第三話 兆し
ケタケタ。クスクス。ニヤニヤ。ケラケラ。哄笑。嘲笑。冷笑。失笑。燃え盛る町の中心で『僕』が嗤っている。あらゆる負の情念をにじませた顔で、汚泥のような感情をにじませた顔で嗤っている。
『さぁさぁさぁさぁ殺せ殺せ殺せ!男を殺せ!女を殺せ!子どもを殺せ!老人を殺せ!それ以外を殺せ!全員殺せ!』
業火の中心で長い槍を高々と掲げて『僕』はそう命令する。その命令に従うのは異形の怪物たち。四足歩行の獣に頭が獣で体が人の化け物。半透明の薄気味悪い者すらいる。
怪物たちは逃げまどう人々を背中から追い立てて、泣きわめく声を心地よさそうに聞きながら、苦しめながら殺す。四肢をもぎ、炎の中に投げ入れ、絶望を存分に味あわせてから殺している。
あぁ、なんて楽しい。嬉しい。素晴らしい。悦ばしい。町を包み込む業火は愉悦を閉じ込め増幅させる素敵な装置で、随所から聞こえてくる悲鳴は唯一『僕』の心に安らぎを与えてくれる。
嘲笑うことはこんなに楽しい。人を苦しめることはこんなに嬉しい。もだえ、絶望し、憎悪し、そして死ぬ者たちを見ることはなんと素晴らしく、悦ばしいことか!
『あはははははははははは!』
『僕』は嗤う。人の死を足蹴にして哂う。…いや違う。これは『僕』じゃない。僕はこんなことをしない。したこともないし、する力もない。だから『僕』は僕じゃない。
『だがそれは他ならぬお前がしてきたことだ。例え覚えていなくとも、確かにあったことだ。それがなくなることはない』
あざ笑う『僕』を否定する僕の耳元で誰かの声が聞こえた。しわがれた、生きることに疲れ切ったような声。僕はその声の主を探して振り向くけれど、背後には誰もいない。あるのはただの無だ。色もなく、温度もなく、音も何もないただの無。真っ赤な絶望の風景は消えて、僕はいつの間にか一人ぼっちになっていた。
「なんだ、これ。なんだよこれは!」
わけがわからなくて僕は叫んだ。しかしその声すらどこにも届かない。何もない空間の中心で、僕は深い絶望にとらわれる。
「夢、そうだこれは夢だ。夢に違いない」
しかし目を瞑り、耳を塞いでも何も変わらない。なぜならここには何もないから。目が開いていようが閉じていようが映るものは何一つなく、耳を塞ごうがどうしようが最初から何も聞こえない。
恐怖と絶望に苛まれて、僕はうずくまる。
…どれほどの時間が経っただろうか。一分?一時間?それとも一日?あるいは一か月?もしかして、一年?気が狂いそうになる世界の中、考えることを止めていた僕の耳が囁くような、懺悔するような声を聞いた。
『いくら目を背け、耳を塞げども。背負いし“業”からは逃げることはできない。いつかお前は“業”に追いつかれ、無残な末期を遂げることとなるだろう』
その言葉の意味をリスィはまだ知らない。どういうことと尋ねようとするが、それを拒絶するように世界に光が満ち、音が帰ってくる。沈みきっていた意識は浮上し、深淵での記憶はただただ沈んでいく。
『いくら忘れたくとも忘れられない。だがお前はそれを忘れた。忘れたいと願った。それこそがお前の背負った“業”なのだよ』
目を開く直前、遠くから『僕』の声が聞こえた。
*** ***
*** ***
リスィは最悪な気分で目覚めた。今日は久しぶりに与えられた休日。清々しい気分で目覚めたかったところだが、昨夜見た夢が最悪だった。
「あー、と。どんな夢だったっけ」
ひどい夢を見たことは覚えている。しかしその夢の内容を思い出せない。思い出そうとするほどに夢の内容は遠ざかり、あいまいな印象へと変わっていく。
それはまるで夢で見たことから必死になって逃げようとしているかのようだった。
「ま、いいや。嫌な夢なんだし、忘れるにこしたことはないよね」
胸をよぎる不安をふき飛ばすように、リスィは勢いよくベッドから飛び降りた。
「やあっ!」
朝食をすませ、リスィはアルミタたちの道場を訪れていた。リスィはランに向かって一心不乱に木剣を振る。しかし木剣の軌道はへなちょこそのもので、ランは苦笑しながら素手で木剣をいなしている。
道場の中にはいつもの門下生はいない。今日は偶然道場の休みと、リスィの休みが重なっていた。そんな日にはリスィはランに頼みこんで剣の稽古をつけてもらっていた。
互いの休みが重なるのは月に一度程度。リスィが8歳の時から初めてもう4年ほど続いている習慣になるが、如何せん上達の兆しはない。
「はぁっ!とぉっ!」
「ほい。あいさ」
縦に横に振るわれる剣を、手首の動きだけで弾く。リスィに余裕はないが、ランは楽しそうである。まさしく子どもと大人のケンカ。かすりもしない状況に焦ったリスィは、体勢を崩しつつ、突きを放った。
「む?ん…かっはっは」
不格好でフラフラな突きを一笑いして、ランは手首で螺旋を描く。その回転の力でリスィの木剣を巻き上げて跳ね上げた。
木剣が宙を舞い、リスィは目を大きく見開く。
「うわぁ!」
「これで詰みっと。お前さんやっぱり剣才がないのぉ」
木剣を失い動揺するリスィの喉元に、ランが手刀を突きつけた。呑気なランの言葉にリスィはがっくりとうなだれて両手を上げた。降参の合図だ。
「兄ちゃんかっこ悪い」
