第九章 追走劇の終わりと、新たな焦燥
寺院まで追って来た錦衣衛の追っ手が一人だったのは、フェイジェンが川へ転落したあと、大半をシベクがぶちのめしたお陰だった――ということは、貞正翁主を寺院内の彼女の自室に休ませた彼が、ミョンギルとフェイジェンに合流してからのことだ。
その頃には、追っ手はミョンギルとフェイジェンに叩きのめされ、縛り上げられた上で地面に伸びていた。
「さて、コイツをどうしますか、府夫人様」
「コイツに限らず、もう追っ手が来ないようにできればいいけど……」
溜息を吐いたフェイジェンは、眉を顰めて、伸びた男を見下ろす。それが不可能なことは、フェイジェン自身が一番分かっていた。
国を出て十二年――なぜか、追っ手に指令を出しているウェイ・ジョンシェンは、諦める気配すらない。一体、自分が生きていることが、彼にどう害を成すのか、それすら分からない。
だが、少なくとも彼にとっては、某かの不都合がある、ということだろう。そうでなくては十年以上も、国の隠密機関を使ってまで、追い回す理由がない。
「――宜しいでしょう。その策を考えましょう」
「えっ」
不意にミョンギルの言葉が耳に滑り込んで来て、フェイジェンは顔を上げる。
「どういうこと? まさか、ウェイ太監を諦めさせられるって言うの?」
半ば詰るように訊くと、ミョンギルは苦笑混じりの不敵な笑みを浮かべた。
「さて……確約は致し兼ねます。何しろ、わたくしはウェイ太監とやらの人となりを知りませぬゆえ。ですが、手を拱いているよりはマシでしょう。今のままでは、府夫人様のみならず、大君様にも危害が及び兼ねません」
シアのことを言われ、フェイジェンは唇を噛み締める。
本当なら、彼の傍にいないほうがいい。それは、痛いほど理解している。けれど、離れられない。それは、自分だけでなく、彼もそうだ。
互いに離れていたほうがいいと、嫌というほど知っていながら、それでも互いへの気持ちを抑え切れず肌を重ねてしまったのは、互いにいつ死ぬか分からなかったからだ。
ままならない現実の中、せめて互いへの気持ちにだけは素直にならなければ、いずれ後悔する日が来ることを、互いに痛感したから――
(……なら、あたしができることはしなくちゃ)
もう、泣いて離れることで相手を守ることは終わろう。その覚悟は、彼と床を共にした時にしていたはずだ。
「……力を、貸してもらえる?」
硬く拳を握り、顔を上げる。視線の先にいたミョンギルは、瞬時瞠目した。
かと思うと、苦笑を深くし、「喜んで。府夫人様」と胸に手を当て、シベク共々頭を下げた。
***
ミョンギル提案の『策』を実行する為、フェイジェンとミョンギル、シベク一行は、都へと取って返した。慶平君の目があるかも知れない手前、正直、都へ入るのは躊躇われたが、シアの消息のこともあるので、この際四の五の言っていられなかった。
ミョンギルが隠れ蓑兼拠点としている妓楼で、厳重に変装したあと訪ねたのは、シアの異母姉の一人・貞淑翁主の邸宅である、シン家だった。
ミョンギルが、貞淑翁主とその夫である東陽尉シン・イクソンと親しい間柄であることからか、彼が訪いを告げると、応対に出て来たシン家の私奴は、すぐに貞淑翁主に取り次いでくれた。
「――という経緯なのです。大君様の消息調査と平行して、この策を翁主慈駕にご協力頂ければと思い、お訪ねしました。ただ、万が一の際は少なからず、翁主慈駕にも火の粉が降り懸かる策でもあります。お断り頂いても構いません」
貞淑翁主の私室で彼女と向かい合ったミョンギルは、そう結んで彼女に頭を下げる。
貞淑翁主に促され、彼女の次席に当たる上座で、ミョンギルと同様に頭を下げたフェイジェンは、チラリと目を上げた。
