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第三章 次なる策略

 イノン宅へつどった影契ヨンギェの構成員にあとを任せ、シアとフェイジェン、シベク、そしてパク・ウンソとパク・チウィがイノン宅をあとにしたのは、それから三日経ってからだった。

 その、北上すること半月と少し。

 シアは今、鏡城府キョンソンブにあるイ・グァルの邸宅敷地内、舎廊房サランバンの中で、家主やぬしと向かい合っている。引き続きくっついて来たシベクは見張りに部屋の外へ立ち、フェイジェンは、イノン宅を訪れた時と同じく、シアの背後へ座っていた。

「――で、パク・ウンソとパク・チウィは、都に置いてきたわけか」

「んにゃ、正確には都近郊にある、影契の拠点だな。うっかり都の中に入れたら、誰の目がどこに光ってるかも分かんねぇし」

 その点、影契の拠点なら、周囲は見張りだらけだ。彼ら自身、ウカウカと脱走もできまい。

「だったら、領議政ヨンウィジョン様のお宅に置いて来てもよかったんじゃ?」

「それも考えたんだけどさ。俺らの目がなくなったら、家族共々ドロンするかも知れねぇじゃん?」

「なるほどな」

 家人けにんの手前、上座に座したクァルは、立てた膝に肘を突き、拳を顎へ当ててシアに目を向けている。

「それで、大君テグンサマは、ここまで何の用だ」

「本気で分かんねぇから訊いてる?」

 下座で胡座あぐらを掻いていたシアも、気持ち身を乗り出すようにしながら、クァルに問うた。

 クァルは、外からは何を考えているか分からない無表情でシアを見つめていたが、やがて吐息と共に、口をひらく。

「実は、任地こっちに発つ前に、反正パンジョン準備軍から参加の打診を受けた」

「反正、準備軍?」

 シアは、眉根を寄せる。

「誰のことだ」

綾陽君ヌンヤングンサマ配下だと、使いの者は言っていたな。確か、キム・リュとイ・グィ、とか」

 今度は、シアの眉尻がピクリと動くが、クァルは構わず続けた。

「出発の直前に、シン・景裕ギョンユという者まで来て、しつこく勧誘するから、まあ、考えとくとは言ったが」

「シン・ギョンユ?」

 初めて聞く名だが、とシアは頭を巡らせる。

「……その字面じづら、もしかして、シン・ギョンジンの親戚か誰かか?」

「ああ。彼の、すぐ下の弟だ」

「はーん……」

 綾陽君が反正を成した暁には、ガッツリ縁故政権の出来上がりだ。今から先が思いやられる。

「で、あんたはどうするつもりなんだ?」

「さてな。今のところ、綾陽君サマと徒党を組んでどうこう、という気は更々ないが」

 意味ありげに言葉を切って、クァルはいつしか伏せていた目を上げる。

「正直、今後もことあるごとにこういうこと(・・・・・・)は起きるだろう。殿下の権力も、あの方のご意思がしっかりしてないことには、あまり役に立たんということは、今回でよく分かった。まあ、前々から薄々分かっていたことではあるがな」

 これまでは、光海クァンヘ兄に恩があるので見ぬ振りをしていたが、駄目押しのように再確認した、というところだろうか。

「……つまり、光海兄上を見捨てる。そういうことか?」

「そうはっきり言ってしまうと、身も蓋もないがな。あの方ご自身は悪い方ではないし、現状、外交の腕は、玉座を退いていただくには惜しい。これで、臣下にきちんと意見できれば言うまでもないのだが……」

兄弟姉妹きょうだいのことになると途端に裁断が甘くなるし、その辺、筋が通らないトコ突っ込まれたら光海兄上が反論できねぇ部分も出て来る。臣下が付け入る隙作っちまってるから、いざって時、正論を通せない。だったら、光海兄上が王位にいてももう、あんまり意味がねぇ。あんたが言いたいのは、そういうことだろ?」

