第八章 見失った最愛
「……そんな……誠ですか、貞正姉上」
ミョンギルと共に貞淑姉を訪ね、光海兄への根回しを頼んだシアは、その日の内に都の外へと取って返そうとした。が、焦れば却って怪しまれる、というミョンギルの助言を入れ、翌朝、外出禁止が解かれたあと、都の城門を潜った。
都から、貞正姉の運営する尼僧院のある安山まで、馬の並足でも四半日だ。しかし、姉の運営する尼僧院まで辿り着いて、久方振りに再会した貞正姉の口から聞かされたのは、「懐淑公主様なら、お見えになってないわよ」という――シアにとっては何よりも残酷な言葉だった。
(……嘘だろ)
ならば、フェイジェンはどこへ行ったのか。
彼女には、万一を考えシベクを付け、ほかにも影契の手練れが数人付いているはずだ。ほかの者はともかく、シベクがそうそう、滅多な相手に後れを取るとも思えない。
「……戻るぞ」
「大君様」
シアの焦りを鎮めようとするようにミョンギルが声を掛けるが、シアは構わずきびすを返す。
「待ちなさい、ウィ。どういうことなの」
貞正姉の声が、ミョンギルのそれに重なるように追い掛けて来る。けれど、今のシアには、制止の声のすべてが煩わしい。
「申し訳ありません、姉上。詳しいことは、また後程」
顔だけ振り向けて会釈し、駆け出す。
今は少しの間も惜しかった。無駄に留まればそれだけ、フェイジェンの行方を辿る手掛かりが遠退くような気がする。
「大君様」
「何だよっ……!」
うるさいな、と続けようと、足を止めて振り返ったシアは、瞠目した。
視線の先にいたのはミョンギルではなく、――ホン・ソボンだ。
「……何で……あんたが、ここに」
呆然と呟く。
ソボンは確か、昨日軽く伸して、影契のどこかの拠点へと運ばせたはずだ。その証拠に、ソボンの鼻部分には、痛々しい傷当ての布が添えられ、包帯が巻かれている。
「影契の拠点へ運ばれる前に、手の者に助けられましてね。一人で行動しているように見えても、わたくしには常に数人、護衛代わりの同志が付き従っておりますゆえ」
「……あんた、大して手勢がいない、みてぇなこと、言ってなかったか?」
「大君様と一度決裂してから、どのくらい経ったとお思いで? 大君様の御為にも、あれからコツコツと味方を増やしたまでのことですよ」
ソボンの眉尻が、苦笑の形に下がる。
「あっそ。悪いが今、あんたの相手してる暇ねぇんだ。あんたにちゃんと話をする意思があるなら、また今度な」
さっさと会話を切り上げようと彼に背を向けた瞬間、「公主様なら、案ずるには及びませぬよ」と言う彼の言葉が、再びシアの足を止めた。
「……どういう意味だよ」
低い声で問いながら、ソボンに対して半身になる。顎を引いて彼を見据えると、彼はうっすらと口許へ笑みを浮かべた。
「ご安心ください。あなた様のお心掛かりは、綺麗に取り除いて差し上げましたゆえ」
「だから、どういう意味だって訊いてんだよ」
「わたくしが初めて大君様にお目通りしたあの日から共にいた娘ですが――名はジュ・フェイジェン様。明国先帝唯一のご嫡女で、公主様でしょう?」
問われて、目を見開く。
(何でそれを)
辛うじて口には出さなかったが、シアの表情がソボンに明確な答えを提示したらしい。彼の唇の笑みが深くなる。
「断っておきますが、大君様が下手を打ったから彼女の素性が漏れたわけではありませぬ。わたくし自身の情報網から得た情報です。大君様が、彼女を妻にしたことも存じておりますが……」
意味ありげに言葉を切り、瞬時伏せた目を上げたソボンは続けた。