視界に入ったのは、悩む素振りを見せるどころか、どこか不敵な笑みを浮かべた貞淑翁主だ。思わずギョッと目を見開くのと、「構わないわ」と貞淑翁主が言うのは、ほぼ同時だった。
「……宜しいので?」
「宜しいも宜しくないも、この子を誰だと思って? わたくしには、つい最近できた義妹だわ。妹が困っているのに見ぬ振りをする姉は、この国にはいなくてよ。まあ、光海兄様や仁城兄様なら、常識が通じないかも知れないけど」
ミョンギルに答えながら、貞淑翁主は優しい笑みを浮かべて、フェイジェンの頬へと手を滑らせる。
「安心なさい。そなたの苦しみも、もう終わらせねば」
「翁主慈駕」
「義姉と呼んでくれて構わぬのよ。大丈夫、任せなさい」
「ですがオン、……お義姉様。これは本来、明国皇室の揉め事。それを朝鮮の王室へ飛び火させたとあっては……」
苦しい胸の内を吐露するフェイジェンの唇を、貞淑翁主はそっと指先で押さえた。
「構わぬと申したでしょう。ウィと夫婦の契りを結んだのだから、そなたはもうわたくしの妹です。そなたの面倒ごとは少し規模が大きいし、祖父母君がお亡くなりの今、そなた一人では最早手に負えまい。そなたが表立って決着を付けると言うことも難しいでしょう」
「それは……そうですが……」
フェイジェンは、返す言葉も思い付けず、目を伏せる。そんなフェイジェンを見ながら、貞淑翁主は微苦笑した。
「そなたたち夫婦は揃いも揃って、他人を頼るのが不得手なようだけど、手に余ったらまず周りに寄り掛かることを覚えたほうがよい。此度の件は、その第一歩だ。構わぬから、この姉にすべて任せよ」
「でもっ……!」
覚えず、顔が歪むのが、自分でも分かる。
周りに頼れ、と言われても、そうしてよいのか自問して思い浮かぶのは、両親と母方の祖父母だ。彼らは皆、フェイジェンを生き延びさせる為に死んだ。それを思うと、簡単には頼れない。
ましてや、貞淑翁主は『他人』で、腹違いとは言えシアの姉だ。両親と祖父母だけでも辛いのに、この上貞淑翁主まで巻き込むことにでもなったら――
「府夫人様」
思考に沈み掛けていた意識を、ミョンギルの声が現実へと引き戻す。
「ご安心を。翁主慈駕には、わたくしが付いて参ります。それに幸い、現職の駐在大使は、わたくしの旧知です。話の分からぬ男ではないことだけは、保証致します」
フェイジェンは、いつしか伏せていた瞼を上げたが、返す言葉をやはり探せなかった。けれども、そもそもこの策の提案者はミョンギルだ。
その彼自身が、ここまで断言する以上、それなりに勝算はあるのだろう。ここまでの付き合いで、彼が何の根拠もなく大口を叩く男ではないことは、フェイジェンも知っている。
「……分かった。お義姉様を、くれぐれも頼みます」
「お任せくださいませ」
***
貞淑翁主――ミョンフィとミョンギルが、明国大使の駐在所である南別宮へ入ったのは、それから一刻〔約十五分〕も経たない内だった。
ミョンギルの言った通り、現在の駐在大使の責任者がミョンギルの知人、ジェン・イーだったことから、取り次ぎはすんなりと行われた。
ミョンギルが、ミョンフィを「東陽尉夫人であり、先王殿下のご息女」だと紹介したところ、イーは二人を丁重に迎え入れ、南別宮の一室で広机を挟んで向かい合い、今に至る。
ミョンギルがイーにしたのは、貞正翁主にも話を通した捏ち上げ話だ。曰く、『お宅の国の刺客に、朝鮮国の王女様方が追い回され、大変迷惑している。昨日は、もうお一方の王女様の運営されている寺院にまで乗り込んで来られて、尼僧が死傷した。このまま錦衣衛の刺客が、ゆえなく我が国で暴れるのなら、こちらの貞淑翁主慈駕が兄王殿下へに訴え出ることも考えておられる』と。
