第六話 無力
文中にグロテスクな描写が含まれます。苦手な方はお気をつけください。
本当の災いというものは、何の前触れもなく訪れる。なぜなら人の世に災いと生み落とすのは邪悪なる魔神。不意に迫る災いにもだえ苦しみ、あがき、しかし叶わず命を散らす人間たちを嘲笑うのが彼の魔神の本性だ。わざわざその兆しを教えて対策を取らせるような真似はしない。
それにもし仮に兆しを教えたとしたら、それはさらなる不幸の前触れでしかない。先触れがあるということは、必死になって災いに備えさせてなお、敗北し、苦しみ己の無力さを嘆く様を嘲笑いたいと魔神は思っているのだから。
とはいえ一度魔神が顕現したことが知れれば、当然国は魔物対策に走る。魔神は人間を殺し、文化を壊し、国を滅ぼす。だがもちろん国がそれを知るのはいくつかの町や村が滅ぼされてからだ。
リスィたちの町は唐突に始まった魔神侵攻の始まりの地。外から助けなど来るはずがない。
魔物が町に侵入してきて20分。長い歴史を積み上げてきた町は、ひどいありさまになっていた。
「うっ…」
顔を真っ青にしたリズが道端に近寄り吐瀉物をまき散らす。無理もない。リスィだって吐きそうなのを必死になって我慢しているのだ。
魔物は一方向からではなく、複数の方向から侵入したらしい。だからまず町の外周部にいた人達がやられた。もちろん町の周囲には国の兵士が見張っていたが、彼らが町人を守りきることはできず、無残にその命を散らしていった。
被害は町の中央に行くに従って小さくなっているが、当然というべきか外周部は被害が大きいようで、遠くに火の手が上がっているのが見える。
魔物の目的地は人が多く逃げているであろう中央部。外周部のような被害を中央も受けることは時間の問題に思えた。
「大丈夫かい?二人とも」
「は、はい。ありがとうございます」
二人に声をかけたのは、ランの道場の門下生の一人だ。逃げてくる途中で偶然出会い、見知った相手ということもあってここまでついてきてもらった。
リスィたちが今いるのは町の中央に近い南の道路の一つ。多くの人が町の中央に避難していることを見越して、3人も町の中心に向かって歩を進めていた。
今、目に見えるところに魔物の姿はない。しかし魔物による暴虐の爪痕は残っている。
無造作に転がっているモノは大きな爪で背中を引き裂かれ、赤い血で地面を濡らしている。また別の死体は腹に穴が空き、そこからうねうねとした臓物を吐きだしていた。人間の死体だけではない。頭を切り落とされたネズミの魔物や、心臓を貫かれた犬の魔物の死体。人も魔物も関係なく死にその死骸を辺りにまき散らしている。
濃厚な血の匂いが辺りを漂い、夕日の茜色に染められた凄惨な光景が目に焼き付く。新鮮な死体を嗅ぎつけた蠅やその他の虫が死体に群がり、耳障りな羽音が聞こえもする。
地獄を体現したかのような光景だ。胃の中のものを全て吐き出して、リズはリスィの手を握りしめた。リスィもリズの手を強く握り返す。その柔らかな手の温もりが二人の正気を保ってくれた。
魔物が近くにいた時に感じた頭痛と幻覚はもう収まっていた。あれは一体なんだったのか。リスィには分からない。しかしあれはなくなったわけではなく、嵐の前の静けさのように沈黙を保っているだけであることには薄々気づいていた。
「町の中央区画まで後少しだ。しんどいと思うけど頑張って」
「…はい」
門下生は手に持つ槍を軽く掲げて、安心させるように笑みを見せる。その顔はどこか間抜けで、強張っていた二人の頬も緩んだ。
安全地帯を探しながら走る途中。リスィは両親のことを思った。『リブダット料理店』がある場所は町の中央だ。買い出しで外周部に行っていなければ安全なはず。背後に残してしまったアルミタのことも頭によぎるが、あまり心配はない。アルミタは自分よりもはるかに強い。いくら魔物が相手でも早々遅れをとることはないはず。
同行している門下生だって「アルミタさんなら問題ないよ」と言ってくれている。無事であると信じたい。
