第五章 停戦協定
「お父様が亡くなったのは、あんたの所為よ!! あんたさえいなければ、今頃お父様はまだ生きてたわ! あんたが存在してなかったら、イ大監だって、悪巧みする理由がないじゃない!!」
シアさえ、存在していなければ――それは、シア自身、やはり薄々、時折脳裏に過ぎる言葉だった。
自分さえ生まれていなければ、父王は世子の座をすげ替えることなど考えず、寿命を縮めることもなかった。母も貞明姉も、降格の憂き目を見ることもなく、光海兄を脅かすこともなく――その思考に、脳内が程よく支配された頃、隣でヒュッと息を吸い込む音が聞こえて、無意識にそちらへ視線を向ける。
フェイジェンの手が振り上げられそうになるのを視界へ捉えるなり、シアは反射でその手首を掴んだ。
「シア!」
「じゃあ、どうすれば満足だ」
先刻とは、打って変わって凪いだ気分で、シアは静かにナギョンを見据える。
「あんたは、俺を殺したいのか。それとも、俺が自害すればいいのか?」
「開き直らないで!」
シアの問いに、ナギョンが殊更激昂して行く。
「お父様はあんたの所為で死んだの! 詫びる気はないの!?」
シアは、顔を強張らせ、息を呑んだ。言われて初めて、自分は彼女に、謝罪も礼も言っていないことに気付く。
チラリとフェイジェンに目を向け、そっと手を放した。
「シア」
険しい表情で、シアとナギョンの間に視線を行き来させるフェイジェンに、目だけで頷いて見せると、改めてナギョンに向き直る。
胡座を掻いた膝の横へ拳を突いて、深々と頭を下げた。
「……申し訳なかった。この八年間、あんたとあんたの母上から、父上と夫を奪って来たこと、挙げ句に生きてあんたたち家族の許へ戻せなかったこと……正直、詫びの言葉もない」
今度は、ナギョンが息を呑む気配がした。
「それとは別に……言われてもあんたは嬉しくないだろうけど、あんたの父上がいなかったら、俺は今ここにいない。心の底から感謝してる。あんたの父上に、改めて礼は言えないままだったけど……ありがとう、ございます」
詫びの言葉は色々あるのに、なぜ、感謝の言葉は『ありがとう』しかないのだろう。それ以上を表す言葉があれば、絶対にそれを使うのに。
「……それで満足するつもり? 一人でスッキリしてんじゃないわよ」
「分かってる。あんたの父上が、本来享受するはずだった幸福を、俺の為に全放棄させたんだから、恩返しも償いも、する義務はあると思ってる。あんたと、あんたの母上が満足するまでな」
まだ頭を下げたままのシアには、沈黙してしまったナギョンが、どんな表情をしているかが分からない。
「あんたの母上にも、直接謝罪はしたいと思ってるけど……」
ゆっくりと上体だけを上げ、目線は落としたままで言い淀む。
それを実行するには、やはり懸念があるのだ。今の状況下で、シアがナギョンの自宅へ赴くのは、あまりにも目立ち過ぎる。
その行動が、すぐにも敵方に知れたところで、即ナギョンたちの命がどうこう、ということにはならないだろう。
仮に、綾陽君方に知れた場合、シアに対する人質として考えるだろうから、すぐに危害を加えることはないと予想できる。加えて、連れ去って拘束するということは、イチョムの肝煎りで今の職場にいる彼女たちが消息を絶つということである。そうすれば、イチョムたちに警戒されるというところを考えないほど、綾陽君もバカではないはずだ。
また、ソボンが相手でも同じことで、彼に知られれば彼女たちへの監視を戻されるだろうけれど、すぐに拘束したり、危害を加えることはないと思っていい。
だが、シアとしては、彼女たちの身に、これらの危険を近付けたくない。
もっとも、それ以前に、ナギョンがすでにシアに接触しているこの状況のほうが大問題だった。これでは、彼女や彼女の母親の身の安全を、現状維持的に担保することも難しくなっている。
彼女たち母娘の護衛として、シアが左補盗庁へ潜入してもいいが、シアはすでにそこの大将であるハンに、面が割れてしまっている。女装しても、恐らく誤魔化せない。