イーは、これを聞く内に、見る見る渋面になって行き、ミョンギルが口を閉じたあともしばし考え込んでいた。
沈黙がいつまで続くのかと思った頃、イーが渋面のままの顔を上げる。
「……お話は分かりました。ただ……大変、申し訳ございません。錦衣衛の任務については、国のウェイ・ジョンシェンという太監の権限であり、わたくしにはどうにもできぬのです」
「今すぐどうにもできぬのなら、せめて兄王には報告させて頂きます」
と言いつつ、ミョンフィは連れて来て床へ転がしてあった錦衣衛――チュニョンの尼僧院でミョンギルが生け捕りにした男――に目を向けた。
「この者も、どうか厳しく罰して下さいませ。では、失礼致しますわ」
「お待ちを」
取り付く島もない様子を装って立ち上がり掛けたミョンフィを、イーが呼び止めた。
「何でしょうか」
言いながら、椅子を引いて立ち上がったミョンフィを、イーはどこか縋るような表情で見上げる。
「誠に恐れ入りますが……王殿下へのご報告はお待ち下さりませぬか」
しかし、ミョンフィは冷ややかにイーを見下ろし、毅然と返す。
「ここまで待ったゆえ、ついに此度、この国の王女である我が妹にまで被害が及んだのですよ。これ以上の被害が出たら、そなたは責任を取れると?」
「しかし、王殿下に報告するとなると、ことは外交問題に発展します。朝鮮国内で錦衣衛が、この国の王族にまでゆえなく暴力を振るっているとなれば、由々しき事態ですゆえ、いくら太監が故国では独裁者でも、さすがに考えましょう。とにかく、わたくしが国に聞き合わせます。何事もなければ、我が国の都・北京まで、長くても五十日程――」
「つまり、往復で少なくとも百日、わたくしたちは怯えて過ごせと?」
「いえ、その……」
目をウロウロと泳がせたイーは、やがて意を決したように「分かりました」と言い、顔を上げた。
「もし今後、同様のことがございましたら、至急わたくしに連絡を。約束通り、今より遣いを出しますが、返信あるまではわたくし、ジェン・イーの権限にて、責任を持ってその者らを処罰致します。つきましては、そのことを伝令する為、この者を解放してもよろしゅうございますか」
「なっ……!」
この者、とイーが指した人物は、未だ縛り上げられ、猿轡をかまされた、錦衣衛の男だ。
「何を……申しているのです」
何だと、と叫び掛けた自分を、ミョンフィはすんでで制した。一つ深呼吸を挟み、努めて静かな口調で続ける。
「その者は、先にも申した通り、先王の娘とは言え、この国の王女を襲ったのです。即刻、王殿下に直訴し、漢城府〔現代日本で言う都庁〕と刑曹〔司法機関〕へ処罰を申し立てます」
「翁主慈駕。恐れながら、翁主慈駕に於かれましては、我が国との戦をお望みか」
半ば脅迫のような言葉に、今度こそミョンフィは反射で叫んだ。
「そなた! いくら明国の使臣だからとて、仮にもこの国の王女を脅すつもりか!?」
逆にイーは冷静に、神妙な表情でミョンフィを見つめる。
「滅相もない。ただ、こちらの最善を尽くすゆえ、しばし待って欲しいと申し上げているのに、それは待てぬ、即刻どうにかしろなどとご無理を仰っておられるのは、翁主慈駕のほうでは?」
「その『しばし』が問題なのだ。換算して、三月強も待たねばならぬなど、その間に何事もないと保証できると?」
「ですから、この者から伝令してもらうのです。その間には、このことは国に届き、ウェイ太監の耳へも届きましょう。さすればその返信を、わたくしが受け取る日も近いと」
「その方法が、まともに遣いを出すより早いと?」