「まったく過不足なくご名答をどうも」

 パチパチ、と気のない拍手をしたクァルは、真顔でシアを見つめる。

「しかし、あの綾陽君サマを王に戴くのも、どうしてどうして気が乗らん。こういう場合はどうするべきかな、大君サマ」

「……あんたまで俺に、王位に座れって言うのか?」

「一言も言ってないぞ。まあ、二択ならお前さんのほうがマシだとは思うがな」

「マシ、程度か」

 クス、とシアは小さく苦笑する。するとクァルは、ニヤリと笑い返した。

「少なくとも、お前さんなら、大半の兄上方を兄と思わず処断できそうだが?」

「否定しねぇよ。少なくとも、仁城インソン兄上と慶平キョンピョン兄上辺りは、遠慮なくれる。色々積もり積もってっから」

 自嘲気味に肩先を竦めて、シアは続けた。

「だからこそ、俺は王になれないとも思ってる」

「どういう意味だ」

「家族を大事にしろって説いてる国の頂点が、遠慮なく兄弟を殺った結果、引き下ろされたヤツもいるだろ。十代目の、燕山君ヨンサングンがいい例だ。そーゆー点引き合いに出せば、光海兄上を引き下ろす口実にもなるだろうな。更に言うなら、明らかに間違いなのに、親兄弟をいさめるな、って法律にも、俺は納得してない。俺が王になったら、国王権限で簡単に破って、また反正起こすヤツが出るぜ、多分」

「……公平に見て、王の考え方が間違いかどうかはともかく、内乱が続くのは確かに問題だな」

「だろ? ほかにも俺じゃ問題がある」

「どういう問題か、訊いてもいいのか?」

きさきの問題だ」

「妃?」

「そ。俺にはすでに心を捧げた女がいる」

 と言いつつ、シアはフェイジェンのほうへ、チラリと投げた視線を、すぐにクァルへ戻す。

「俺が公式に生き返って王になったら、彼女を王妃に迎えることになるけど、そうなったら外交的にはちっと障害がデカ過ぎる。でなくても、俺は彼女以外の女を抱く気はねぇんだ。ぶっちゃけ、俺にとっちゃ、彼女以外は女じゃないし」

