第七章 巡る議論【後編】
「――正確には、光海兄上……現国王殿下即位の年だな。最初の被害者は先王殿下だ。それまで世子だった兄上を廃して、俺を世子に据えようとした結果、兄上の側近に殺された。下手人の見当は付いてる。あんたの二番目の姉上が仕えてる提調尚宮、キム・ゲシだ。父上の死は病死として処理されてるトコ見ると、医官まで抱き込んであったんだろ。次に、光海兄上が即位した翌年、臨海兄上が言い掛かり的に流刑にされた末に亡くなった。臨海兄上は長男だから、長幼の序至上主義だった明国には、『何で長男がいるのに次男が即位するんだ』って言い分で、王位どころか世子位の承認も受けられなかったって話だ。まあ、よっぽど腹に据えかねたんだろうな」
「なっ、亡くなったって、たまたまなんじゃ」
起き上がろうと藻掻き、それをフェイジェンに邪魔されながら、ナギョンは反論を試みている。
シアは、フン、と鼻を鳴らした。
「今の話、聞いてたか? 世子の時代は、次男って理由で明国の承認受けられないまま来て、王位に就いても臨海兄上が亡くなるまで王位の承認さえ得られなかった。更に言うなら、臨海兄上が亡くなったのは、王位の承認に絡んで、明国使節団が朝鮮に着く前後だったらしいぜ。この間の良さ、本当に偶然なわけないだろ」
さすがにぐうの音も出なかったらしい。唇を噛み締めながら押し黙ったナギョンに、シアは容赦なく畳み掛ける。
「第三の被害者は、王族とは一見関係ない人物だった。俺の失脚事件の前年、キム・ヂクチェの獄事って粛清事件があったらしいんだけど、ホン・ソボンはそれに巻き込まれて政治の舞台から退場させられてる。この事件で一掃されたのは、俺の支持勢力である小北派の両班が大半だったらしいから、今思えば、七庶獄事の前哨戦だったってことかな」
そして、外堀から丸裸にされ、命を懸けて守る臣下がいなくなったところで、満を持したような時機に、七庶獄事が起きた。
強盗殺人を繰り返していた盗賊団には資金もたっぷり、その資金をどう使うか、証言のさせようによっては永昌大君を陥れることができる、とイチョムたちが目論んだのも無理からぬことだろう。
「で、翌年にはイチョムたちは俺にとどめ刺しに掛かった。あんたの父上が並外れたお人好しじゃなかったら、もしくは我が子に興味のない父親失格の男だったら、イチョムの企みは成功してたのに、残念だったな」
ハッ、と投げ出すように息を吐きながら言うと、ナギョンはやはり唇の端を押し下げたまま、シアを睨め上げた。
彼女の反応に構うことなく、シアは先を続ける。
「言っとくけど、連中の産み出した被害者は、俺らで最後じゃない。俺が死んだとされた翌年、ファベク兄上の実弟だったチョン兄上……世間には綾昌君の名前で知られてる俺の甥っ子が、謀反の頭目に捏ち上げられて、流刑にされたあと、自害に追い込まれてる。ここまでで殺された、もしくは殺され掛けた俺の父上と臨海兄上と俺、チョン兄上には共通点がある。何だか分かるか?」
やはり面白くなさそうにしながらも、ナギョンは低い声で、「……全員王族?」と、疑問符付きで答える。シアは、呆れたように目を細め、肩を竦めた。
「まあ、半分は当たりだ。もちろん、全員王族だけど、もう一つは、光海兄上の地位を揺るがそうとしたってことかな。本人の意思かどうかは関係ないけど」
「……じゃ、黒幕は現国王殿下ってこと?」