「翁主慈駕はご存知ないかも知れませぬが、錦衣衛は隠密組織です。人が徒歩で往復するより、早く伝達する手段を心得ております。例えば、途中の拠点から鳥を飛ばせば、僅かな時間であれ、稼げましょう」
「しかし、たった今さっき、わたくしたちはこの者に襲われたのですよ。どう信頼しろと?」
ジロリと錦衣衛の男を睨め下ろすと、イーは諦めたように溜息を吐いた。
「堂々巡りですな。分かりました。どうぞ、その者を漢城府へお連れになってくださいませ。わたくしはわたくしで、正規の手段でとにかく国へ伺いを立てますゆえ、返信が来次第、翁主慈駕にお知らせします。ご自宅でよろしいですか?」
ミョンフィは舌打ち混じりに「分かりました」と告げ、今度こそ椅子を引く。
「納得のいくご返事をお待ちしておりますわ。参りましょう、ミョンギル殿。すまないが、その者を連れて来ておくれ」
「はい、翁主慈駕」
ミョンギルが、錦衣衛の男を担ぐ為、床へ屈むのを目の端に捉えながら、ミョンフィは足音も荒く、その部屋を辞した。
***
なぜ自分が記憶を失ったのか、どうして牢獄のような場所へ入れられていたのか――その理由を、ウィははっきりとは聞かされなかった。
記憶を失くした理由は、取り敢えず納得できた。
ホン・ソボンと名乗った、目覚めた時にあとから来た男の話を信じるなら、だが――自分は、この国の先王唯一の嫡男で、本名はイ・ウィ。かつて、永昌大君という爵号で呼ばれていたらしいが、陰謀により、その爵号は、王族の身分共々、剥奪されたという。
そして、今から八年前、焼き殺され掛けた衝撃で、すべての記憶と、髪の色を失ったらしい。
その時、火事場から助けてくれたのが、今目の前で、戦闘鍛錬の為に対峙している、ホン・ソボンだ。
彼は武術の師であり、育ての父でもあるらしいが、ウィはそれも覚えていなかった。
どうやら、一度は記憶を取り戻したものの、そのあと新たに事件が起き、牢獄で目覚める前に頭部に受けた衝撃が、二度目の記憶喪失の原因のようだが、それは正直言って信じられなかった。なぜと言って――
(……何っか温いんだよなぁー、コイツ)
脳内で、こともあろうに育ての父を『コイツ』呼ばわりしながら、ウィは突き出された木刀を往なした。続く動きで、相手の木刀を自分のそれへ巻き込むように捻り上げ、弾き飛ばす。
「あ!」
声を上げたのは、ソボンのほうだった。
彼は、跳ね上げられた木刀を見送り、ウィに向き直ると、「参りました」と言って頭を下げる。しかし、ウィは不満げに息を吐いて、肩先へ木刀を預けると、ソボンを睨め上げた。
「……なぁ。今日もそれで全力?」
「もちろんですよ」
気持ち、下げた頭を上げたソボンは、柔らかく微笑する。
その微笑も、今付けてもらった稽古も、どこか壁を挟んだ向こう側にあるように遠い。ただ、寂しさを感じる遠さではない。どちらかと言えば、彼に距離を作っているのは、ウィのほうだった。
「では、本日はこれにて」
負けた割には、息一つ乱していないまま、ソボンはまた一礼して、きびすを返す。
彼の向こうに広がるのは、遮蔽一つない草原だ。
あの牢獄で目覚めてからすぐ、ウィはソボンに連れられ、目覚めた直後に共にいた少女――ナギョンと共に、ソボンが彼の本貫であるこの南陽で管理しているという、農荘〔荘園〕に来て生活していた。
もっとも、実際には、ここは農荘ではなく、何かの鍛錬施設のようだ。現状、たった今ウィたちが試合っていたのも、鍛錬場だからだ。
吹っ飛んだ木刀を拾って、生活圏のあるほうへ向かうソボンの背をぼんやりと見送り、ウィは溜息を吐いた。その彼の向こう側から、彼とすれ違う形でナギョンが歩いて来るのが見える。
「……今日の稽古はお終い?」