リスィは大事な人の顔を順番に思い浮かべ、最後に近くを走る門下生の顔を見た。そういえば彼のことは顔は知っているけれど、名前は知らない。店に来た時も特別話をするようなことはなかったし、今日も混乱の極みにあって名前を聞ける状況ではなかった。
「あの…」
「なんだい?」
門下生の柔和な顔がリスィを向く。あなたの名前は?そう問いかけようとした時。
ブオンという音とがして、ボチンと何かが落ちた。
「え…?」
何の音だ?リスィの足は止まる。リズの目が大きく見開かれる。ボールくらいの大きさのものが宙を舞う。立ちすくんだ体が真赤な噴水に変わる。ぴちゃぴちゃとリスィとリズの顔に噴水の水がかかる。
温かい。そんな感想をリスィは抱いた。この液体の温かさはまるで握りしめた手の温もりのよう。…それもそのはずだ。何せ。
「クヒヒ。やっぱ殺しは楽しいなぁ」
ボトンとボールが落ちる。落ちたボールは踏み潰されて粉砕される。真赤な血とぬちゃぬちゃした脳みそがまき散らされる。ころりとこぼれた眼球が空を仰いだ。
砕け散った門下生の頭から目が離せない。リズの目はさきほどまで生きて話をしていた彼の頭の残骸から離れてくれない。
しかしリスィは顔を上げることに成功した。その目に映るのは屈強な男の姿。だがそれは決して人ではない。背に蝙蝠のような翼を生やし、頭は馬。下半身に分厚い毛皮を生やし、手には幅の広い鉈が握られていた。
焦げ茶色の毛皮と肌色の皮膚は赤黒い汚れで汚れている。馬面の化け物はペロリと長い舌で舌舐めずりした。
「え?」
ポタリと、化け物の持つ鉈から血が滴り落ちた。背筋から頭にかけて震えが駆け上がる。カチカチと歯の根が噛み合わなくなる。きつくきつく握りしめたリズの手が応えてくれることだけが、今生きている証明に思えた。
そう、リスィは生きている。まだ生きている。死んだのは、あっけなく殺されたのは、門下生だ。リスィとリズを守ってくれていた門下生だ。
カランと、彼の持っていた槍が転がる。ズキンと、これまでないほどの痛みが頭を襲う。太陽はもうほとんど沈みかけ、月が昇り始める。空は赤色と藍色が混じり合い、不吉な紫色を見せていた。
「ケケケ。どうしようかどうしようか。お前らをどうして殺そうか。あっさり殺そうか。じっくりねっぷり殺そうか。スパッと四肢を切りとろうか。それとも目をくり抜いて鼻の穴を一つにして爪をはいで歯をねじり取って髪をプチプチむしり取って丁寧に解体して殺そうか。あぁぁ!考えるだけで愉しいなぁ!」
人型の魔物の話すことはおおよそ人の考えるようなものではない。邪悪そのもの。おぞましいことこの上なかった。
「に、にげ…」
「ん~おやぁ」
頭痛に苛まれつつ、ザっと一歩後退ったリスィに魔物は粘着質な声と視線を向ける。それはまさしく蛇に睨まれた蛙だ。リスィの足がピタリと止まる。リズは下半身から温かいものが伝っていった。
「君ら。兄妹かい?」
にゅっと魔物が二人の顔を覗きこむ。腐った肉の臭いと鉄臭さが鼻についた。邪悪渦巻く魔物の瞳が二人を捉えて離さない。
「ふむふむ。う~ん。…あ、いいこと思いついた」
きわめて軽い声が通りに響き渡る。場違いなその声はさらなる恐怖を二人に刻みこむ。だが恐怖がもはや飽和状態になった二人にとって、今更という話でもあった。
「い、いや…」
吐息のような声がリズの口から漏れる。手が真っ白になるまで、お互いがお互いの手を握りしめている。その手は。
「りず…」
「楽しい見世物の始まりだ!」
魔物がリズの肩をガシリと掴んで持ち上げる。二人の固く握りしめられたその手は、あっさりと引きはがされた。
そしてリズの温かい手がグシャリと握りつぶされるのと同時に、魔物による「楽しい見世物」が始まった。
*
「あああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
「あっははははははははははははははっはははは!!」
僕は何を見ているんだろう。這いつくばって見上げる悪夢のような光景。目の前でリズが、妹が殺されようとしている。