フェイジェンが潜り込むにしても同じことだ。右補盗庁のほうへ潜入しても、現状、補盗庁全体がハン、延いてはイチョムの支配下にある。
ナギョンたちのことを差し引いても、補盗庁への潜入は最終手段だ。
考え倦ね、思考にまで落ちた沈黙を、不意に音もなく滑った障子戸が破った。
部屋の外の通路に姿を現したのは、綾陽君だった。その背後には誰か、大柄の人物がいるようだったが、障子戸の陰にいる為、顔が分からない。
「ファベク……様!?」
真っ先に反応したのは、ナギョンだ。
「どうして……ここに」
「君がバカ正直に香月楼に来たって報告受けたんでね。僕もある人に確認したいことがあって、訪ねて連れて来たんだ」
綾陽君が障子戸を広く開けると、陰からソボンが顔を見せた。
シアと目が合ったソボンは、申し訳なさそうに会釈する。シアは、覚えず漏れそうになった舌打ちを呑み込んだ。
互いに、騙したままにしていた相手が同じ場所へ集って、この場はタダで収まるわけがない。
「フィセ様も……?」
一人、この事態をあまり重要視していないナギョンが、ただただ驚いた声を上げ、目を丸くしている。まったく、ある意味で平和な女だ。
「言っとくけど、ソボンさんがナギョンさん母娘に、フィギルさんの遺体を返還がてら、接触してるのも知ってたからね。折角の機会だし、皆本音で話そうよ」
目だけが笑わない笑顔で言った綾陽君は、ソボンに向かって部屋へ入るよう手招いた。
仕方なく、と言った様子でソボンが入室したあと、綾陽君が扉を閉じると、さすがに室内が狭くなった感がある。
それを気に留める様子もなく、綾陽君は言葉を継いだ。
「さて。ぶっちゃけ僕にはもう余裕がないから、単刀直入に訊くよ。ソボンさん」
「はい、綾陽君様」
「ナギョンさんと、彼女の母親に接触したのはどういう魂胆?」
瞬時、躊躇った様子を見せたソボンは、座り込んだままだったシアのほうへ歩を進め、シアに臣下の礼を取った。
「我が主は、最初からこのお方のみ。私は、我が君のご命令により、綾陽君様の配下を演じていたまで」
「どういう意味なの、ウィ。まさか、この期に及んで王位が欲しくなった、とか言わないよね」
シアは、はぁーッ、と盛大に溜息を吐いて、どうするかを迷う。
ソボンにした説明通りに『応』と言えば綾陽君を刺激するし、逆に『否』と言えばソボンを刺激する。そしてどちらも、『方便でした』が通じる相手ではない。
少なくとも、シアの流刑前に別れた時点での綾陽君は、話の通じる相手だったはずが、今はそうではなくなっている。だが、二人を武力で突破するのは難しい。仮に、シアがこの場に一人だったとしても、だ。
綾陽君の正確な腕は知らないが、ソボンは間違いなく強い。いくらあの時のシアが、頭に血が上っていたとは言え、抜く手を見せない抜刀を、寸前で止めて見せた。あの力量は、侮れない。
「……話し合いをしよう、って言ったら、ファベク兄上は応じてくれるのか」
ゆっくりと立ち上がりながら、半ば掠れるような声で問うと、綾陽君は瞬時、驚いたように目を見開いた。
「……どんな話し合い?」
「まず、俺の言うことを全部信じてくれるって前提じゃなきゃ、話す意味はないんだけど」
「聞いてみないと分かんないよ。ウィこそ、僕の言うこと信じてくれる?」
「先に信じねぇ姿勢見せたの、そっちだろ」
「覚えがないなぁ。いつの話?」
「こないだ、河原で殺し掛けてくれたじゃねぇか。その時、俺言ったよな。王位は要らねぇって」
ソボンが激しくこちらを見据える気配を見せたが、シアは構わなかった。
綾陽君のほうは、内心の見えない微笑を浮かべ続けている。
「なのに、あんたは信じてなかった。俺の言う『やるべきこと』は王位に座ることだろって、決め付けて掛かってた」
「じゃ、今からでも聞かせてよ。ウィがすべきことって、何なの?」
