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第二章 亡霊たちの誓い

「できることなら、妻と娘だけは助けて欲しい」

 そう言ったウンソからは、それまで彼が纏っていた、どこか太太ふてぶてしく思える空気が薄れている。

「……それもどんだけ図々しい頼みか、分かって言ってんのか」

 問うと、ウンソは沈黙した。

 分かってはいるが、そうは言いたくない。そう認めることによって、これまで自分が敵視していた(元)王族に屈すると見られるのは嫌だ。そんなところだろうか。

「俺が拒否したらどうする。仮にあんたの家族の命を担保するって、俺一人が言ったところで、コト(・・)が終わったらどうなるかなんて分からないんだぜ」

「……それでも……」

 尚も沈黙が続くと思われたが、ややあって、ウンソは口をひらいた。

「それでも、お前が言うなら、口約束でも信用できると思った」

 まるで明後日の答えが返って、シアは、ハッ、と投げるように息を吐いた。

「何だそれ。何を根拠にそんなこと言ってるわけ?」

「全部、曝け出してるだろう」

 先程までとは打って変わり、真剣な表情を浮かべたウンソと、シアの視線が噛み合う。

「何が」

「お前がだ。元王族だからと言って、取り澄ましもせず、私に対する恨みも辛みも吐き出して……自分で言っていることに矛盾を感じていることさえ、全部隠していない。そこが、あのイチョムとは違う」

「一緒にされても嬉しくねぇけど」

 再度、投げ出すように言ったシアに頓着なく、ウンソは自身の上衣チョゴリの袖先を破った。そこに縫い込んでいたのだろう、小さく折り畳まれた紙を差し出す。

「イチョム直筆の念書だ。どう使うかは、お前に任せる。……いや」

 紙――書翰を捧げ持つように直したウンソは、居住まいを正すと、深々と頭を下げる。

「お任せ致します。大君テグン様」

 差し出された書翰をしばらく見つめたシアは、フェイジェンを抱え直しながら、それを受け取った。

「……いいだろう。そなたとパク・チウィはともかく、そなたの家族、及びパク・チウィの家族に罪はない。コトが成った暁には、連座の地位を減ずることと、そなたたちとの繋がりが世間に知れぬように手配することを約束する」

「ありがたき幸せ」

 カラになった両手を床へ突いたウンソは、更に頭を下げた。

 その時、「大君様」とイノンが声を上げる。

「何だよ」

「念の為に伺いますが、その広昌クァンチャン府院君プウォングン様直筆の念書とやらと、ウンソの証言、公的にお使いになることはありますまいね」

 シアは、無表情にイノンを見つめた。

「もし、使うつもりだって言ったら、あんたはどうするつもりだ」

「無論、すぐにも都へ、大君様のことを通報致します。誰か!」

 イノンが声を高くした途端、シベクは素早く扉の外へ出て行った。呼び寄せられた私奴サノを牽制しに行ったのだろう。

 シアは、フェイジェンの身体をそっと横たえると、イノンに抜いた刀を突き付けた。

「悪いな。通報させるわけにはいかない。できればあんたの年齢に免じて、こういう展開だけは避けたかった。だけど、俺は今後の人生の為にも、あんたに遠慮する気は、更々ない。それでなくても、あんたたちは一度、俺の人生そのものを壊して、母方の親戚を粉微塵にした。しかも、あんたたちの勝手な理屈で、だ。その報いは、受けてもらう」

 瞠目したイノンにそう告げ、彼の首へ、躊躇なく刀を振り下ろす。

 かすかに息を吐くような喘鳴ののち、目を見開いたまま、イノンは床へ崩れた。

「大君様……!」

「あんた、これから無条件で俺に従う気があるか?」

 思わず、といった口調でシアを呼んだウンソに、シアは淡々と問う。刀に付いた血を飛ばしながら振り返ると、ウンソは目を見開いていた。

「従う気がないなら、悪いがあんたも道連れだ。イチョム直筆の念書だけでも、証拠能力としちゃ充分だしな」

 つい今し方、ウンソから渡された書翰を、懐に入れながら続ける。

「今すぐ決めろ。自分でやっといて何だけど、こうなったら時間がない。彼女にも悪いけど、あんたの出方によっちゃ、この場で口塞がせてもらう」

 気絶させないほうがよかったかも知れない、と思いながら、シアは横たわるフェイジェンにチラリと目を向ける。

 だが、この短時間で、状況が目まぐるしく変わっている。一度噴出した怒りを制御できない者は、それがたとえ愛しい彼女でも、邪魔でしかない。

(……ま、俺も沸点低い辺り、ヒトのこと言えた義理でもねぇけど)