 あまりにも明け透けな話に、瞬時呆れたような顔をしたクァルだったが、余計なことは言わなかった。

「つまり、側室を置くつもりがない、と?」

「そゆこと。王の仕事が後継ぎもうけるだけなら、いっそ慶平兄上でも座らせとけよって話だけどな」

「それはそれで問題にならないか? 何しろ、あのバカ王子が、寡婦を手込めにして、自害に追いやったのは有名な話だからな」

「……まあ、それも否定しねぇよ」

 完全に失言だった。と思いつつ、「だけど、ファベク兄上はファベク兄上で問題ありなんだよなー」続ける。

「それは否定できんから、何とも頭の痛いところなんだが……」

「今の世子セジャって、どんな人だ?」

「甥っ子だろう。付き合いがなかったのか?」

「あったよ。流刑にされる前は、弟みたいに可愛がってもらってた」

「なら分かってるんじゃ」

「記憶は当てにならないって、ファベク兄上で思い知ったからな」

 クッ、と覚えず自嘲の笑いが漏れる。

「引き下ろす王の子どもは一緒に廃位されるから、本来なら論外だ。でも、もしチル兄上が王のうつわなら、一考の価値はあるんじゃないかと思ってさ」

「もし、世子様を王位に据えるなら、現世子嬪(セジャビン)〔皇太子妃〕様はどうする」

「んーなの、祖父じいさんのイチョムが処断されるんだから、一緒に廃位に決まってる」

 即座にシアは切って捨てた。

「現世子嬪サマにはとんだとばっちりで悪いけど、イチョムの血筋なんて、欠片でも権力の座に残すわけにいかないからな」

「現世子嬪様に会ったことは?」

「顔見たことだけならあるよ。あんま印象はよくないけど」

 目が合っただけで睨まれたことがある、と無意識に思い返す。外孫とは言え、あのイチョムの孫だ。永昌大君シアを良く思っていないことだけは、確かだろうが。

「……まあ、それも否定できんな」

 クス、とクァルが苦笑する。

「ともあれ、お前さんは行動を起こすつもりだろう?」

「分かる?」

「ああ。まあ、お前さんが号令するなら従っても構わん。コトを起こす時は呼べ。飛んで行く」

「……マジで言ってる?」

「大マジだ。言ったろう。お前さんとは境遇が似ている。汚名をすすぎたいのなら、全面的に協力しよう。――いや」

 言葉を切ったクァルは立ち上がり、シアの許へ歩むと、片膝を突いた。

 立てたほうの膝へ手を置き、もう片方の手を拳にして床へ突き、こうべを垂れる。

「我が主君に、ご協力申し上げます。大君様」

 普段なら「気色きしょく悪」と茶化していたかも知れない。が、この時は静かにクァルを見つめた末、シアは「恩に着る」と返した。


***


 鏡城から取って返し、都へと辿り着いたのは、八日後のことだ。

 この日、妓生キセンを装い、都城内に入ったシアは、戦帽チョンモから垂れた薄い絹の布(ノウル)越しに、ソボンの貰冊店セチェクチョムを見上げた。

 後ろには、シベクが妓夫キブを装って立っている。

 フェイジェンは、ミョンギルの管理する妓楼に置いて来た。互いに傍を離れる不安はあったが、都の中に入る以上、慶平君と鉢合わせするほうが嫌だ。

 こちらをチラリと見たシベクに、小さく頷いて見せると、シベクは先に立って店の中へと足を踏み入れる。

「御免。どなたか、おられるか」

 シベクが店内で呼ばわるあいだに、シアも店の入り口をくぐった。

 程なく、奥から「いらっしゃいませ」と言いつつ、ソボンが現れる。

 戦帽を取ると、ソボンは目を見開いた。

「これは……!」

 大君様、と言い掛けただろうソボンは、その先を言葉にすることなく口を噤む。

「急に押し掛けて悪いな。訊きたいことがあって来た。話せるか」

「……どうぞ、こちらへ」

 ここへ、ほかの一般客でも来たら、いくらソボンが商人を装っているとは言え、たかが妓生を相手に低姿勢でいるこの状況を、どう説明するつもりだろう。

 内心で苦笑しつつ、シアは示された奥の扉へと歩んだ。

 扉を潜ると、広々とした室内には、本棚が林立していた。中央に開けた空間には、広机と、周りに椅子が数脚、設えられている。

「お掛けくださいませ」

 好きなところへどうぞ、と示された椅子の一つを、適当に引いて腰を下ろす。

 シベクは、掛けることなく、シアの背後に立った。

「……それで、ご用件というのは」

「うん。父さん……フィギルの遺体のことなんだけど、あんたがここに運んだんだよな?」

「はい」

「今、どこにあるか、教えてもらえるか?」

「わたくしが、ハン前大将(テジャン)様のご遺体を、ご家族……つまり、残された奥方と末の娘御のもとへお届けしたのは、約一月(ひとつき)程前のことです。先日お訪ねした際には、すでに葬礼は終わっておりました」

 葬礼、というのは、葬儀を催す期間のことだ。と一口に言っても、その長さは、王族、正三品チョンサムプム以上の両班ヤンバン、それ未満の両班と平民で違う。

 養父フィギルの場合、元の身分なら、正三品以上の両班という扱いだが、最早彼はすでにその地位は剥奪されている。平民であれば、その期間は一月だ。

 これが王族なら五ヶ月程だが、従三品チョンサムプム以下の両班か、平民の括りなら、もう埋葬まで済んでいる頃だろう。

「埋葬した場所までは、わたくしも調べてはおりませぬ。葬礼と行っても、先にも申し上げましたが、ハン前大将様とそのご家族は、本来なら罪人です。処罰は名ばかりに近いとは言え、大々的にご逝去を周りに報せることはできず、従って葬儀もそれと分かるようにはおこなっていないと存じます」

