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名無しの英雄と忘却の手記  作者: クスノキ
第一章 12歳〈子どもの頃〉
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第五話 魔物

 この世界には二柱の神がいる。一つは善神。世界を作り、コールやクラスを与えてくれるとされる神だ。人々はこの神を崇め、かの神の加護を受けながら生活している。

 善神の願いは人々の繁栄と幸福。世界に存在する神が善神だけなら、世界はもっと平和だっただろう。人々は神の元に笑顔で、平穏に暮らしていたはず。だがしかし世界は平穏なままではない。


 魔神と、呼ばれる存在がいる。


 魔神は善神と対をなす存在で、人々に害をなし、苦しむ様を嘲笑う存在として知られている。非常に邪悪な性格で、無慈悲に人を殺すことを好む。そんな魔神の目的は世界滅亡であるとされ、度々世界に顕現し、破壊をもくろんでいる。それはまともな大人なら誰でも知っていることだ。

 その破壊の先駆けであり、尖兵でもあるのが魔物だ。魔物は魔神の権能によって出現し、魔神の意志を体現する存在。すなわち魔物は人を殺す。むごたらしく殺す。慈悲もなく殺す。それゆえに魔物は人々から恐れられ、嫌われている。

 とはいえ、平素の頃は魔物の数は少なく、国の兵士の力だけで人の住む領域から駆逐できる存在だ。魔物の一体一体は確かに強力だが、兵士の連携や上位クラスを得ている戦士に敵う程ではない。


 だがそれも魔物の数が少ない時のこと。魔神が顕現してしまった時は違う。魔物の数は数百倍に膨れ上がり、人の住んでいる領域を侵す。魔物に襲われた町や都市に待っているのはむごたらしい破滅だ。男も女も老人も子どもも関係なく、魔物は殺す。喰うわけでも妖しげな儀式をするわけでもなく、ただ殺す。後に残るのは無残な死体だけ。

 破滅したくない人間は神に祈りを捧げ、一丸となって魔神との戦いに臨むのだ。


   *


 リスィは人々の悲鳴を聞いた時から、頭を鋭い針で貫いたような鋭い痛みに襲われていた。しかしそんな痛みすら気にならなかった。

 既視感。響き渡る悲鳴と遠くに見える異形の怪物。リスィはまるで自分の奥から自分のものではない何かが漏れ出るような、槍を持った時と同じ感覚を覚えていた。


 町の人々は皆同じ方向を目指して走り出す。人々はパニックになっていた。魔物の恐怖は幼い頃から伝え聞いていたため、皆知っている。そしてそれが何の先触れもなかったが、この町に来た。

死にたくない。殺されたくない。その一心で彼らは魔物から距離を取るために走り出す。その中でリスィは立ちすくみ、逃げる彼らとは反対の方向を眺め、迫る既視感に呆然としていた。

「兄ちゃん!」

「あ…リズ」

「逃げよう!」

 リズの言葉にようやくリスィは我に返る。同時にやはり感じていた既視感も霧散した。見える魔物はまだ遠い。リスィはリズの手を引いて、魔物から逃げ始めた。


(痛い…)

