞明《チョンミョン》姉上もそうだけど、特に俺と姉上とは瓜二つだろ? でもって、元は優秀な化粧師だもんだから、その辺はこう、チョイチョイとね」

 ニヤリと不敵に笑って見せると、綾陽君は、益々呆れたような顔になる。

「……だったら、ランファになりすましたほうが確実だったんじゃ?」

「だーって、王殿下にとっちゃ、叔母である貞明姉上より、祖母である母上のほうが何て言うか、目上度高いだろ? 内官も女官も、母上が来たほうが面倒《めんど》いこと詮索しないと思って」

 言う内に、最大限の呆れを目に滲ませた綾陽君は、ハーッ、と重い溜息を吐《つ》いて問うた。

「……で? どーせ大王大妃様に言えない話なんでしょ?」

「へぇ。意外に察しがいいな」

「ちょっと考えれば分かるよ。だって、大王大妃様に聞かれていい話なら、ご本人のお供として来るはずだもん」

「話が早くて助かる」

 肩先を上下させると、シアは口許から笑みを消し、居住まいを正した。

「早速だけど、単刀直入に言う。クァルと、クァルの息子を見逃して欲しい」

「はい?」

 言うや、綾陽君は、眉根を思い切りひん曲げる。

「……一応訊くけど、反乱の首謀者生かしとけって、正気?」

「この上なくな。今回の騒動は、別に反乱でも何でもねぇ。誤解で逮捕されそうになった息子を助けようとした父親が、ちょこっと抵抗したら勝手に謀反って決め付けられたから、抵抗を続けざるを得なかっただけだ」

「……それ、イ副元帥《プウォンス》の言い分?」

 現状、というか、乱直前には、クァルは国境守備を任務とする臨時職・副元帥と、常設職・兵馬使《ピョンマサ》を兼任していた。

 通常、この国では、複数の役職を兼任している場合、受け持った役職の中で、最も高い品階の役職で呼ぶという暗黙の決まりがある。

「そうだけど、問題ある?」

「大アリでしょ」

「何で」

「だって、重臣たちが、イ副元帥の息子さんのイ・ヂョンに、『謀反の意あり』って判断したから、兵を派遣したら、派手に抵抗されたわけだよね? そもそも、謀反企んでなきゃ、一万二千にもならないでしょ、兵の数。反正《パンジョン》の時だって、それより一万も少なかったんだよ?」

 聞く内に、今度はシアのほうが、呆れた目になった。

「……兄上さぁ。この国の重臣が、妬んでる相手陥れんの茶飯事って認識あんのか?」

「つまり?」

「捏《でっ》ち上げだよ。でなくても、クァルの場合、科挙及第からこっち、ずーっとそんな感じだったわけ。そんでも、光海《クァンヘ》兄上ん時は、王である兄上が庇ってやってたから、なあなあでも捕盗大将《ポドテジャン》だってできてたんだよ。そんでも、光海兄上が王位に就いてた最後のほうは、結局国境に左遷(飛ば)されて、なあなあにいい加減ウンザリしたから、反正軍(俺ら)に靡《なび》いてくれたんだぜ」

「それは、」

「しかも、最初にクァルを誘ったのは、今回クァルが謀反を企んでる! って騒ぎ立てた中にいた、キム・リュだって話じゃねぇか。困った時は擦り寄って、それが解決したら元々目障りだったからって掌返しできる神経、どーなってんだ?」

 冷え切った目で綾陽君を見据え、目以上に温度の低くなった声を投げ出すように言うと、綾陽君は、息を呑んだように唇を引き結んだ。

 そして、一つ深呼吸するように息を吸って吐くと、口を開《ひら》く。

「……つまり……イ副元帥とイ・ヂョンを見逃せって、ウィは具体的に僕にどうして欲しいの?」

「まず、クァルとチョンを捕らえて殺したことにしてくれ。偽の遺体は、こっちで用意する。それから、戸籍を偽造してこの国の中でひっそり暮らせりゃ万々歳だけど、そこまで甘く思ってねぇから、せめて倭国に亡命すんのを見逃して欲しい」

「で、二人は今どこにいるの?」

「悪いけど、俺もまだ、そこまであんたを信用できねぇから言わねぇ。だけど、あんたに牙を剥く気はもうねぇ、ってトコだけは伝えとく」

「もし、牙を剥いたら、ウィが責任取るっての?」

「そっちが変に兵士派遣したりして来なきゃ、こっちだって何もする理由がねぇ。今回の乱の発端は、そこ(・・)だろ」

「そこって?」

「真偽をよく調べもしねぇで、いきなり兵士送ったから、派手に一騒動起きたんじゃねぇかよ。しかも、武術なんて心得もねぇ相手ならともかく、選《よ》りに選《よ》って、あの(・・)イ・グァルに、言い掛かりで兵士差し向けたんだから、一暴れされて当たり前だろ。下手したら、兄上も今頃死んでるぞ。兄上だけならともかく、母上と姉上たち巻き込み掛けたんだから、今後は自重しろよ?」