「大君様が王位に就いたのち、彼女が王妃になるようなことは、断じてなりませぬ。彼女の素性を捏ち上げたとしても、いつ何時、明国に伝わるか分からない。そうなっては、我が国に明国の公主が降嫁したも同然。明国にそう認識されては、今よりも我が朝鮮は、はっきりと明国に鎖で首を繋がれたも同じこととなりましょう。ましてや、公主様が御子をお産みになれば、次の国王は明国の血を引くことになる」
その口許からは、すでに笑みは消えている。
「かと言って、大君様は一度情を通じた彼女をお見捨てにはなれない。だからこそ、王位を拒んでいらしたのでしょう?」
「何を、勝手な」
「ならば、公主様がいらっしゃらなければ、大君様は王位に就いてくださる。ゆえに、わたくしが手を打たせて頂きました。どうせ、国では亡くなったとされる皇女様です。こちらで手を下して、何の不都合もありませんでしょう」
ふざけんな、と反射で怒鳴りそうになったが、歯を食い縛って堪える。拳を握り締め、深呼吸してから、口を開いた。
「……そんなこと、遺体直接見たわけじゃねぇのに、信じられるか。それにアイツは、簡単にくたばる女じゃない」
するとソボンは、哀れむような、面白がるような笑いを零す。
「わたくしも、直接手を下してはおりませぬが、どの道早晩、あの世へ逝かれるでしょう。何せ、錦衣衛が追って参りましたゆえ」
シアは、再度目を瞠った。
「……何だと? まさかあんた、錦衣衛に」
「おや、察しが宜しいですな。その通りです。わたくしが、さり気なく錦衣衛に情報を流しました」
盛大に舌打ちが漏れる。同時に、刀の鍔元へ手が行ったが、鯉口を切る前にもう一度深呼吸した。
もしフェイジェンが錦衣衛に襲われたのなら、それこそここで、ソボンと戦り合っている暇などない。無言で駆け出そうとするシアの進路を阻むように、ソボンが身体を移動させる。
「どちらへ?」
「そこ退け。あんたと話してる時間も、戦り合ってる間も惜しい」
「公主様をお助けに行くのなら、手遅れですよ。錦衣衛が公主様に追い付いたのは、昨日の内のことですから」
「退けって言ってんのが聞こえねぇのか」
「わたくしを退かせたかったら、力尽くでどうぞ」
と言う割には、ソボンは刀を抜く様子を見せなかった。仮にも主と定める相手に刃を向けるのが憚られるのか、シア相手に刀など必要ないという意思表示か――
(どっちにしろ、戦るしかねぇってことか)
再度、舌を打つ。だが、簡単に挑発に乗るわけにもいかない。真っ向から戦り合って、勝てるかどうかは戦ってみないと分からない相手だ。
シアは刀の鍔元を握ったまま腰を落とし、半歩下がった。と見せ掛け、前触れなくきびすを返す。
「大君様!?」
ソボンの声が背後から追って来る頃には、シアは貞正姉の尼僧院の門内に滑り込んでいた。
先刻は頭に血が上っていた所為か、ここまで馬で来たのに、うっかり自分の足で駆け出してしまった。
いくらソボンでも人間だ。全力で駆けて来る馬を正面から止めることはできまい。
「大君様!?」
尼僧院の敷地に置いて来たミョンギルが、ソボンと同じように、頓狂な声を上げる。
シアは構わず、尼僧院の門を閉め、厩へ直行した。つい先刻、自分たちが乗って来た馬を厩へと納めたらしい尼僧が、ギョッとしたような顔でシアを見る。それにも構っていられない。
「大君様、どうなさるのです!」
「アイツを捜す! ソボンが錦衣衛に襲わせたらしいから、グズグズしてらんねぇ!」
追い掛けて来たミョンギルに答えながら、手近にいた馬を引っ張り出す。
「お待ちを、大君様!」
「言っとくけど俺は冷静だぞ、ミョンギル!」
肩先に掛けられた手を振り払いながら、シアは叫び返した。しかし、ミョンギルも険しい顔を崩さない。
「ならば、お聞かせください。どうやって府夫人様を捜すおつもりで?」