 脳内でぼやいて、刀をしまわないまま彼女の前に立ち、ウンソに向き直る。

「で、どうする?」

 ウンソはしばし、難しい顔付きで目を伏せていたが、やがてまた、正座していた膝の前へ拳を突いた。

「大君様に、従います」

「……本当だろうな」

「信用できなければ、どうぞお手討ちに」

 今度は、シアが沈黙した。しかし、それは一瞬のことだった。

「大君様」

 と直後、シベクが室内へ滑り込んで来たからだ。

「外の様子は?」

「私奴には『何でもない』と取り繕って、一旦引き取らせましたが、いつまで誤魔化せるか……」

「シベク」

「は」

「この近辺に、影契ヨンギェの拠点はあるか?」

 シベクは瞬時、シアの問いの意味を量り兼ねる、という顔をしたが、すぐに「はい」と答える。自身の疑問を解くのは、後回しにしたらしい。

「ございますが」

「じゃ、あんたの権限で動かせるか」

「その気になれば」

「動かしてもらっていいか?」

「今、影契は大君様のものも同然。ご命令ください」

 当たり前のように言われて、覚えず苦笑する。

「何か」

「いや。それ、当然みたいな顔して顎で使うのも、気が引けるなんてモンじゃねぇんだけどさ……」

 するとシベクは、キョトンとした表情になり、すぐに微苦笑した。

「遠慮なさっている場合ですか?」

「……すいません、場合じゃないです。じゃ、遠慮なく使わせてもらいます、師匠」

 降参するように両手を挙げ、すぐに真顔でシベクのほうを向く。

「ただ、かなり無茶振りもいいトコなんだけど」

「無茶振りにおこたえするのも、臣下の務めなれば、何なりと」

 今度は、シベクのほうがおどけたように答えて、胸元へ手を当て会釈する。しかし、上げられた目だけは真剣だった。


***


『――フェイ』


 不意に、背後から呼び掛けられた気がして、フェイジェンは振り返った。

(シア?)

 今、その愛称でフェイジェンを呼ぶのは、愛しい彼だけだ。

 けれど、フェイジェンを呼んだぬしの姿は、どこにも見えない。

(そう言えば、ここどこ?)

 周囲はまるで、火災でも起きているように、けむりけぶっている。けれど、炎もどこにもない。

(シア?)

 もう一度、周りを見回す。


『――フェイ! 逃げなさい、早く!』


 鋭く促され、ハッとまばたきすると、そこは見慣れない小屋の中だった。

 いや、見慣れない、というのは正確ではない。

 祖父・グォ・維城ウェイチォンが亡くなってから、フェイジェンは祖母・ジャン・思雨スーユーと二人、行商人を装って朝鮮国内を転々としていた。

 商団を運営していた時に比べ、一所ひとところに長く留まることはできなかった。つまり、どこへ泊まっても、馴染む前に次の場所へ移動しなくてはならなかったので、祖父亡きあとの宿泊所は、どこも覚えが薄いのだ。