「……ソイツは何とも言えない。イチョムが計画の中心にいそうなことは間違いないけど……」
シアは、ナギョンから視線を外しながら、口許へ緩く握った拳を当てる。無意識に脳裏をよぎったのは、イノンに最初で最後に会った時の、彼の言葉だ。
『わたくしは、廃母論にも反対致しました。しかし、数の暴力で押し切られ、大妃様と公主様をお救いすることはできませなんだ。王殿下のご本心は分かりません。本気で阻まなかったところを見ると、内心では望んでおられたのやも知れませんが……』
あの時は、彼の言葉を鵜呑みにし、光海兄の心根の変容にただただ失望した。
けれど、本当にそうなのだろうか。本当に光海兄は、貞明姉やシアの破滅を望んだのだろうか。
惠民署で会ったあの日、ひたすら謝罪を繰り返していた光海兄の言葉を、まだ嘘ではないと思い込みたい自分もいる。もちろん、本当に嘘ではなく、兄の心の底からの謝罪だった可能性も、否定はできないし、できればそうあって欲しいが――。
「……とにかく、今日はもう帰らせてよ」
「もうできねぇって言ってんだろ。こっちの命が懸かってるって、何度言ったら理解できるわけ」
「だからそれは思い込みだって、こっちだって何度も言ってるじゃない。あたしの父は、断じてそんな、不正に手を貸す人間じゃないわ。あんたや綾昌君様が巻き込まれたのは本当に気の毒だけど、イ大監だってそんな悪巧みする人じゃないから、先王殿下と臨海君様が亡くなられたのはたまたまだと思うわ」
平行線、という言葉が否応なく脳裏をよぎる。次いで、深い溜息が出た。
「……それこそ、憶測と思い込みでモノ言うの、やめてもらっていいか」
「そっちこそ、いい加減ヒトの父親を不正者呼ばわりするのやめて」
「俺だって言いたくねぇよ。けど、あの人の最初の判断が十割正しかったなら、どうして俺を連れて逃げなきゃならなかった?」
「単に、目の前で焼き殺されそうになった子どもを助けただけでしょ」
「なら、あんたたち家族に連絡取ったってよさそうなモノだったじゃないか。それをやったが最後、俺が殺されるのは火を見るより明らかだったから、そうできなかった。じゃなかったら、あんたの父上が消息絶ったのは辻褄合わないって、いい加減理解しろよ」
もう何度目か分からない堂々巡りに陥っていることを認識しながら、幾度も繰り返した台詞の言い回しを変えて反復する。
ナギョンは、幾度目かで唇を引き結んだ。直後には、「分かった」と呟いた。
「分かっただ? 何が分かったんだよ」
「あんたが、何がどうでも、ウチの父が不正を犯したって思い込みたいことは、理解できたわ。そこまで言うなら、必要ないと思うけど調べてあげるから、今日はとにかく帰らせてくれない?」
シアは、呆れたように目を細める。
「調べてあげるって、まさかチョン・ハンを巻き込む気じゃねぇよな?」
「だって、不正じゃないもの証明する為に、過去の事件を洗い直すのよ? チョン大将様も関わってるなら、寧ろちょうどいいじゃない」
あまりの理解力のなさに、形の良い眉根のしわが深くなった。
「だっから、それやったら俺死ぬしかねぇって言ってんだろ。やっぱり俺を殺したいのか?」
「そんなこと言ってない。ただ、ちゃんと真実を追及しようとしてるだけよ」
「……話にならない」
はあーっ、と深い溜息を吐きつつ、シアは片掌に顔を埋める。
(……コイツ、本当に父さんの娘か?)