「ここから都までの道を辿る。もしアイツと錦衣衛が戦り合ったなら、痕跡が残ってるはずだ。そこを中心に捜せば――」
「そんな悠長な間を、わたくしが与えるとでも?」
それまでそこにいなかったはずの人物の声が飛び込んで来て、シアは目を剥いた。目の前にいたミョンギルも、弾かれたように振り返る。
「……さすがに門一つじゃ、足止めされてくれねぇか」
三度舌打ちすると、ソボンは不敵な笑みを浮かべた。
「左様ですね。わたくしももう、大君様のお言葉を信用致しません。力尽くでも王位に就いて頂きます」
「だから、操り人形でよければ、本気で人形でも作ったらどうだ?」
「それでは、明国の承認を得られますまい」
「生身の人間で、且つ実質的には人形でよければ、ファベク兄上が就きたがってんだ。あんたが心から兄上に忠誠を誓っても、俺は別に臍曲げたりしねぇぜ」
寧ろ有り難すぎて涙が出る、と付け加えると、ソボンは微かに眉根を寄せた。
「……生憎ですが、わたくしは大君様がご自分の意思で、政を行われることを望んでおります」
「お断りだって何度言ったら通じるんだよ」
「大君様こそ、一度王座にお座りになれば、必ずお気が変わられますと、何度申し上げればご納得頂けるので?」
「納得する日なんか、永久に来ねぇよ。たとえ、俺が死んだとしてもな」
吐き捨てるように告げると、ソボンは、スッ、と表情を削ぎ落とす。
「これ以上は平行線ですな。まあ、王位にお就きになられたあとでも、説得させて頂く時間は、いくらでもありますゆえ」
今度こそ、刀の鯉口を切ったソボンの前に、「待ちなさい!」と叫びながら立ちはだかったのは、貞正姉だ。ついさっきまで、厩の前にいた尼僧が、連れて来たらしい。
「翁主慈駕」
「無礼者。下がって剣をしまえ。わたくしを誰と心得る」
上がった呼吸を整えながら、凛と告げた貞正姉の前に、ソボンは一歩下がると、刀の柄から右手を離した。
「……貞正翁主慈駕は、先王殿下の王女様にございます」
腰を折って頭を垂れるが、それでもソボンの頭は、貞正姉のそれより上にある。ソボンの背丈が、姉のそれより遥かに高い所為だ。
姉は、睨め上げるようにソボンを見ながら、言葉を継ぐ。
「分かっているのならよい。王女として命ずる。即刻ここから立ち去れ。さもなければそなたの暴挙、王殿下にご報告申し上げる」
恐らく、ソボンは王など怖くないだろう。これから反正を起こそうという人間だ。
しかし、ソボンはその内心を口に出すような愚行は犯さなかった。
反正を起こす気でいようが、今はまだ、光海兄が王だからだ。光海兄に貞正姉が直訴する、ということは、場合によってはソボンの捕縛に官軍が動くということにほかならない。
けれども、ソボンはここで引き下がる人間ではなかった。
「……翁主慈駕。ご無礼を」
短く詫びたと思った瞬間、ソボンは何の準備動作もなく、貞正姉の鳩尾を打っていた。
「姉上!」
崩れ落ちる姉に気を取られたその一瞬で、ソボンには事足りた。
一瞬の間に、彼はミョンギルを打ち倒し、シアの視界から掻き消える。直後には首筋に衝撃を受け、シアの意識は途切れた。
***
緩やかに意識が浮上する。何を考えることもなく瞼を上げると、見知らぬ天井が視界に広がった。
(……えっと……ここ、どこだっけ)
脳裏で呟いて、身体を起こす。
「痛……!」
途端、首筋に鈍い痛みが走って、とっさにそこへ手を当てた。何がどうなっているのか、さっぱりだ。視線だけで周囲を見回す。
(洞窟……牢屋?)
壁は岩肌でできており、目算四半里〔約百メートル〕ほど先に、鉄格子がはまっていた。
(え、何で……俺、誰に捕まってんの??)