 そして、商団の時より、たった二人の行商人というのは、表の世界を歩いていると、思ったより目立ったらしい。

 フィギルとシア親子と別れて程なく、フェイジェンたちは錦衣衛ジンイーウェイに追い付かれてしまった。

『私が注意を引くから、その隙にお前は逃げるの』

 そう言われて、フェイジェンは当然のように首を横へ振った。

『嫌よ。お祖母ばあ様を置いて行けない』

 けれど、祖母は厳しくフェイジェンを見据えた。

『お前のお父様とお母様の気持ちを、無にするのかい? 二人は、命を懸けて、お前に長く生きて欲しいと願って、皇宮から送り出したんだよ』

 それを言われると、反論できない。しかし、祖母を置いていくのは辛すぎる。

 その気持ちを知ってか知らずか、祖母は柔らかく微笑んで、フェイジェンを抱き締めた。

『愛しているよ、フェイ。お前がここを生き延びることだけが、老いた祖母の願いだ。私だけじゃない。お祖父じい様もきっと、同じ気持ちだからね』

『嫌、あたしも一緒にいる。大丈夫よ、あたし戦える』

 だが、やはり祖母は首を横へ振った。

『相手は錦衣衛だ。甘く見ないほうがいい』

『なら、お祖母様一人じゃやっぱり危ないよ』

『目を誤魔化して、逃げることくらいはできるさ。あとで必ず追い付くから』

 ん? と小首を傾げるようにして、祖母がフェイジェンの目を見る。

 あとで必ず追い付く――その言葉を信じることでしか、フェイジェンは祖母に従うことはできなかった。


「――――ッ!!」


 ビクリ、と身体が一つ痙攣し、フェイジェンは目を覚ました。

 周囲は薄暗い。そして、自分が横たわる布団の中には、自分以外の体温がある。

 無意識に視線を上げると、そこにはもう見慣れた美貌が、目を閉じていた。

 一体なぜ、いつの間に自分はとこに入ったのだろう。というか、この数日はずっと野宿だった。

 いつ宿を取ったんだっけ、と記憶を手繰る内に、急速にそれが巻き戻る。

 相手が眠っているのにも構わず、フェイジェンは思わず彼の胸倉を掴んだ。気怠けだるげに、彼の瞼がひらく。

「……気が付いたか」

「気が付いたか、じゃないわよ、このッ……!」

 言いながら、相手の胸元を押し、その身体を仰向けにするようにしてのし掛かった。

 シアは、損害を最小に留めるようにしながらも、フェイジェンにされるままになる。

「さっきはよくも、遠慮なくぶん殴ってくれたわね」

「……ごめん。痛むか」

「自分でやっといて、よく言えるわよね。弁明はないの?」

「できねぇだろ。言われた通りのこと、やらかしたんだから」

 一瞬、言葉を呑んだフェイジェンは、詰めていた息を長く吐き出した。

「……あんたのそーゆー、いさぎいいトコ、大っ嫌い」

 吐息と共に言って、その胸元へ顔を伏せる。

「潔いのに嫌いなんだ?」

「これ以上責められないじゃないっ!」

「好きなだけ、罵倒してくれていいぜ。お前にはその権利がある」

「開き直ってるのっっ!?」

 ガバリと顔を起こすと、静かな美貌と視線がかち合う。

「……開き直ってなんかねぇよ」

 表情と同じくらい、静かな声で言ったシアは、フェイジェンの頬へ、そっと手を這わせた。

「あれは、悪かったと思ってる。言葉で説得する余裕が、なかったとしてもな。あの場は譲れなかったけど、それは全部、俺の都合だから、……あの件で俺がお前にできるのは、謝ることだけだ。許すかどうかは、お前が決めることだからな」

「許さないって言ったら、どうする気?」

「どうもしない。お前に従うよ」

「このまま、別れるって言っても?」

 試すように問うと、シアはかすかに傷付いたような表情を見せた。が、それはすぐに、穏やかな無表情にくるみ込まれる。

「……仕方ない。お前がもうこれ以上、俺の都合に付き合えねぇって言うなら、お前の選択を尊重する」

「……ひどい……!」

 たちまち、鼻の奥が痛む。彼が目を見開くのを認識しながら、フェイジェンは彼の唇に自分のそれを押し当てた。

 挑発するように彼の唇の割れ目に舌を這わせると、彼は自分から唇を開いて、フェイジェンの口づけに応えてくれる。

 ひとしきり貪り合って、呼吸の限界を感じ、どちらからともなく唇を離す。

「……知ってるクセに」

「……フェイ?」

「もう離れられないって知ってるクセに、よくそんな残酷なこと言えるわね。あたしを放さないって言ってくれたのも、その場凌ぎ?」

「……んなわけねぇだろ」

 それまで、ほとんど無抵抗だったシアが、この場では初めて、自分からフェイジェンの身体に腕を回した。

 フェイジェンをきつく抱き竦め、天地を入れ換えるようにゴロリと転がる。そのまま、先程の続きのように、深く口づけられる。最初から口腔へ舌先をねじ込まれ、状況も忘れてフェイジェンは混乱した。