 斜《はす》に見上げるように睨《ね》め付け、人差し指の先を綾陽君に向けると、綾陽君は少しばつが悪そうな顔で、一瞬目を逸らした。

 が、ややあってから、「分かったよ」と言いながら、降参を示すように両手を挙げる。

「国外逃亡でなら、手を打ってあげる。だからウィも、万が一のことがあったら責任取るって約束して」

「そんな筋の通らねぇことはお断りだね。さっきも言った通り、元々の発端は、そっちの調査不足と決め付け捜査だ。万が一、アイツの気が変わったって、あんたに文句言う権利なんて、ねぇんだぞ。その場合、俺も責任持ってアイツに(・・・・)加担するよ。母上を味方に付けりゃ、刃《やいば》も交えずに政権交代完了するだろうけど、どうする?」

 半ば挑発するように問うと、綾陽君は、眉根をピクリとヒクつかせ、挙げた両手をゆっくりと下ろした。

「……それはやっぱり、君も王位が欲しいって意味?」

「繰り返すようだけど、そんな面倒なモン、法外な金積まれて、『頼むからなってくれ』って泣き付かれてもお断りだね。けど、あんたが筋通らない真似しようってんなら、今すぐ母上んトコに駆け込むぞ。あんたにいじめられた~、ってしおらしく泣き真似でもしながらな」

 綾陽君の眉根が、益々ピクピクと震える。

「そこでブチ切れるよーな器量だから、そもそも些細な抵抗が大規模な反乱になったってトコも、肝に銘じとけよ。今回の件に関しちゃ、俺は一切あんたに何か交換条件的に差し出す必要はねぇと思ってる。俺から見返りがなきゃ、要求に応じるつもりがねぇってことなら早めに言えよ。今更王位に座るなんて、面倒なことはマジで御免だけど、俺は俺の信条を、相手の曲がった理屈の為に曲げる気も更々ねぇんだからな」

 冷ややかに見つめると、綾陽君は、今度は眉尻を震わせながら、何かを堪《こら》えるように目を閉じる。やがて、再度深呼吸すると、ゆっくりと目を上げた。

「……分かったよ。君も一緒に、倭国に行くつもりある?」

「ああ。アイツを送り届ける為に、取り敢えずな」

「そう。だったら、前に倭国に行くことになってた時に用意した方法を使うといい」

「何?」

 今度は、シアのほうが眉根を寄せた。

「どういう意味だよ。前に言ってた、倭国の将軍の代替わりに送る使者の話か?」

「うん」

「まだ行ってなかったのか」

「明国からの王位承認が、まだだからね。ミョンギルさんが、その件で向こうに行ってるのは、知ってる?」

「ああ。会ったからな」

 多くを語らず、シアはチラリと、部屋の隅にお付きの女官宜しく座った、フェイジェンに目を向けた。彼女に関してのあれこれを片付けるのに、ミョンギルにも一役買ってもらったのだ。知らないわけがない。

 シアの視線に気付いたのか、綾陽君も釣られるように目を動かすが、顔ごと彼女のほうへ向くことはせず、シアに視線を戻す。

「そっか。ダメ元で訊くけど、王位承認について、進展あったか、知ってるかな」

「すんなり降りると思うぜ。皇帝直々に、ミョンギルがこっちに帰る時には、勅書くれるって言ってたからな。定遠《チョンウォン》兄上の追尊王としての承認も、その時くれるってよ」

「そう」

 どこか、ホッとしたように頷いた綾陽君は、言葉を継ぐ。

「とにかく、倭国への挨拶は、ミョンギルさんが戻ってからだね。折角、一応僕の異母弟としての戸籍用意したから、正式な通信使として……僕の弟として、通信使に混ざる?」

 一見、これ以上ない条件に思えたが、シアは「いんや」と首を横へ振った。

「フェイのことも、明国内の一部の人間の中で収めてもらうことはできたから、今後は一般人の戸籍で生きてくよ。あんたが(・・・・)、おかしな(・・・・)ことさえ(・・・・)やらかさなきゃな(・・・・・・・・)」

 釘を刺すように強調すると、綾陽君は、また少し不機嫌そうに顔を歪めた。

「……君に言われるまでもないよ。でなくても、臣下の一部が勝手に下手打っちゃったから、しばらくは大人しくしとく。この上、大王大妃様の不興買っちゃ、敵《かな》わないし」