 既視感は消えた。だが頭痛は消えてくれなかった。ズキン、ズキンと頭は痛みを声高らかに謳い上げ、その度にリスィは違う世界を幻視する。

『殺せ。殺せ。殺せ』

『思い出せ。お前の…』

「誰だよ。お前は一体誰だ」

「兄ちゃん!ぼぅっとしないで!」

 頭痛はますますひどくなり、気づけばリズがリスィの手を引っ張って逃げていた。だがそれも所詮は子どもの足。逃げる内に周囲に誰もいなくなっていた。



「はっ、はっ」

「うくっ」

 太陽はそろそろ役目を終えて沈もうとしている。薄暗くなり始めた広い道を二人だけで走る。

 きつい。辛い。走るのを止めてしまいたい。8歳のリズは体力に乏しく、リスィも朝の稽古で疲れていた。息はとうの昔に上がり、まともに呼吸もできなくなる。

 走るのを止めれば楽になる。しかし止めることはできない。やめればしばしの間は楽になるだろう。だがその後に待っているのは確実な死だ。


 背後から足音が近づいてくる。鼻につく鉄臭さと獣臭。荒々しい息遣いと見なくても分かる、邪悪を煮詰めたような気配。

「兄ちゃん…!」

「近い…」

 二人の背後に魔物が迫っている。振り返ってはいけない。振り返ってもどうしようもない。足が鈍るだけ。「分からない」という恐怖が分かり切った恐怖になるだけ。

 振り向いても事態は悪い方向に傾くだけだ。しかし、リスィは振り返ってしまった。分からないという恐怖に耐えることができなかった。


 振り返る。そしてリスィは目を大きく見開いた。頭痛がする。遠目ではなく、間近に見たことでリスィの奥底に眠る何かが刺激された。

「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーー!!!」

 リスィが振り返るのにつられてリズも振り返ってしまったのだろう。かん高い悲鳴が通りに響いた。リズの足は止まる、リスィの足も止まる。獲物が逃げるのを止めたからか、魔物も走るのを止めた。


「ニャ…ヒッ」

 魔物はリスィとリズから5メルトほど背後にいた。大きさは高さ1.5メルトに長さが2メルトほど。灰色の毛並みは生まれたての子どものように若々しく、命を引き裂く爪や牙は歴戦の戦士のように猛々しく、また太く鋭い。

 猫の魔物だ。魔物は足音もなくリスィの方へ近づく。その動きはまさしく獲物を狩る狩人。だが魔物の表情は、武骨に無情に獲物を狙う狩人のそれではない。

 魔物は嗤っていた。真赤な口を半月状につり上げ、病的なまでに白い牙を一杯に見せびらかしながらニタニタと嗤っている。獣のなりをしているにも関わらず、人のような表情をしていることには嫌悪感すら覚える。


「に、にいちゃん」

「これが…魔物」

 止まない頭痛はますますひどくなる。巨大なハンマーで頭蓋の内側から叩かれているかのようだ。ここではない世界の風景が現実と混ざり合う。耳元で囁く声が意味不明な雑音になって頭を掻きまわす。こみ上げてくる吐き気。気持ち悪い。吐いてしまいたい。でもそんなことできない。もしそんなことをしたら…。


 この魔物に即座に殺される。


 魔物の数は一体。だがその魔物の背後からも別の魔物が近づいてくるのが見えるし、第一魔物が一体しかいなくても、勝ち目なんてありはしない。

 リスィもリズも戦うことなんてできないのだ。ましてや兵士が数人がかりで対処するのが当然の魔物相手に何ができる。

(どうする?どうする?どうする?どうする?)

 滅茶苦茶になりそうな意識の中、それでも必死に思考を回す。しかし答えなんてものは出てこない。始めから答えなんてありはしない。

『ち…××がホしィ、、、かァ?』

 あるとするならこの意味不明な言葉に身をゆだねるくらいか。だがどうしてもリスィはその選択肢を選ぶことができなかった。それをしてはいけない。一度その選択をしたらもう戻れなくなる。そんな予感が彼を足踏みさせる。


「ヒヒッ」

 スルリと魔物が前足を出す。足を止めてしまった獲物を前に、魔物の顔が愉悦に歪む。

「兄ちゃんたすけ…!」

「僕は…」

もう時間はない。リスィが口を開こうとした瞬間。


「リスィ!リズ!無事!?」

 二人の目の前にアルミタが立ちふさがった。同時に、耳元の声は無念をにじませて遠のいた。



 間に合った。そのことにアルミタは深く安堵する。門下生から魔物の襲来を聞いて、まず頭に思い浮かんだのがついさっきまで一緒にいた幼馴染とその妹の顔だ。二人は戦う力を持たない。目覚めたばかりのリスィの槍術とて、荒くれ者から自分の身を守るので精一杯な程度でしかない。

 アルミタはすぐに二人の後を追った。その途中で逃げる町の人々を見た時には肝が冷え、魔物と向かい合う二人の姿を見た時は心臓が止まるかと思ったが、とにかく間に合ってよかった。