「俺に掛けられた冤罪を晴らすことと、七庶獄事を起こした連中に報復することだ。俺の名誉が回復されれば、自動的に母上や貞明姉上の連座の罪だって晴れる。そうすりゃ、幽閉されてるってのに暗殺の危険に晒されることもなくなるからな」
「でも、そうしたら、君が生きて世に出ることが不可欠じゃないの?」
「何で不可欠なんだよ。要は、俺の冤罪が晴れて、名誉が回復されりゃいいんだ。そこに俺が生きてノコノコ登場する必要なんて、毛ほどもねぇだろ」
「大君様! では、王位に座る気になったというのは、やはり偽りだったと!?」
綾陽君が答えるより早く、ソボンが割って入る。が、シアは言葉の代わりに彼の鳩尾へ足蹴りを喰らわせた。
息を詰めるような声を漏らし、身体を硬直させたソボンを床へ俯せに押さえ付け、彼の片腕を背後へと思い切り捻り上げる。
「うるさい。今、俺がファベク兄上と喋ってんだ。人が話してる時に、会話に割り込んじゃいけません、って、基本的な礼儀は教わってねぇのか?」
「ッ……、し、かし」
苦しげにしながらも言い募るソボンの腕を、折れる寸前まで捩上げると、ソボンはようやく、不承不承ながら口を噤む。
「ってわけで、コイツ話が全然通じねぇんだ。話通じねぇ相手を黙らせて、且つ周りに被害が及ばないようにするには、コイツの要求に頷いたような振りしながら、兄上の配下に入るように誘導するほかなかったんだよな。兄上はどう? まさか、この期に及んで、まだ兄上も話が通じない、なんて言わねぇよな?」
ソボンとシアのやり取りを、半ば唖然として見ていた綾陽君は、引き攣ったような笑いを浮かべた。
「……仮に十割、君が王位に座るつもりがなくても怖いな。あの可愛かったウィが、そんな悪知恵の働かせ方、どこで覚えたの」
「こっちの台詞だ。あの優しかった兄上が、俺の言葉を疑うようになるなんて、この八年の間に何があった?」
しばし、沈黙の中で睨み合ったが、先に静寂を破ったのは綾陽君のほうだった。少し戯けるように、「分かった」と言って両手を挙げる。
「但し、君の言葉をまだ十割信じるわけにいかないから、一時休戦ってことでどう?」
休戦も何も、噛み付いて来たのはそっちのクセに、と思いつつも、シアはそれは口に出さずに、「構わないぜ」と応じた。
「停戦期限は?」
「取り敢えず、反正が無事に成るまで、かな。で、手始めに、彼をどうする?」
綾陽君が、シアに押さえ付けられたままのソボンへ目を向ける。
「さっきも言ったけど、コイツ、全っ然話通じねぇぜ。俺の血筋を盾に、どーっしても俺に王位に座ってもらうんだって聞かねぇんだ。俺はめっちゃ言葉尽くして、拒否ってんのにさ」
シアは、肩を竦めて瞬時ソボンを睨め下ろし、綾陽君へ視線を戻した。
「つーわけで、コイツの説得は、もう兄上に任せる。『どうか綾陽君様の配下にしてくださいませ』、って、何がなんでも頭下げさせろよ」
「分かったよ。じゃ、彼の身柄は僕が預かるね」
「頼んだ。ついでに、コイツの仲間とやらも、拘束しとくほうがいいかもな。コイツの情報網までは、手ぇ回んねぇかも知れねぇけど」
「それは大丈夫だよ。多分ね」
「どういう意味だよ」
「だって、ソボンさんの離反なんて、今この場でしか分かってないことでしょ? だったら、ソボンさんにはどっか、地方に出張に行ってもらった体で、情報網はこっちで掌握しとくから」
「まあ、何でもいいよ。コイツがトチ狂って、ウチの母上や姉上たちに危害加えなきゃな」
「フィギルさんの奥方とお嬢さんにも、でしょ?」
彼の視線に釣られるように、視線を向けた先にいたナギョンと、目が合う。直後には、「えっと……話が全然見えないんだけど」とナギョンは挙手した。
「危害を加えるってどういうこと? それに、……ソボンって? その人は、ユ貰冊店のフィセ様、でしょ?」
「『ユ』は確か、親戚の姓で、フィセは字だ。それに詳しく話すとあんた、もう逃げ道がなくなるぜ。悪いけど、そんなに容量でかくねぇだろ?」
「なっ、何の容量よ、失礼ね!」
何を思ったのか、ナギョンは自分の身体に両腕を巻き付けるようにしながら怒鳴る。