「そうか……だよな」

 シアは、机へ肘を突き、拳に握った手を口許へ当てた。

「お役に立てませず、申し訳ございません」

「いや。手を引けって言っといて、あんたならそこまで知ってると思った俺の考えが浅かったんだ」

 口許へ当てていた手を振って、立ち上がる。

「それより、フィギルの遺体を、ちゃんと弔える状態で家族のトコに届けてくれたことには、礼を言わないといけないのに、それが遅くなって悪かった」

「いいえ、そんな」

「ありがとう。あんたの思惑がどうあれ、フィギルの遺体をあそこから運び出すことは、俺にはできなかった。感謝してる」

 深々と一礼すると、ソボンは戸惑ったような声で「勿体ないお言葉」と返した。


***


「――ねぇ、子精(チャジョン)兄さん」

「はい、ファベク様」

 短いやり取りをした綾陽君――チョンと、チャジョン、ことキョンジンの末弟であるシン・景禋ギョンインの視線の先にいるのは、一見すると妓生と妓夫だ。

 その妓生は、ノウルの付いた戦帽をかぶっており、チョンがいる場所からでは、容貌は分からない。ただ、妓夫のほうは見覚えのある顔だ。

「あれって、トンシさんだよね?」

「左様ですね」

「ってことは、あの妓生のほうは……」

「十中八九、大君様の変装でしょう」

 この日、通りすがりにソボンの貰冊店の近くまで来たので、訪ねようとした途端、視線の先にいる二人が店から出て来た。それでとっさに、物陰に隠れてしまったが――

「……ウィが生きてるのは知ってたけど……ソボンさんがやっとこっちになびいてくれて、少し安心してたのに……」

 そう、そのはずだ。

 ソボンが、謹慎中のチョンの私邸を訪ねて来て、『今後は綾陽君様の配下としてお仕えします』とこうべを垂れたのは、さして遠い昔のことではない。だのに、その彼が、ウィと接触しているのはどうしてなのだろう。

 ただの世間話に、ウィがソボンを訪ねたとは、到底思えない。

「兄さん」

「はい、ファベク様」

「ナギョン嬢の所に行くよ。彼女は今?」

「恐らくは、ご自宅かと」

「了解」

 答えつつ、きびすを返す。チョンのかぶったカッの端に、短く垂れたノウルが、円を描くようにフワリと舞った。


 ナギョン、ことハン・ナギョンとは、彼女の父・フィギルの遺体を、ソボンが彼女を含む家族の許へ持ち込んだと分かった時から、母方の姓を名乗り、『ク・和伯ファベク』として交流を持つようになった。

 ソボンの思惑が知りたかったからだ。

 この遺体が、まったく知らない人間のそれであったら、チョンも特に気にしなかっただろう。だが、遺体はフィギルのそれだった。そして、ハン・フィギルは、あのウィを炎の中から助け、育て上げた男だ。

 ウィと関係のある男の遺体を、その家族の許へ返す思惑が、チョンにとって良かろうはずもない。

 だが、友人として話すようになってから、さり気なく訊ねたところ、ナギョンからは「よく分からない」という回答しか得られなかった。


『――分からないの? どうして?』

 思わず、詰問のような口調になったチョンに、ナギョンは少し怯えたように肩を震わせてから、『フィセ様は、お父様……父の古い友人だから、としか言わなかったんです』と答えた。

『古い友人?』

『ええ。フィセ様は、何でも、キム・ヂクチェの獄事オクサで、冤罪で朝廷をわれてから、大北テブク派の不正を暴こうと、色々調べ回ってらしたそうなの。で、その過程で、父が亡くなった直後に居合わせたから、折を見て遺体をあたしたちに返そうと、機を窺ってたとか』

『……ふぅん……』


 ナギョンとのやり取りを思い返し、チョンはそっと溜息をいた。

 彼女から聞いたソボンの言い分は、一見もっともらしく思える。ただ、彼女の母、つまりフィギルの妻・チソから話を聞いたところ、フィギルとソボンは、キム・ヂクチェの獄事以前に交流を持っていた気配はないらしい。

 チソも、ソボンの言い分をすべて鵜呑みにはしていないが、とにかく夫の遺体を届けてくれた、という事実に感謝し、深くは追及しなかったということらしかった。

(……あれで、元は補盗庁ポドチョン行首ヘンス茶母タモだってんだから、呆れちゃうよね)

 犯罪捜査をする補盗庁の茶母のおさつとめていたのなら、疑問に思えば調べ回るのが筋ではないのか、などと、少々見当外れな文句を脳裏で呟く。

 その辺り、ナギョンも現役の茶母でありながら、同じく追及していないのが、何だか腹立たしい。

 ただ、相手はあのホン・ソボンだ。

 彼自身、情報網は半端ではなく、幾度か觀察使クァンチャルサも勤めたほどの人物である。そう簡単に、尻尾を掴ませなかっただけかも知れないが――。

「――チャジョン様?」

 ふと、隣にいるキョンインのあざなを呼ぶ声が耳に飛び込んで来て、チョンは我に返った。

 顔を上げると、ノウル越しに、今まさに会いに行こうとしていたナギョンが歩いて来るのが見える。彼女から見れば、ノウルで隠れたチョンの容貌が分からなかったので、一緒にいて、顔を晒しているキョンインに声を掛けたのだろう。