ナギョンは、チラリとソボンのほうを見ながら、ウィに問う。
しかし、ウィは小さく肩先を上下させただけで、ソボンに続くように歩き始めた。陽が傾き始めているから、直に夕餉の刻限だろう。
「……ねぇ。まだあたしのこと、思い出さない?」
ナギョンはまた、元来た道を戻る形で、ウィに追い縋って来る。けれど、ウィは言葉では何も返さなかった。
ホン・ナギョンと名乗った彼女は、ソボンの娘らしい。そして、ウィの妻だと言う。
けれど、この農荘に連れて来られる前から、ウィはソボン父娘を、まったくと言っていいほど信じられなかった。
二人とも、本音を話していないというか、何かを隠している気がするのだ。
ソボンが父代わりに育ててくれた割には、一緒に育ったはずのナギョンをウィの妻にするというのも、どこか釈然としない。
それに、ソボンは『二人は慕い合って一緒になったのですよ』と告げたが、記憶がないのを差し引いても、ウィは未だナギョンに、まったく惹かれるものを感じなかった。
彼女自身、ウィに対してどこか一線引いている気がするし、たまに『愛してるのよ』と言いはするが、まるで下手な芸人が、芝居の台本でも読んでいるかのように、言葉に熱が感じ取れない。
加えてソボンの、『一度記憶を取り戻された時点で、あなた様は、王位を取り戻すと言っていた』という言葉にも、激しい違和感があった。
(……俺は……王位なんて、欲しくねぇのに)
側頭部を掻き上げながら、脳裏で独りごちる。
自分が巻き込まれた政争――七庶獄事に至るあらましは聞いていた。
ウィの実父である先王が、嫡男であるウィに王位を譲りたいと考えていたこと。ウィが生まれた時点で世子だった、現国王・光海君の側近たちが、それを阻止する為の手段として、手始めにウィの父を殺したこと。
その後、光海君が王として即位したあと、長兄の臨海君を始めとし、ウィ自身、ウィの甥に当たる綾昌君が無実の罪で王族の地位を剥奪され、追放の末、ウィ以外は命を落としたこと。
それに連なり、ソボンも連座で宮廷から追放されたものの、現朝廷の不正を一掃すべく、ウィを王に推戴して反正を起こすつもりでいること――
『でも、俺を助け出した時点で、それは早々には難しいって分かってたよな?』
ウィがこう訊ねたのは、牢獄代わりのように見えた洞窟を出て、今いる農荘に移動する間の、馬上でのことだ。
『そうですね』
『俺の記憶がなかったなら、本当にあんたの子だって俺を誤魔化して、逃亡生活に入ることだって可能だっただろ?』
『左様です。一度はそうしましたが、ある時追っ手に追われる過程で、炎に囲まれたことがありましてね。最初に記憶を失われた切っ掛けともなる出来事と同じ状況だったからか、大君様は奇跡的に記憶を取り戻されたのです。その時、大君様はわたくしにすべてを質され、此度は御自ら「反正を起こす、力を貸して欲しい」とわたくしに仰いました。わたくしは、危険である旨を大君様にお話申し上げ、何とか思い留まって頂こうとしましたが、大君様のご意志は固く……』
『だったら、今回また、俺は記憶を失くしてるんだ。知らん振りして、今度こそ一平民として隠れ住むにはいい機会だったろ』
正論を突いてやると、ソボンは瞬時、息を呑んだような表情になった。しかし、すぐに『仰る通りですが』と挟んで言葉を継いだ。
『先に記憶を取り戻された折も、最早隠れ住む生活には限界が迫っておりました。最初に大君様が焼き殺され掛けた時から、八年は経っておりますし、わたくしもただ漫然と八年を隠れ住んでいたわけではございません。大君様御自らご決心された機に、決起へと本格的な準備に入っておりました。折悪しく、大君様の二度目の記憶喪失という不幸に見舞われはしましたが、今少しのところまで準備は整っておりますゆえ、大君様は安心して我らにすべてをお任せくださいませ』――