頭悪すぎ、と脳裏で付け加えながら、顔を押さえていた手を、無意識にうなじへやった。
そんなシアに構わず、ナギョンは「じゃ、今日はもう帰らせてもらうから」と言って、自身の手首を捕らえているフェイジェンに目を向ける。
「手、放してくれる?」
フェイジェンは、無言でナギョンを睨め下ろすと、意外にあっさりと手を放した。
ふん、と鼻を鳴らしたナギョンは、身軽く立ち上がり、パンパンとチマを叩く。
「じゃあ、調べが付いたらとにかくまた連絡するわね。この妓楼でいい?」
ナギョンがそう問うた直後、フェイジェンが何の準備動作もなく、背後からナギョンの首筋を打った。ナギョンは息を詰めるような声で呻き、その場に崩れる。
シアは目を見開いたまま、フェイジェンを見つめた。
「……フェイ」
「あんたにはできないと思ったから」
言った彼女の目線は、まさにナギョンの鳩尾を狙っていたシアの拳に向けられる。
「……お前には二度としねぇって言ったんだ。ほかの奴にやらない、なんて言ってないし、……前に言ったの、聞いてただろ。俺にとって、女はお前だけだって」
目を丸くしたフェイジェンは、次いでどこか泣き出しそうな微苦笑を浮かべた。
「……話は一段落付きましたでしょうか?」
直後、声を掛けて来たのは、その場を去ったとばかり思っていたシベクだ。
「……あんた、まだここにいたのか」
「ナギョン嬢の母君を迎えに行かせる手筈は整えました。ナギョン嬢をお連れせよとのご命でしたので、戻って参りましたが……」
言いながら、シベクは気絶したナギョンを見下ろす。
「……悪い。ちっと連れてくのが面倒になった」
「いえ。先程までのやり取りは聞かせて頂きました。話が堂々巡りを起こし始めているとお見受けしましたので、致し方ないかと」
「けど、父さんの奥方を保護するだけじゃ済まなくなるな。差し当たって、一番危険なのは、一番上の令嬢か……」
「保護致しますか」
「……頼んでいいのか」
本来なら、ミョンギルとシベクを始めとする影契の者に、シアの事情は関係ない。
寧ろ、反正なり、ほかの方法なりでシアの無実が証明され、名誉が回復された暁には、フィギルの妻も子も、連座で処分される対象となる。まともに考えれば、影契の者にとって、フィギルの家族を放っておいても困ることはない。
「フィギルの家族を放っておいて後悔するの、はっきり言えば俺だけなんだけど……」
後ろめたさを含んだ目でシベクを見ると、シベクは微苦笑を浮かべていた。
「……大君様のそういう、情深いところに皆、惚れ込んでお仕えしております。どうか、お気になさらず」
「……やめろ、情深いとか言うな。背中が痒くなりそうだ」
肩甲骨を近付けるように肩を上下させ、シアはシベクに向き直る。
「父さんトコの次女と三女……宮中にいる二人は、さすがに王宮の外に連れ出すわけにいかないよな」
「ご存知かと思いますが、宮廷にも影契の者は潜入しております。すぐに連絡を取って、然るべき手配を致します。特に、二番目の娘御については、我が妹・叡純が傍におりますれば」
「あんたの、妹?」
シアは眉根を寄せた。
「何で、あんたの妹が宮中に」
「妹は、キム・ヂャジョム殿の兄上・金自謙殿に嫁いでおりました。しかし、チャギョム義兄が早くに亡くなり、その後、妹はムスリとして宮中へ伺候していたのですが、そうする内にキム提調尚宮の目に留まりました。今は、キム尚宮の下で、半房子として仕えております」
「へぇ……」
ムスリとは、水賜、または水賜伊とも言い、宮中で、主に掃除や洗濯をする下働きの女性を指す。
「でも、別に最初から密偵として潜入してたわけじゃないんだろ?」
だったら、フィギルの次女を守れという任務は、イェスンには荷が重いのでは、という含みを持った問いに、シベクも瞬時、顔を曇らせた。
「それは……キム尚宮の半房子を務めるようになった時点で、チャジョム殿が説き伏せたようです。どうせキム尚宮の下にいるのなら、情報を持ち出すくらいはできようから、と」