「ンッ……!」

 思わず漏れた、甘い吐息に煽られるように、シアが顔を傾け直す。

 こちらの顔を固定するように彼の掌が頬へ添えられ、何度も角度を変えて貪られる。否応なく意識が蕩け切ったのを見計らったように、唇を解放された時は、完全に呼吸が上がっていた。

「……も、シア……」

「……ごめん。今、ウンソを殺させてやれないのは、完全にこっちの都合だって、分かってる。納得してくれとは言わないし、お前に甘える気もない。ほかのことなら、何だってお前の言う通りにしてやりたいけど、……これ言うと、お前以外のこと優先してる、みたいに聞こえるから、すげぇ抵抗もあるんだけど……」

 『別れる』と、試しとは言え一言口にしただけで、シアはあっさりと『弁明』を始めてしまった。フェイジェンの首筋に顔を埋めた彼が、耳許で続ける。

「どうしても、俺の冤罪、晴らす必要があるんだ。俺自身の逃亡生活、終わりにする為にも……母上や姉上たちの生活、安全にする為にも……」

「……あたし、どんだけ物分かり悪い女だと思われてんの?」

 シアが掻き口説くあいだに、呼吸が整ったフェイジェンは、改めてシアの肩に回した手に力を込める。

 逆に、シアは腕の力を緩めた。彼に合わせて、フェイジェンも腕の力を抜いてやると、互いの顔が見える距離まで、シアが上体を起こす。

「……悪いけど、俺だって、仇目の前にしたら、制止されても止まれる自信ねぇし」

「……そう言われると、返す言葉もないけど」

 唇を尖らせてシアを見上げると、その唇に軽く口づけられる。

「……で、判決は? 奥さん」

「……もういいよ。本当に悪いと思ってるみたいだし、あたしも頭に血がのぼっちゃったから……次までにもっと、感情制御できるようになっとく」

「そこまでしなくていいよ。俺が惚れたのは、それこそそんな、無機質な女じゃないから」

 合間に口づけを挟みつつ、シアは言葉を継いだ。

「そのままのフェイでいて欲しい。次は俺がもっと……とっさに言葉で説得できるようにしとくから」

「あんたも元々、そこまで冷静じゃないでしょ」

 彼の首筋に腕を絡めて、口づけを返しながら言うと、シアは目を丸くした。キョトンとした表情に、小さく吹き出しながら、そっと額を押し付ける。

「冷静なようで、全然器用じゃない。それに、自覚してると思うけど、根っこのところは超絶自己中。かと思えば周りを気遣う余り、なんにも言わずに全部抱え込んでたりするトコ、……ホント腹立つ」

「……一応、それもごめん」

 この短時間に、すっかり謝り癖が付いたような彼に、今度は苦笑が漏れた。

「……本当に、もういいよ。この先の人生、あんたと一緒に歩くって決めたのに……あんたの冤罪晴らすまでは、とことんあんたの都合に付き合うって決めてたのに、実力行使されないと止まれないあたしが、今回は悪かったわ。だから――」