(……何っか納得いかねぇんだよな)
ウィはもう一度、脳内で吐き捨てる。
ソボン父娘の態度には、率直に言って何か、違和感のようなものしか感じない。
もし本当に、ソボンが親代わりとなって育ててくれたのなら、記憶がまったくなくてもそれなりに情のようなものを感じるはずだ。
しかし、ソボンに対して持てるのは、不信感だけだ。特に鍛錬の際、常に手加減されているように思えることも、それを掻き立てる。
ナギョンにしても同じだ。
一緒にいて落ち着かないと言おうか、ぽっと出に出会った少女を宛がわれた印象だけがあると言おうか――このまま彼女と人生を共にするということに、違和感と拒否感しかないのはなぜだろう。
これも自分の性分上、一度愛したら、たとえ記憶がなくなってもしっくり来るはずで、しかも生涯放さないという誓いでも立てていそうだ。
だが、やはり惹かれない。吸い寄せられるような、抱き締めていないと居ても立ってもいられないという馴染んだ感覚が、皆無と言っていい。
(……早く、記憶を取り戻さないと)
これ以上ここにいると、自分が自分でなくなってしまうような、焦燥感だけが迫り上がる。
もちろん、記憶がない時点で『本来の自分』ではない、ことは確かだ。が、そういうことではなく、もっと根本的なところで、相手の言うなりに流されてしまうことには、恐怖に近いものがある。
ここに至るまでに、幾度かソボンには、外へ行きたい、本当に自分が永昌大君だというなら、兄姉に会わせて欲しいと訴えたが、やんわりと拒否され続けていた。
『何も、心配なさる必要はございません。万事、この父にお任せを』
これが決まり文句なのだが、こちらの言うことをまったく聞き入れる気がない気がするところが、余計にウィの中の不快感を増幅させた。
(心配とか、そういう話じゃない。第一、俺が本当に大君なら、何で実の兄姉に会わせてくれねぇんだよ)
俺が本当は偽者だからじゃないのか、と食って掛かったこともあるが、ソボンの、何を考えているか分からない微笑は崩せたことがない。
ウィは、肩先に空いた手を置いて、首をクルリと動かした。
加減されているとは言え、ソボンとの手合わせで、身体は思う通りに動かせることは分かっている。
(……しゃーない。そろそろやるか)
チラリと後ろを付いて来るナギョンへ目をやる。
彼女が『実質的な妻』だということには、未だ懐疑的だ。けれど、確かなことがある。
彼女は、監視役だ。『妻』という名目で、常に傍にいることに、最近は何となく気付き始めていた。
思えば、ソボンの目が離れれば、いつの間にか彼女のほうが傍にいるのだから、もっと早く気付いてもよさそうなものだった。記憶がない、ということで、判断が鈍っているのかも知れないけれど、これ以上ここにいればもっと判断力に霞が掛かってしまいそうだ。
(……やるなら、コイツが監視の時だな)
もう一度、振り返ることはせずに、ナギョンのほうへ視線だけを動かす。
いつも全力でないと言っても、ソボンの力量は、それなりにあると思っていい。ここを抜け出すだけでズタボロになっていては、話にならない。
妻を名乗る割には、あまり対話をしないので、ナギョンのこともよくは知らない。
普段の身のこなしを見ていれば、使えるほうだということは何となく分かるが、正確な武術の腕は分からない。だが、ソボンより下だというほうに賭けるしかない。
今夜の様子によっては、今夜中にここを出よう。
そう決めると、ウィは前を向いて、居住区へと足を速めた。
©神蔵 眞吹2026.