「ナギョン嬢。こんな所で何を?」

 話し掛けられた手前か、キョンインが答える。

「最近、家にいても煮詰まっちゃって」

 肩を竦めた彼女は、「久々に、訓鍊院フルリョヌォンで稽古でもして発散しようかと」と続けた。言われてみれば、確かに彼女の格好は男装で、木刀を携えている。

 訓鍊院とは、武科の試験や、武術鍛錬、兵曹ピョンジョ〔軍事全般統括部署〕の講習などを請け負う官庁だ。

 ただ、壬辰倭乱イムジンウェラン後、組織改変があり、その職務のほとんどは、新設された訓鍊都監フルリョントガムへと移行した。その為、訓鍊院の機能は大きく縮小され、今やすっかり窓際部署状態だが、鍛錬施設はそのままになっている。よって、時に今、ナギョンがしようとしているように、茶母が鍛錬に使っても、大目に見てもらえるらしい。

「煮詰まるって、何に?」

 ノウルを上げながら問うと、ナギョンは瞬時、目を見開いた。

「ファベク様だったんですね」

 今、相手をはっきりと認識したという顔で、彼女は軽く会釈する。

「そう、僕だったの。で、何に煮詰まってるの?」

 問いを重ねると、ナギョンは何とも複雑な表情で押し黙った。

 言いたくない、というよりは、言っていいのか迷う、という顔だ。

「いいよ。お母上には内緒にするから」

 苦笑したチョンは、唇に人差し指を当てながら、人の邪魔にならない道の端へ、彼女をいざなった。同様に苦笑を浮かべたナギョンは、再度肩先を上下させて、チョンに続く。

「……父の葬儀が終わってから、何か色々気が抜けちゃって」

「それで、どうして『煮詰まる』に繋がるの?」

「父のことで、職場じゃ腫れ物扱いだってこと、ファベク様にも話したでしょ?」

 確認するように問われ、チョンはまたも苦笑した。

 彼女の父・フィギルが、突如職務を放棄し、失踪したかどで、その地位を逐われ、彼女の母親と彼女自身だけが、その連座で身分を落とされたことは、チョンも知っている。その処分が、彼女の姉たちの嫁ぎ先によって、名ばかりのものとなっていることも。

 その為、元々行首茶母だった母はともかく、ナギョンは職場で遠巻きにされ、しかも聞こえるように謂われのない厭味を言われているようだ。

「……そりゃ、面白くないのは分かりますよ。権力ある縁故がいると特別扱いとか、他人ならあたしだってムカつきますもん。でも、いざ贔屓される側になっちゃうと、あたしの意思とは関係ないのに、とか……」

「なるほど。発散する先がないわけね」

 クス、と何度目かの苦笑が漏れる。

 すると今度は、ナギョンは頬を膨らせた。

「皮肉だけど、父が行方不明のあいだはまだよかったです」

「よかったの?」

「ええ。こう言っちゃナンですけど、『父を捜す』って大義名分で、補盗庁に行っても、陰口とか、聞こえない振りができたから。でも父が、その……最悪な形で戻って来て……つまり、どうなったかがはっきりして、何て言うか……目標がなくなっちゃったって言うか……」

「名目がないと、集中することがなくて雑音も耳に入って来やすくなっちゃうし、職場にも行き辛い。そういうこと?」

「……そういうことです」

「でもさぁ。ナギョンさんって、お父上を捜す為だけに補盗庁で茶母やってたの? それとも名目上、処罰された末の配属だから?」

「そりゃっ……!」

 はじかれたように顔を上げたナギョンは、その先を呑み込んだ。ユルユルと口を閉じて、またのろい動作で俯く。

「そりゃ……通い始めた頃は、そうじゃなかった。父だっていたし、茶母の仕事が面白そうだって、それだけで……武術だって好きだったし……」

 しかしそれが、父親の失踪で目標がガラリと変わってしまった。変わったままの目標を追い掛け、気付けば十年近い時が経っていて、その目標が意図せず達成されてしまった時には初心を忘れていた、というところだろうか。

 ふと思い付いて、フッと吐息を漏らすように笑うと、チョンはナギョンの頭を、ポンポンと叩いた。

「じゃ、新しい目標でもあげようか」

「新しい目標?」

 鸚鵡オウムがえしに問うたナギョンの上げた目と視線を合わせ、チョンは笑みを深くする。

「そ。実はねぇ。君のお父上の仇を知ってるんだ」


©神蔵 眞吹2026.

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