「ごめん」

 遮るように言った彼が、何度目かでフェイジェンの唇を自分のそれで塞ぐ。

「……もう、同じことはしない。二度とだ、だから……」

 つやめいた漆黒の目と視線が絡んで、フェイジェンはドキリとする。彼の求めていることは、すぐに分かった。途端、すべてがどうでもよくなって来る。

 早くも、彼と何を言い合っていたのか、主旨を忘れてしまった気がした。それに、考えてみれば、初夜以降、彼と身体を重ねていない。

 フェイジェンは、敢えてなまめかしい微笑を浮かべ、彼の寝間着の結い紐をいて、彼の要望に許可を与えた。


***


 ふとしたはずみにタガが外れ、自覚するより彼女に飢えていたと気付いたのは、その身体を散々貪ったあとだった。


「――で、取り敢えず、ここどこなの?」

 と彼女に訊かれたのは、イノンの邸宅にある台所で都合してもらった湯で絞った手拭いを、彼女に渡した時だ。

「……あー……」

 つい目が泳ぐ。

 ここがイノンの家で、その中にあるウンソたちの生活する離れの一室だ、なんて言ったら、どうなるだろう。この棟から外へ出たら、どうせバレるのではあるが――

「ねぇ、シア」

「はい」

 ひとしきり愛し合った末に、汗だくになった身体を拭いながら、フェイジェンがニッコリ笑ってこちらを見ている。その笑顔が、何とも恐ろしく見えるのは、気の所為だろうか。

「今更、あたしに隠し事なんて、まさかしないわよねぇ?」

 可能なら黙っていたいが、本格的にそうはいかなくなって来た。

 早々に溜息をいて、白旗を揚げる。

「……イノンの家だよ」

「ええっ?」

 彼女の、身体を拭く手が止まる。

「どういうこと?」

「いやー……ちょっと抜き差しならない事情で、イノンっちまってさ」

「はあ?」

 あのあと、一旦シベクにその場の後片付けを任せ、フェイジェンを抱えたシアは、ウンソに案内されて、この離れに来た。

 彼女を今いる部屋へ休ませ、先刻までイノンと話していた舎廊房サランバンへ引き返すと、シベクはすでにイノンの血の跡は始末していた。

「……で、今はイノンの遺体は舎廊房の中に隠してある。二、三日内にはシベクの号令で影契の人間が来るから、それまではここにいることになってるんだ」

「影契の人が来たら、どうするの?」

「まず、イノンの遺体の始末だな。で、イノンの家族……っても、もう夫人しかいないみたいだから、彼女には悪いけど、イノンは急遽、都から呼び出し受けて、どうしても行かないといけなくなったってていで、影契が作った偽装の書類を渡すことになってる」

 そして、元々いたこの家の私奴婢サノビたちは全員解雇し(ただ、この国では奴婢は財産、すなわち『物』と一緒なので、実際には解雇と言うよりは、新たな主人を見付け、移譲の手続きを行う必要があるが)、代わりに影契の人間がここの私奴婢として入れ替わる。

「それから、パク・ウンソとパク・チウィを連れて、都へ向かう。二人の家族は、この家に私奴婢として入った影契の人間に、二人の人質として見張らせる段取りになった」

 ウンソとチウィが一緒に都へのぼる、と聞いて、フェイジェンは露骨に顔をしかめた。

「……一緒に旅することになるなら、いつあたしが彼らの寝首掻くか、分からないけど?」

 シアは、覚えず苦笑し、肩を竦める。

「チウィだけなら殺っちまってもいいけど、ウンソは当面見逃してくれ。イチョムと直接裏取引したのはアイツだから」

「……冗談よ」

 クス、と困ったように笑ったフェイジェンは、盥へ手拭いを滑り落とし、上半身を晒したままシアに膝行しっこうした。シアの首筋に、腕を絡み付かせた彼女は、シアの唇を自分のそれで軽く啄んだ。