シアは、呆れたように細めた流し目をくれた。
「……何勘違いしてんのか知らねぇけど、俺が言ってんのはココの容量だよ」
言いながら、シアは自身の頭を、空いた手の人差し指で、ツンツンと突く。一瞬でシアの言いたいことを理解したのか、ナギョンは「余計失礼よっっ!!」と更に激昂した。
が、すぐに深呼吸すると、むっつりとした表情のまま、「とにかく」と言葉を継ぐ。
「何だか分からないけど、危害加えられるようなことなら、知らないほうが危険だってことくらいは理解できてる。ちゃんと話してくれない?」
どこか怒ったような目つきでシアを睨め付けるナギョンと、瞬時視線を見交わしたシアは、フッと吐息を漏らしながら瞼を伏せ、視線を逸らした。
できることなら、深い所まで立ち入って来ないで欲しいのが本音だ。だが、彼女の性格と能力上、知りたければ嗅ぎ回るくらいのことはできると思っていい。
下手に探り回られた挙げ句、余計面倒なことになる確率も低くはない。
「分かったよ」
答えつつ、ソボンの腕を捩上げていた手を放す。
拘束が弛んだ隙を逃さず、起き上がろうとするソボンの後頭部を透かさず捉え、体重を掛けて顔を床へ叩き付けた。
「って、ウィ!?」
「驚いてるヒマあったら、何か縛るものくれねぇ?」
素早くソボンの両腕を後ろ手へ纏めていると、フェイジェンも無言で彼の足許を拘束する。
まだ意識を手放すところまで行っていないのか、僅かに藻掻くソボンの背中を、全体重を掛けて足で踏み付けた。
「そんなのとっさにあるわけないでしょ」
「おい、ナギョン。あんたの長衣、貸してくれ。っても、返す当てはねぇけど」
瞬時、呆れたような顔になったナギョンは、「分かった、あげる」とあっさり言い、自身の長衣を差し出した。
「ファベク兄上。それ裂いて、紐状にするくらいはできるよな?」
同じく、一瞬唖然とした顔をした綾陽君は、「はいはい、了解」と肩を竦めて答え、ナギョンから長衣を受け取り、長い紐状に裂き始めた。
相変わらずモゴモゴと蠢くソボンの身体を油断なく押さえながら、シアはナギョンに向かって口を開く。
「まずコイツ。本名は、ホン・ソボンって言って、永昌大君が失脚する事件の前の事件で、朝廷から煮え湯飲まされてる。そこから真面目に、現朝廷を引っ繰り返す算段始めたらしい。俺が、先王殿下、唯一の嫡男ってことで、俺を王位に就けることに、異常なくらい固執してる。だから、あんたも一時人質に取ってた。俺に、自分から『王位に就きます』って言わせる為にな」
「何であたしが人質に取られることで、あんたが王位に就くのを承諾することになるわけ?」
「さっきも言ったけど、フィギルの家族だから、義理があんだよ。俺の個人的な感情だけどな」
シアは、肩を竦めて言葉を継いだ。
「ま、俺が王位に就くのを了承する為に取った人質は、あんただけじゃない。あんたの母上や、俺自身の母上と姉上たちも含まれてる。王位に関して、俺が首を横へ振った瞬間、端から殺す準備があるって脅迫して来やがったんだよ」
ナギョンは、見るからに『サイテーね』と言いたげな顔で、シアの下にいるソボンを見下ろす。
「……じゃ、ファベク様は……」
「ファベクは字で、『ク』姓は誰のか知んねぇけど」
「母方の姓だよ」
綾陽君が、ソボンの両手を、やっと出来上がった即席の拘束紐で、きつく縛り上げながら補足した。
「……だそうだ。世の中に知られてる名前は、綾陽君。先王殿下と、先王の側室の一人・仁嬪様の孫で、俺の甥っ子」
「嘘!」
ナギョンは、反射的に、シアと綾陽君との間に、視線を行き来させる。彼女の言いたいことは明らかだ。
「嘘じゃねぇよ。先王殿下には、合計して二十九人子どもがいる。俺はその内の、下から二番目なんだ。現国王殿下とも三十一離れてるし、甥姪のが年上か同い年なんて、珍しくねぇ」
ナギョンは、何とも言い難いという表情で、はーっ、と長い溜息を吐いた。
「……で、ナギョンに兄上が近付いた理由までは、俺も知らないんだけど?」