 肩を一つ竦めて、綾陽君は続けた。

「じゃ一つ、君の言うところの『筋の通らない』わけじゃない条件がある」

「何だよ」

「近い内に、科挙を実施しようと思ってる。もちろん、今回の乱のことが少し落ち着いてからだけど」

「それで?」

「僕の弟として生きるんじゃなければ、できたら科挙を受けて合格して。司譯院《サヨグォン》〔通訳・通訳養成・外交担当部署〕最下位の品階からのし上がるのは大変だろうけど、倭国語ができるなら、倭国への通信使に加えるのに是非もないからさ。喋れる人、実は少ないんだよね」

「……おいおい、マジかよ。これから対倭国との外交、大丈夫か? 俺が科挙受けるのなんて、どーせ今回の通信使に混ざる為の建前だろ?」

 倭国に渡れば、恐らくシアはほぼ、朝鮮とは縁が切れる。よって、朝鮮の外交は完全に他人事だが、他人事ながら少し心配になった。

 すると、綾陽君はニコリとぱっと見、人好きのする笑みを浮かべる。

「僕が必要だと判断したら、朝鮮《ウチ》の譯官《ヨックァン》〔通訳官〕として戻ってもらうから、そのつもりでいてくれると助かるな」

「……は、相変わらず図々しいな。利用されるだけなのが分かってて、ホイホイ戻ると思うなよ、クソ兄貴」

 吐き捨てるように言ったシアは、話は終わったとばかりに立ち上がる。

 座ったままの綾陽君の横を擦り抜けた瞬間、綾陽君が「ところで」と口を開いた。

「何だよ。まだ何かあんのか」

「……いや。大したことじゃないんだけどね」

 クス、と小さく笑った綾陽君は、純粋な微笑を浮かべて、シアを見上げた。

「明国での、彼女(・・)とのこと、首尾はどうだったのかなって」

 一瞬、その微笑に目を奪われるように見開いたシアは、やがて苦笑を浮かべて返した。

「フェイのこと言ってるんなら、お陰様で上手くいったよ。って、さっきも言ったと思ったけど」

「……そっか。そうだったね」

 また一つ、厭味ではない笑いを挟んだ綾陽君は、「連絡は、ユさん経由でいいよね」と、半ば確認するように訊いた。


***


 科挙を受けるに於いて、シアは特に綾陽君から便宜を図ってもらうことはなかった。

 譯官になるには、雑科《チャプクァ》の中の譯科《ヨックァ》の試験を受ける必要があるが、譯官は実質、中人《チュンイン》〔技術職・専門職階級〕の家の世襲であることが多く、譯科を受ける際も家柄がある程度有利に働いていた。

 ただ、シアの場合、最初にフィギルに受けた教育のお陰で、母国語のほか、明国語も倭国語も、現地人並に操れた。

 加えて、蒙語〔モンゴル語〕と満州語〔女真族の言語、のちの清語〕も叩き込まれていた為、蔭補《ウムボ》〔コネ〕を使う必要もなく、当然のように首席合格した(あくまで譯科の中での首席だが)。

 朝鮮内では、圧倒的に明国語の譯官の需要が高く、公平に見れば割と必要に思えるのに、ほかの言語の採用率は低かった。

 その、定員が少ない言語の一つである倭国語の譯官の一枠を、実力でもぎ取った数日後、中間的打ち合わせがしたいとお忍びで仮宮を出て来た綾陽君には、苦虫を噛み潰したような顔で開口一番、『可愛げないね~』と言われた。


『どういう意味だよ』

『だってこの成績! ケチの付けようも、蔭補の必要性もないじゃない。折角の優秀な人材逃(のが)して、倭国語担当以外の役人が死ぬほど悔しがってるよ』

『俺の知ったことか』


 船酔いでフラフラになりながら、倭国・對馬島《テマド》の港を踏んだ途端、なぜか脳裏を綾陽君とのそんなやり取りが過《よ》ぎった。

 民間の食事処の小さな食卓で向かい合っていたのが、遠い昔のことのようだ。

 東萊《トンネ》〔現在の釜山《プサン》〕の港を発《た》ったのは、たった六日ほど前のことなのに、東萊から對馬島までの荒波に揉まれていると、その時間が永遠のようにも思えた。