本気で訳が分からない。
フラリと立ち上がると、「気が付いた?」と不意に脇から声がして、思わず「わっ!」と悲鳴を上げてしまう。
「……びっくりしたぁ。急に大声出さないでよ」
急拵えらしい椅子に腰掛け、胸元を押さえているのは、一人の少女だった。年の頃は、自分と同じくらいだろうか。
小振りの輪郭に、勝ち気そうな大きな目と、ツンと上向いた鼻、ぽってりとした薄桃色の唇が配置されている。
長い黒髪は、一般的な未婚の少女がするような三つ編みに結われていた。
彼女は、片膝を抱え、その大きな瞳でこちらを見上げている。
「……誰だ、あんた」
当然の疑問を口にすると、少女は「え」と思わずといった様子で目を丸くした。
「……大丈夫?」
「何が」
「だって……あたしが分からないの?」
戸惑ったように言いながら立ち上がった彼女の背丈は、自分より少し低いくらいだろうか。
「分からないって……初めて会うのに、知るわけないだろ」
彼女は益々唖然と口を開き、やがて無言で鉄格子のほうへと向かって行った。
「ちょっと早く! フィセ様を呼んで来て!」
鉄格子に張り付いた彼女が、外へ叫ぶのをぼんやりと見つめる。程なく、外から大柄な男がやって来た。鉄格子に付いていたらしい鍵を外すと、少女に話し掛けながら、牢の内へと入って来る。
「大君様の意識が戻られたのか」
「それどころじゃないですよ、あたしが分からないって……」
「何?」
男は、盛大に眉間にしわを刻んだ。そして、こちらへ視線を投げる。
少女に訊いても埒が明かないと思ったのか、男はセカセカとした歩調でこちらへと歩み寄った。
「お目覚めですか」
男は、慇懃に頭を下げる。
「先刻は、とっさのこととは言え、無礼を働きまして。何卒、ご容赦を」
「はあ……」
今度は、こちらの眉間にしわが寄る。
無礼を働いたも何も、ここで目覚める前の記憶がまったくない。彼が自分に、どういう無礼を働いたのか、訊いたほうがいいのだろうか。
他方、こちらの反応に、男は伏せていた顔を気持ち上げると、こちらを見下ろし、首を傾げた。
「……あの、大君様」
「……俺のこと?」
テグン、が聞いた通りのテグンなら『大君』――つまり、この国の王の嫡男のことだろうか。
(……って待て待て待て、大君? 俺が? んなわけなくない??)
いくら何でも、自意識過剰だろう。王の嫡男、ということは、自分が王子だと、目の前の男が言っているも同然ではないか。
(うん、ない。いくら何でも、それはない)
内心で猛烈に否定しながら、ふるふると首を横へ振っていると、男は「あの」と言葉を継いだ。
「もしや、わたくしが分からないと?」
「……だから、初対面なんですけど」
更に眉間のしわを深くしながら、少女に向かって言ったことを繰り返す。
「大君様」
「だからっ、それ俺のことなのか?」
ついに苛立ちが声に含まれた。男は、表情を険しくさせると、「ご自分のことは覚えておいでで?」と問うた。
その質問を脳裏で繰り返し、同じ言葉を自問する。
(自分……あれ、自分のこと?)
そこで、初めて気付く。
自分のことが、分からない。自分のこと――すなわち、ここで目覚める前に何をしていたか、何があって眠っていたか、そもそも自分の名前――
(……ヤバい。俺って、何て名前??)
思わず、側頭部に手を当てる。
百歩譲って、起きる前の記憶がないのは仕方がないかも知れない。もう少し時が経てば、思い出す可能性もある。
しかし、ここに至っても自分の名前が分からないのでは、確定的だ。
「……俺……記憶喪失って奴かも」
情けない声で言って男を見上げると、男はあんぐりと口を開けてこちらを見つめ返した。
***
「――慈駕!」
その叫びで、フェイジェンはハッと目を見開いた。一瞬、自分がどこにいるのか分からず、混乱する。だが、明らかに人の温もりに負ぶさっている感じだ。
身動ぐと、「府夫人様?」と問い掛けが返る。
「……え、何……トンシ、さん?」
トンシ、ことイ・シベクの声だと悟った瞬間、問うように名を呼んだ。するとシベクは、「失礼。お一人で立てますか」と訊ねる。
「待って……」
彼の背から地面へ降りる素振りを見せると、動きに合せてシベクは膝を屈めた。寝起きに等しい足に、上手く力が入るか危ぶまれたが、彼の背と腕に掴まり、転ばずに立てることを確かめる。
「……ありがと。大丈夫」
「左様ですか。では」
シベクはフェイジェンから離れると、「翁主慈駕、お気を確かに」と声を掛けている。
まだどこかぼんやりした意識のまま、彼の動きを目で追うと、地面に人が倒れているのが分かった。多分、女性――尼僧だ。
(尼僧……翁主、慈駕?)
尼僧をしていて、翁主と呼ばれる人間を、フェイジェンは一人しか知らない。とすれば、倒れているのは貞正翁主――シアの腹違いの姉か。
「ここ……安山の尼僧院?」
呆然と呟くと同時に寒気を覚え、フェイジェンは無意識に自分を抱き締めるように両手を回した。全身がずぶ濡れだと気付いた直後、記憶が急速に巻き戻る。
(……そうだ、あたし……!)