「言ったでしょ。あんたの事情に、とことん付き合うって」

「……悪いな。俺のほうが全部片付いたら、もうずっとお前の逃亡劇に集中できるからさ」

 彼女の唇を啄み返しながら告げると、途端に彼女の表情が曇る。

「何だよ」

「……ううん。やっぱり何か、罪悪感拭えないなって」

「何の?」

「あたしの逃亡生活に付き合わせることへの」

 シアは、瞬時瞠目し、次いで、再度苦笑する。

「……お互い様だろ。俺はお前が好きで、一緒にいるだけだ」

 彼女の腰へ腕を回しながら言うと、彼女もまたキョトンと目を丸くする。そんな彼女のひたいに、シアは自分の額を押し当てて続けた。

「惚れた女といたら、たまたま逃亡生活が始まるってだけなんだからな」

 するとフェイジェンは、間近で合わせた目を、ジッと見上げる。

「じゃあ、シアもあたしに悪いなんて思わないで」

「何を」

「あたしも、シアと同じよ。惚れた男に、たまたま複雑な人生背景があっただけだわ」

 言われて、シアは瞬時押し黙った。

「……それとこれとは、やっぱ違う気もするんだけどな」

「ねぇ、シア。西方の神様に誓う、婚礼の時の言葉って知ってる?」

 不意に、話が逸れた気がして、シアは目をまたたく。

「西方の、神様?」

「うん。その宗教の聖典にあるらしいの。纏めると、『いい時も悪い時も、相手を尊重して、支え合って愛することを誓いますか』っていうその内容を、西方では、婚礼を執り行う僧侶みたいな人が、式の時に、夫と妻、双方に訊ねるんですって」

「へぇ……」

 いい時も、悪い時も――

「それって、まるで俺たちのことだな」

 クス、とまた苦笑が漏れる。ただ、自分たちは、相手の所謂いわゆる『悪い時』に付き合う覚悟はしているが、自分の『悪い時』に相手を付き合わせるのは、果てしなく遠慮したいと思っている。けれど――

「……こうやって、……自分の事情のことで謝り合うの、これで最後にしない? あたしたち、お互いにお互いの事情に付き合う覚悟はできてるでしょ。だから、付き合わせるほうが、悪いなって思う必要、ないのかもって」

「……そうかもな」

 そう言いつつも、やっぱりまだ、現在進行形で悪いと思ってしまっている。けれど、相手に『自分から離れてくれ』と頼むことは、きっともうできない。

 いや、罪悪感が振り切れれば頼めるかも知れないが、実際に相手と別れたら、多分そのの人生を生きることは虚しいだけだ。相手と一緒にいるから、こんな人生でも、生きていようと思える。

(……父さんには悪いけど)

 シアが生きている理由は、すでにフィギルの死を無駄にしない為ではない。フェイジェンが共にいてくれるから、のような気がしている。

「シア」

「ん」

「……まだ、後ろめたいって思ってる?」

 図星を指され、覚えずまた苦笑する。

「……全然、って言ったら嘘だな」

「分かる。あたしも、そうだもん」

 でも、と挟んでシアの後頭部へ手を回したフェイジェンは、そのまま自身のほうへシアを引き寄せる。軽く唇を啄み合うと、そうするともなしに見つめ合った。

「……もう、離れられる気だけは、全然しない」

「俺もだ」

 また一つ、苦笑を落とし、シアは彼女の頬へ手を添えた。彼女の背に、空いた手を回しながら、彼女の唇を塞いで、顔を傾ける。

 彼女の喉から漏れ出た甘い声に煽られ、彼女の唇を舌先でこじ開けた。彼女の口腔へ舌先を潜り込ませ、彼女のそれを絡め捕る。

 一通り、彼女の唇を貪ってから、唇を離す瞬間、掌に触れる彼女の背が冷たいことに気付いた。随分長いこと、下着ソッチョゴリも羽織らずにいた所為だろう。

「……なぁ」

「……何?」

「もっかい、抱いてい?」

 直線的に訊ねると、間近で合った目が大きく見開かれる。

「……もう、夜が明けると思うんだけど」

「だってお前、……身体冷えてるから」

 フェイジェンが、否も応も答えるのを待たず、シアは彼女の首筋へ顔を埋める。

あっためるのに、手っ取り早いだろ?」

 さするように肌へ手を這わせると、フェイジェンは息を詰めるような吐息と共に、身をよじった。構わず、掌を胸元へ移動させれば、彼女の背が仰け反る。

「……嫌?」

 駄目押しのように訊くが、彼女の答えは分かっているつもりだ。その予想に反することなく、彼女はシアの首筋に回した腕に力を込め、「バカ」と耳許で拗ねたように囁いた。


©神蔵 眞吹2026.

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