 東萊と對馬島間の海は荒いとは話に聞いていたが、ここまでとは思わなかった。民間の船ではなく、ちゃんとした使節団として、官営の船で来たと言うのに――

「……若奥様。大丈夫ですか?」

 脇から声が聞こえ、胸元を擦りながら顔を上げると、視線の先ではフェイジェンが、シア以上に具合が悪そうに桟橋から半ば身を乗り出している。

 横では、クァルの息子・チョンが、荷物を抱えて心配げにフェイジェンを見ていた。

 朝鮮の習いとして、夫婦でも家族でもない男女は、気軽に触れ合うものではない。だが、今のフェイジェンを支えもしないのは危ない、とシアは慌てて立ち上がった。

 一瞬、船酔いの気持ち悪さも吹っ飛び、急いで彼女の肩先を掴んで安全な場所まで引き戻す。

「……ありがと」

 ケホッ、と、ものを吐いたあとの名残を残しつつ、フェイジェンが弱々しく礼を告げる。

「……珍しいな。お前が酔うなんて」

「……そうね。緊張、してるのかな」

「まさかだろ。逃亡生活長くて、そんな……」

「若様」

 キビキビとした声で呼びながら駆け付けたのは、クァルだ。

 綾陽君に、彼ら父子《おやこ》の助命を求めに行ったあの日から、彼らは一足先に東萊の、倭国人居留地付近にある影契《ヨンギェ》の拠点に潜《ひそ》んでいた。

 都では影契が、彼らの偽の遺体を用意し、無事に彼ら二人の死も、公式に認められた。二人を含めたクァルの家族の名誉が今後どうなるかは、何とも言えない。せめて後世、汚名が雪《すす》がれることを祈るのみだ。

 とにかく、クァルとチョンは、影契の偽造した身分証で、新たな名を得て、シアとフェイジェン夫妻の私奴《サノ》として、この倭国まで来た。

 シアとフェイジェンが、今後朝鮮に戻るかどうかも分からないが、クァルとチョンはもう、戻ることはないだろう。

 幸い、ここ對馬島には、倭国側の朝鮮との窓口がある関係上、朝鮮人の居留地もある。倭国本土に渡ったとしても、壬辰倭乱《イムジンウェラン》の際に連行された朝鮮の民が住むような集落も、捜せばあるだろうから、いくらでも隠れようはある。

「そろそろ、宿のほうへ移動が始まります」

「分かった」

 頷いて、深呼吸する。それでどうにか、胸の気持ち悪さを追い払うと、フェイジェンに向き直った。

「フェイ、行けるか?」

「……うん……」

 真っ青な顔をしつつも立ち上がり掛けた彼女は、まるで酔いを思い出したと言わんばかりに、また口許を覆った。

「大丈夫ですか?」

 通り掛かったのは、随行の医女――かと思いきや、相手はソジョンだ。彼女は今回、夫のホ・ヂュンホと共に、使節団の随行医療団として立候補してくれた。綾陽君の許可も出ている。

 ほかの随行医官・医女が頼りない、というわけではないが、やはり昔馴染みの医療関係者が一緒なのは心強かった。

 ソジョンは、フェイジェンの手を取って脈を診ている。瞬間、目を見開いた。

「……若奥様」

 ソジョンが急に、声量を絞って続ける。

「失礼ですが、最後に月のものがあったのはいつですか?」

「えっ?」

 明後日《あさって》の方向の質問に思えたのだろう。フェイジェンは目を瞬《またた》き、シアも同じように目を丸くした。

「若奥様」

「えっ、……えっと……」

 答えを急《せ》かすように呼ばれ、フェイジェンはソジョンに取られていない手を、無意識に頬に当てる。

「えっと……いつだっけ、もう三月《みつき》くらい、そう言えば……」

 え、とシアも声を漏らした。次いで、ソジョンに目を向ける。

「……まさか……」

 ソジョンは、ゆっくりと唇を笑みの形に弛めた。

「……おめでとうございます。ご懐妊です」

「ホントに……? いや、だって、俺……」

 フィギル亡きあと、都に戻って、ソジョンと再会してから、告げられたことがある。フェイジェンを妻にしてからのことだ。

 もしかしたら、大火傷を負った時の影響で、シアには――フェイジェンとの間《あいだ》には、子が授からないかも知れない、と。

「そういう可能性も、頭に置いておいてくださいと、申し上げただけです。絶対に授からないとは申しておりませんし、似たような症例の患者のその後《ご》も、様々ですので」

 コクリ、と喉が鳴った。

 もちろん、直後にはフェイジェンにも打ち明けていた。

 シアとしては、授からなければそれでいいと思っていたし、フェイジェンを妻にした当時は、子どものことまで頭が回る状況ではなかった。そのままの意識で、今日まで来たのだが――

 唖然と口を開けてこちらを見たフェイジェンと、瞬時見つめ合う。直後、シアは思わず、力一杯、愛しい妻を抱き竦めた。


【了】脱稿:2026/10/18 微修正:2026/10/22 ©神蔵 眞吹2026.

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