「ア、アルミタ…」

「二人は逃げて。今すぐに」

 リスィの言葉は震えていた。アルミタは目線を魔物に向けたまま、リスィとリズを勇気づけるように、自信ありげな声を出す。


「大丈夫。あたしは強い。だから早く」

「わ、分かった」

「お姉ちゃんも!」

 リスィから口惜しさが伝わってきた。その声を背にアルミタは抜き身の剣を魔物に向けた。

「わざわざ待ってくれるなんて、随分とお優しいじゃない」

「ニヒッ」

 遠ざかる足音を聞きながら、アルミタはあえて強気の笑みを見せる。対する魔物は、そんなアルミタの虚勢など分かっているぞとばかりに冷笑をもらす。

「あんたら魔物って言葉は通じるの?もし通じるなら教えてよ。人を殺して何が楽しい…の!」

「ンニ゛ァァ!」

 アルミタの言葉を遮るように魔物が飛び掛かってきた。しなやかな筋肉から生まれる伸びやかな跳躍。アルミタの頭上に鋭い爪が迫る。


「ったく。分かってんだか、分かってないんだか!」

 魔物の奇襲をアルミタは背後に跳んでかわした。空振りした魔物の爪は大地を抉り、ドゴォォンという音を立てる。

 もしあれが自分の体に当たっていれば。只の人間ならば誰もが恐怖を感じるであろう一撃。しかしアルミタは逆に心の中に根付いていた恐怖心が消えていくのを感じた。


「かわせる。当たれば怖いけど、当たらなければどうということもない」

 アルミタは道場の中では誰よりも強い。しかし実戦経験はなかった。知らないことは怖い。アルミタが魔物の襲来を聞いて恐れた理由はそこにある。

 だがふたを開けてみればこれだ。訓練と何も変わらない。攻撃をくらえば痛いし、下手をすれば死ぬ。違うのは今の相手が四足歩行の怪物で、愉悦と殺意を向けてくることだけ。

「じじぃの方がよっほど強い!」

 両足を地面に叩きつけ、ほんのわずかな間硬直した魔物を前に、アルミタは短く息を吐く。アルミタと魔物の距離はおおよそ5歩の距離。それをアルミタは一歩で詰めた。

「ニ…」

 縮地。たった一歩で長い距離を詰める、道場でもアルミタとランしかできない武術の奥義の一つだ。アルミタの剣の間合いに魔物が入る。魔物と目が合った。


「…」

「はっ!」

 魔物の目に浮かんでいたのは驚愕と諦め。アルミタの剣はすでに振るわれようとしている。回避も迎撃も間に合わないことを理解した魔物は、怒りでも憎しみでも無念でもない、ただただ純粋な諦観を思った。

 それをアルミタは鼻で笑う。愉しんで殺すくせに妙に潔い。そんな風にすぐに諦めるくらいならば最後まで意地汚くあがいてみせればいいのに。

「ニャハッ!」

 ヒュゥンとアルミタの剣が横薙ぎに振るわれる。その剣閃は美しく、無駄がない。流れるような刃は魔物の肉体を通り、両断する。

 魔物は短く声を上げて絶命した。


「ふぅ…」

 アルミタは魔物が完璧に死んでいることを確認して、剣を鞘に納めた。初めての実戦が終わった。気を抜いてもよさそうな場面だが、アルミタはむしろ気を引き締めた。

「魔物はじじぃよりは弱かったけど。でも強かった。気をつけないと」

 町のあちこちから悲鳴と魔物の鳴き声が聞こえてくる。まだまだ町の脅威は去ったわけではない。いや、真の脅威はこれからだ。

 今、町に入っている魔物はあくまで足の速い先遣隊。町の境で魔物の群れを確認した門下生によれば、魔物は数百もいるらしい。


「町でちゃんと戦えそうなのは国の兵士と私達くらい。頑張らないとね」

 アルミタは新たに迫ってくる魔物に目を向けて、強がりではない笑みを浮かべた。

夜頃別の短篇を投稿します。

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