「ほかに影契がいるなら、そっちに頼んだほうがいいと思う。っていうか、影契にも本来その義理はないから、連れ出せれば一番いいけど……」
「……ですから、そういう所ですよ」
苦笑を含んだ声音に、いつしか伏せていた瞼を上げると、声と同じ色をしたシベクの顔に視線がぶつかる。
「繰り返しますが、大君様は、影契に下される命も、当然と思っておられない。助けを当たり前に求められないお方だからこそ、皆喜んでお仕えするのです。せめて、身分と名誉のご回復が成るまでは、我々を当然のように顎で使って構わぬと割り切って下さい」
シアは、目を見開いたままシベクの言うことを聞いていた。が、ユルユルと微苦笑し、肩を竦める。
「……割り切れる時は割り切るさ。けど、あんたの妹……イェスンには根本的に関わりねぇことだろ。間者の役割だって、キム・ヂャジョムとやらに無理強いされたみたいだし、余計当然見たいな顔して乗っかれねぇな」
それに、イェスンにしろチャジョムにしろ、シアは会ったこともない。彼らがどういう心持ちでこの反正に臨んでいるかも分からない以上、尚のこと協力を気軽に頼むことはできなかった。
その辺の意をどう汲んだか、シベクは珍しくその点に関しては引き下がる様子もなく口を開く。
「とにかく、下手を踏まぬよう影契には万事通達を出しますので、お任せくださいませんか」
「……分かった。影契には任せるから、イェスンは巻き込むなよ。彼女が納得しない限りはな」
シベクは、目を瞬かせたあと、「心得ました」と言って頭を下げた。
「それはそれとして、彼女たちを保護するとなると、いよいよ水面下ってわけにいかなくなるよな」
その場に沈黙が落ちる。
皆まで言わずとも、その場にいる全員が分かっているのだろう。
大北派の末端両班に嫁いだフィギルの長女、今は左補盗庁に茶母として勤めているフィギルの妻と末娘を保護すれば、当然彼女たちは都から忽然と姿を消すことになる。
それは、フィギルの長女の嫁ぎ先から、そして左補盗庁からイチョムの耳に入るだろう。
その事実を、『何事もない』で済ませるほど、イチョムはおめでたい人物ではないことも分かっている。もし、イチョムがそんな、甘い見通しをする男なら、シアは今頃まだ、公式に生きて、江華島にいたはずだ。
「――コトを急ぐしかございません。もし急げなければ、当面都から離れることです。それも、時間稼ぎにしかなりませぬでしょうが」
「……分かってる。ひとまず、シベクはナギョンを連れて、影契のどっかの拠点に行ってくれ。フィギルの奥方の保護の手配はしたんだよな?」
「はい。ハン前大将様のご長女の保護は、これからですが」
「頼んだ。俺はこれから貞淑姉上んトコに行ってくる」
「ちょっと待って」
そこで、それまで黙っていたフェイジェンが声を上げた。
「貞淑翁主慈駕のトコって……都に入るってこと?」
「ああ。だからお前は、先にここ出ろ」
「嫌よ。あたしも行く」
即座に返され、シアは眉間にしわを寄せる。
「……俺だって、無闇に離れたくねぇけどさ。都に入るって意味分かってるか?」
「分かってるわよ。より安全じゃないトコに飛び込むってことよね」
「あのなっ、危険ってんなら、お前のが危険なんだぞ。都ん中には、あのバカ兄がいるんだぜ。しかもまだ多分、お前を自分の側室にしたつもりでいるバカ兄がな」
シアの言う『バカ兄』が、すなわち慶平君を指しているのは分かったのだろう。途端、フェイジェンも怯んだような、脅えたような表情で口を噤む。しかし、すぐには同行の提案を下げられないようだ。
シアは、何度目かの苦笑を唇に刻むと、彼女の頭にポンと掌を載せた。
「大丈夫。そうそう滅多なことは起きゃしねぇさ。貞淑姉上に用件済ませたら、すぐ追い掛けっから」
「それで、大君様。貞淑翁主慈駕の所で、何を?」
二人に会話をさせておいたら、別の堂々巡りが起きると思ったのか、シベクが素早く口を挟む。