説明してくれ、という含みと共に、綾陽君を見る。
「さっきも言った通り、ソボンさんがナギョンさん母娘に接触したって知ったからね。ソボンさんがそうした真意を知りたかったんだ。簡単には漏らしてくれなかったけど」
言いつつ、綾陽君は、今度は足を即席の拘束紐で、グルグル巻きにする。
「まったく、一貫してるというか、ある意味ブレがないよね」
「言ってろ。いいメーワクだ」
やっと厳重な拘束が要らなくなり、シアは立ち上がって念の為にソボンの背に足を乗せたまま綾陽君を見た。
「ところであんた、無期限謹慎言い渡されてるって聞いてるけど、こんなに派手に動き回って平気なのか?」
「大丈夫だよ。いざとなれば、明国には彼女が取り成してくださるだろうし」
チラリとフェイジェンに向けられる視線から、シアは彼女を背後へ庇うように、彼女の手を引いた。
「ふざけんな。朝鮮国のイザコザに彼女巻き込もうってんなら、即刻停戦破棄してもいいんだぜ」
「あー、怖。冗談だよ」
綾陽君を睨め上げるような視線に、彼は肩先を上下させた。
「でも、そんなに彼女に入れ込むなんて、意外だね。どういう関係に発展したのさ」
「ご想像にお任せするよ」
これ以上、ソボンに弱みを握られるのも冗談ではない。まだ意識を保っていそうなソボンの手前、彼女と夫婦になったなんて言いたくなかった。
「んじゃ、とにかく香月楼の人にソボンさん、運んでもらっちゃおうか」
と言った綾陽君が、パンパンと大きく手を叩く。
程なく、香月楼の私婢の一人が顔を見せた。彼女は綾陽君の用事を言い付かると、「男手を連れて来ますので、しばしお待ちを」と頭を下げ、一旦退がって行く。
それを見送りながらシアは、「……あのさぁ。言い難いんだけど」と口を開いた。
「何? 僕に用?」
「そう、兄上に。あんたの人間不信が、これ以上ひどくなる前に、一応言っとくけど」
「うん」
「実はミョンギルも、俺の配下なんだよね」
「……はい?」
それまで、感情の読めない微笑を浮かべていた顔が、盛大にひん曲がる。
シアは構わず、ひとまず言い難いことはとっとと言ってしまえとばかりに、早口で先を続けた。
「いや、だからさ。ミョンギルは有り体に言えば俺が兄上んとこに潜り込ませた間諜だったわけ。もちろん、その下の影契も」
「えっと……つまり?」
「つまり、ここは俺の拠点でもあったわけ。つーか兄上、俺がここにいるのは知ってたクセに、それを疑問に思わなかったのは何でなんだよ」
手勢がすでに、彼方此方地方へ飛ばされた所為で、やはり余裕がないのだろうか。
同情するような流し目をくれると、綾陽君は小刻みに身体を震わせた末に、「揚げ足取らないでよね、腹立つ~~~~ッッ!!」と叫びつつ、無意味にシアを指差した。その間合いで、「失礼致します」と先程退がって行った女性が、開いたままだった障子戸の外から姿を見せる。
共に来た数人の男たちが、縛り上げられたソボンを持ち上げ、室外へと運び出して行った。
「……ソボンの幽閉先はあとで、ミョンギルにでも確認しとくよ」
「だっから、掌返したみたいに、早速ミョンギルさんの上官面すんの、やめてよね、ムカつく!!」
「……そんなにムカつくんなら、停戦解除か? 言っとくけど、今なら俺も体調万全だし、丸腰でもある程度は戦り合えると思うぜ」
拳にした右手を、左掌にパチンとぶつけながら問うと、綾陽君は何とも表現し難い顔になった。そして数瞬の沈黙の末、渋面のまま、
「……そんなこと、言ってないでしょ」
と呟くように告げる。
「んじゃ、停戦続行、反正終了までは手を組む、ってことでいいんだな」
「いいよ。念の為に言うけど、裏切って背中から刺すような真似、しないでよね」
「そっくりお返しするよ、その台詞」
こんなやり取りをしなければならない間柄になったことが、シアとしてはやはり寂しい。
綾陽君はどう思っているかは分からないまま、彼はシアに背を向け、退室して行った。
©神蔵 眞吹2026.