「あっあ、あぁぁぁああ…あぁ!」
「お兄ちゃ~ん見てる~!これが君の妹ちゃんだよぉ」
「な、なにもみえ、きこ…」
これは嘘だ。これは夢だ。これは幻だ。こんなもの現実とは僕は認めない。認めていいはずがない。
「に、ちゃ。たす」
「ん~目と耳は奪ったでしょ~。とすると次は鼻かな。血とか臓物とかさ。君らにとってはこの匂い、臭いんでしょ?なら楽にしてあげるよ」
「ああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁ…」
『またお前は目を背けるのか?』
ズキンと痛む。頭も痛むし、足も痛む。僕の足は逃げられないように、深く切りつけられていた。
助けたいのに助けられない。僕はただ見ていることしかできない。
「ねぇどんな気持ち?ねぇねぇ今どんな気持ち?」
「あ、かぁ…あぁ」
「ねぇ~答えてよ~。…あっそうか。耳を潰しちゃったから何も聞こえないんだね。しょうがないなぁ。なら今度は痛みを消してあげようか」
ベタン。ベタン。ピチャリ。
『痛ましいと思うか?苦しいと思うか?嫌だと思うか?』
「ぁ…」
「あーらま。脆いなぁ人間は。つまんない」
リズはもう吐息のような声しか漏らさなくなった。真赤なリズが弱々しく痙攣している。
「もう声を上げないなら…」
『見ないふりをして、忘れたふりをして、逃げられると思うな。これがお前の現実だ。これはお前の業が引きこんだ災いだ。それを知れ』
「この舌も、もういらないよね」
至極楽しそうに魔物は嗤った。
ブチン。
*
「…中々いい見世物だったよね。どう?妹ちゃんの命がけのショーは」
愉悦ににじんだ魔物の声が遠く聞こえる。足の痛みすら遠く、濡れた大地の感触すらもう感じない。
ただ奥底からゆすり起こそうとするような頭の痛みと。
『思い出したか?』
囁くようなしわがれた声だけがいやに明確だった。
*** ***
「僕は…」
気づけばリスィはいつか見た真っ暗な闇の中にいた。目も見えない。耳も聞こえない。鼻も皮膚も舌も、何一つとして応えてはくれない。
これがリズが今際の時に体験した世界。でも不思議と怖さはなかった。胸にあるのは諦めと絶望。乾ききった感情だけがリスィに残った。
「もう死ぬんだ。いやもう死んじゃったのかな」
音無き声を上げる。誰にも届くはずのない声。しかしその声に答える声があった。
『目を背けるな。逃げるな。立ち向かえ。そして“業”を背負って死ね』
いつの間にか消えた感覚が戻ってきた。白で埋めつくされた世界。リスィの目の前には一人の老人がいた。
「あなたは…」
『私はお前。お前は私だ』
ボロ布同然のマントを身につけ、顔には醜いばかりのしわを作っている。あぐらをかいて座っているその老人は縮こまっているようでいて、不思議と小ささを感じさせなかった。
『私はお前の中に住むお前。お前であってお前ではない。しかし私は確かにお前である』
わけがわからない。沈黙するリスィに老人は鋭い目つきを向けた。
『背負いし“業”から逃げるな。“業”を忘れるな。私はお前。“業”からは逃げることもできぬし、忘れることも許されない』
「何を…」
『甘やかな日常に浸れる時間は終わりだ。非業なる運命をたどれ』
その言葉を最後に老人が溶けた。ドロリとした液体へと変わり、リスィの元へ這い寄る。
「ひっ!嫌だ…」
その液体から不吉を感じ、リスィは身をよじってそれから逃れようとする。けれどできない。否、リスィが逃げようとした時にはすでにリスィの全身に不吉がまとわりついていた。
それはまるで始めからその不吉がリスィと共にあったかのように。
「あ…」
体中の黒い液体を見て、リスィの脳裏に強い光が射した。何かを『思い出して』、それが自分の××だということを理解して、生まれた時からリスィの中で眠り続けていた力で思い出したことを。
忘れた。
意識は浮上する。リスィは現実という名の地獄へ帰っていく。リスィの本当の意味での人生はここから始まり、そして終わるのだ。