「うん……影契を信用しないわけじゃないけど、貞淑姉上から光海兄上に、ハン内人と良媛様に関して、念押しさせてもらおうと思ってさ。何だかんだ、光海兄上は貞淑姉上に頭上がんねぇみたいだし」
光海兄から見れば、貞淑姉は異母妹だ。だのに、頭が上がらないのは、偏に光海兄が貞淑姉に対して、負い目を感じていることがあるからだろう。
貞淑姉の長女・ヒェスンを殺した仁城兄への処罰を有耶無耶にしたことを突破口にねじ込めれば、貞淑姉の勝利は決まったも同然だ。
とは言え、できれば貞淑姉に頼りたくはないのが正直なところなのだけれど、今はほかに手段がない。
「分かりました。では、直ちに手配を致しますので、大君様も府夫人〔大君正妃〕様も、ここでお待ちを」
「は?」
見事に、シアとフェイジェンの声がかぶる。だが、シベクは構わず、ナギョンをヒョイと自分の肩へと担ぎ上げた。
「お二人とも、まさかお一人でそれぞれ行動するおつもりですか?」
「……俺はそのつもりだったけど」
「なりません」
シベクはきっぱりと言って、冷ややかにシアを見下ろす。
「大君様もですが、府夫人様は特に、今後単独行動はお控え頂きます。府夫人様に何かあれば、大君様の精神的な安定に響きます。逆も然り。そうなると、お支えするのが少々面倒ですゆえ」
二人を心配していると見せ掛け、その実、自分たちの利益のことを考えている――というところのほうが実は見せ掛けである可能性もある。どちらにせよ、シベクの狙いは大方、シアが後者に乗ってくれて、遠慮を考えないでくれることかも知れないが――
「……分かったよ」
シアが、また一つ肩を竦めると、シベクは生真面目な顔で「ありがとうございます」と会釈するように顎を引いた。
「それでは、ナギョン嬢はほかの影契に任せて来ます。府夫人様にも、手練れの者を数人付けます。大君様には、わたくしがお供を」
「いや、逆だ。フェイにはあんたが付いてくれ。俺は本当に一人でもいいくらいだし」
「ですが、貞淑翁主慈駕のお宅へ行くのでしょう? 大君様は、どのような格好で出向かれるおつもりで?」
問われて、シアは「あ」と口を開いた。
城門を、騒ぎを起こすことなく潜るには、どうしても変装が要る。一番確実なのは、妓生の格好をすることだ。
しかし、その扮装でだと、シア一人では、貞淑姉宅の門を潜ることさえ不自然だ。却って目立ってしまう。
「城門を通ってから、もう一度着替えをする必要がありましょう。ミョンギルが今、ちょうど雲従街にもう一つ、書店を持っておりますゆえ、そちらへ案内致します。ミョンギルが店にいれば、翁主慈駕の所へ、一緒に行ってもらうこともできましょうから」
「だけど」
「どうしても府夫人様がご心配でしたら、ミョンギルの店までお送りしたあと、わたくしがすぐに引き返します。府夫人様は、どちらへお送りすれば?」
瞬時、反論を探して彷徨わせた視線が、フェイジェンのそれとぶつかる。チラリと目を見交わし、溜息と共にシベクへと視線を戻した。
「……分かったよ。彼女は、安山へ。貞正姉上のトコへ預けてくれ。俺も、貞淑姉上の用事が済み次第、そっちに向かうから」
「御意」
「シア」
呼ばれて、彼女のほうへ視線を向ける。彼女はやはりまだどこか泣き出しそうな、不安げな表情でシアを見ていた。シアは、苦笑を深めると、フェイジェンのほうへ首だけを伸ばし、軽く口づけた。
「すぐ追い付く。だから、先に行ってろ。くれぐれも気を付けてな」
「……ん……」
心情としては、やはり離れたくはない。けれど、一緒には行けないのは、頭では分かっている――そんな顔で、刹那、唇を噛み締めた彼女は、シアの唇に己のそれを押し付け返した。
「……分かった。シアも……気を付けてね」
「ああ」
最後にもう一度だけ、往生際悪く彼女に口づけ、きびすを返す。シベクが背後で、「では、府夫人様はしばし、こちらでお待ちを」と告げ、シアのあとへと続いた。
その翌日の午後、貞正姉が管理する安山の寺院に辿り着いたシアを待っていたのは、フェイジェン行方不明の報だった。
©神蔵 眞吹2026.