無意識に、額へ手を当てる。
シアとシベクが香月楼を出たほとんどすぐあと、錦衣衛がこともあろうに香月楼へ襲撃を掛けて来たのだ。
すぐ様香月楼を飛び出したフェイジェンには、数名の影契の者が付き添ってくれた。だが、多勢に無勢、全滅するよりはとフェイジェンは己を囮に、錦衣衛を全員引き付けた。
夢中で逃げる内に、川沿いの崖の突端へと追い詰められ、下を流れていた川へと転落して――そこからの記憶がない。
「トンシさんが……あたしを?」
「……運良く合流できてよかったです。見失っていたら、大君様にどれだけお叱りを受けたことか」
肩先を竦め、立ち上がったシベクの腕には、まだ気を失っている貞正翁主が抱えられている。
「お手数ですが、ミョンギルを頼めますか。できれば起こして……起きなければ、傍で見ていて下さるだけでいいので」
言われて、視線を地面へ投げると、そこには貞正と同様、意識を失っているらしいミョンギルが倒れていた。
「すぐ戻ります」
と一礼したシベクが、貞正を抱えてきびすを返すのを、フェイジェンはやはりぼんやりと見送った。
もう一度視線を落とし、ミョンギルの傍へと跪く。
「チャギョムさん。チャギョムさん、起きて」
遠慮がちに肩を揺すると、ミョンギルは詰めるような吐息を漏らし、眉根を寄せた。
「……府夫人様……?」
どこか呆けた様子の声で、ミョンギルがフェイジェンを呼ぶ。
「大丈夫?」
「ッ! っ痛ー……」
無意識に起き上がろうとしたのか、ミョンギルは鳩尾の辺りを押さえて顔を顰めた。が、すぐに「いえ、大したことはありません……」と言いつつ、上体を持ち上げる。
「何があったの。シアは?」
「すみません、当て身をまともに食ってしまって……」
言い掛けたミョンギルは、ハッと目を見開き、キョロキョロと辺りを見回す。次いで立ち上がろうとし、身体を大きく傾がせ、膝を突いた。
「チャギョムさん!」
慌てて肩を支えると、ミョンギルは「申し訳ない」と言いつつ、もう一度視線だけで周囲を確認する。釣られるようにフェイジェンも付近へ視線を投げるが、シアの姿は見当たらない。
「……申し訳ございません」
ミョンギルは、石畳の上に正座して居住まいを正すと、改めて膝の前へ手を突き、フェイジェンに頭を下げる。
「……恐らく、ですが……大君様は、フィセ殿に連れ去られたものと……」
「連れ去られた!?」
「この寺院の中と周辺を捜してみなくては、断定はできません。わたくしも大君様のお姿がある内に気を失ったもので……しかし、この状況はそうとしか……」
「そんな……何で」
「府夫人様もご存知の通り、フィセ殿は大君様を王位にお就けすることに、異常なまでに執着しております。大君様が『王位に就く』とお答えしたことが嘘と露見し、形振り構わなくなったようにお見受けしましたので……」
「それにしたって、シアがあっさり拉致されたって言うの!?」
思わず叫ぶと、ミョンギルは更に深く頭を下げた。
「申し開きのしようもございません。不意を突かれ、思い掛けずフィセ殿と大君様を一対一で対峙させる形になってしまい……」
そんな、と繰り返したフェイジェンは、ミョンギルの前にへたり込んだ。
(……いや、座り込んでる場合じゃないわ)
キュッと唇を噛み締め、拳を握ると立ち上がる。
(早く捜しに行かなきゃ)
とは言え、シアが拉致されてからどのくらい経っているのかが分からない。
とにかく動かなくては、と門のほうへ身体を向けたと同時に、文字通り目の前を矢が掠めた。
「!?」
矢が飛んで来たほうへ目を向けると、門から敷地へ一歩踏み入れた一人の男に行き着く。
(錦衣衛!)
昨日、香月楼へ襲撃して来た者の中に見た顔だ。
「府夫人様」
背後で正座していたミョンギルが、立ち上がる気配を背中で感じながら、フェイジェンは目の前の男から視線を逸らすことはしない。
「あの者は」
「錦衣衛よ。ごめんなさい、まさか寺院まで追って来るなんて……」
「府夫人様」
後ろから差し出され、手に触れたものを無意識に受け取って握る。
「刀?」
「相手は一人のようです。ひとまず、追い払うか生け捕りにしましょう。もし可能でしたら、援護をお願いします」
ミョンギルは、パキ、と指と首を鳴らしながら、フェイジェンを守るように前へ出た。
©神蔵 眞吹2026.