「くっ」
「あー、うん。リスィは昔から運動苦手だったもんねぇ」
「はぐっ」
普段からかわれていることへの意趣返しとばかりに、リズは辛辣な言葉を投げかける。アルミタもリスィのヘッポコ剣士っぷりに苦笑いだ。
妹と幼馴染の言葉の刃に切り裂かれて、リスィはガクリと膝をついた。分かりやすく落ち込むリスィ。だがランは眉を片方つり上げ、リスィを真剣な表情で見た。
「…ふむ」
「じじぃどうしたの?」
「あ、いや…うむ」
それに気づいたアルミタがランに問いかける。するとランは歯切れ悪く返事をし、それから道場の壁際に歩いて、そこにかかっていた短めの木槍を取ってリスィに渡した。
「リスィ。ちょっとこれを使ってみぃ」
「え?うん…」
リスィは差し出された木槍を受け取る。すると奇妙な感覚がリスィを襲った。これまでリスィは槍なんて握ったこともない。だというのに持った槍の柄が妙にしっくりくる。
己の内側からこぼれ出る感覚に従って、槍を構える。その構えを見たランとアルミタは目を見張った。リズだけが意味が分からず首を傾げている。
「心臓狙い。左半身の上中段の構えか。また古風な…」
「ちょっと、リスィ。どこでその構えを習ったの?」
ランとアルミタは真剣そのものだ。わけが分からないのはリスィとリズの兄妹だけだ。
「どゆこと?兄ちゃんなんか変なの?」
「どこでって言われても…何となくこうするのが正しい気がして」
「そうか。…なら来い」
困惑のにじんだ言葉を聞いてランは一つ頷き、いつになく固い雰囲気のまま手刀を構えた。リスィはわけの分からないままだったが、体は何かに導かれるように動きだしていた。低く滑るように右足を前に踏みこんでからの突き。切っ先を浮上させながら突き出す喉元狙いの一撃を、ランは木剣の時と同じように手刀でいなした。
剣を扱っていた時とは雲泥の差だ。しかし状況だけなら前と同じ。一方的に攻め、手玉にとられるだけの戦い。だがそうはならなかった。
いなされた槍の刃は下に落とされた。その勢いを利用してリスィの槍の石突は弧を描きながら回転。ランの頭上めがけて振り下ろされた。リスィは自分が思いもしなかった動きを、自分がしたことに驚き、ランすらわずかに目を細めた。
ビュン、と振り下ろされた石突は空を切る。ランが身を反らして回避したのだ。石突は振り下ろした勢いのまま床に激突する。そしてリスィの体はその反動を利用して浮きあがった。
「ぬっ…」
槍を掴んだ左手を軸にした回転蹴り。意表をつかれたランは手加減を止め、つい普段の動きをしてしまう。
ランは回転蹴りを半身になって回避しつつ一歩前に踏み出し、手刀を拳の形に変える。そして間近に接近したリスィの鳩尾に拳をめり込ませた。
「はぐっ…!」
カウンターぎみに放たれた拳を避けることもできず、リスィは苦悶の声を上げる。体がバラバラになりそうなほどの衝撃に全身の力が抜け、槍から手を離したリスィをランがとっさに抱きとめた。
「す、すまん。つい本気で…」
「い、いえ大丈夫、です」
痛みでグラグラ揺れる視界の中、リスィはそう答えるので精一杯だった。
*
殴られた鳩尾は真赤にはれ上がっていた。それを作ったランは珍しく狼狽していたが、アルミタはこれくらい稽古ではよくあることだと笑い飛ばしていた。
あんなに痛くて辛いものがよくあること。それを聞いてつくづく自分とアルミタは住んでいる世界が違うのだと思った。歯痒い気持ちを抑えつつ、リズとアルミタから手当てを受けていると、立ち直り、険しい顔を作ったランがリスィに頭を下げた。
「さっきはすまんかったの」
「い、いえ。気にしてないので頭を上げてください」
リスィは慌てて手をブンブンと振る。その姿にランはフッと軽く笑うと若干表情を和らげて言った。
「ならよいが。…ところでリスィよ。お前さん、どっかで槍術を習ってた、なんてことはないよな」
「ありま…せん。あるはずないじゃないですか」
リスィは首を振る。槍なんて扱ったことあるはずがない。第一町を離れたことすらないのだ。
だがランの疑問は最もだ。ランとの試合でリスィは確かに槍を使って戦えていた。剣はあれほどヘッポコだったにも関わらず、だ。
「だの。…儂がリスィに槍を持たせたのはお前さんの剣の扱いが前と少し違っておったからなんよ」
「そうだった?」
リスィの横で話を聞いていたアルミタが首を傾げる。
「あぁ。とは言えアルミタが分からんでも無理はない。違うといっても実際に打ち合ってみんと分からん程度のものじゃったからの。それもほんのわずか。前は正真正銘素人の動きじゃったが、今日は違った。何というか、慣れない武器を使っておるような感じでの」
「そうなんだ…」
アルミタはむむむと木剣を使ったリスィとランの試合を思い出そうとしていた。だがランの言っていたことの真偽は分からなかった。アルミタの頭に残っているのは槍を巧みに扱うリスィの姿だ。
「でもなんでリスィは突然槍が使えるようになったのさ。料理人希望のくせに変なもんでも食べた?」
「食べてないし。そ、それにまだ料理人になると決めたわけでも…」
「ん?なんて?」
リスィの最後の一言はぼそぼそとしていて聞き取ることができなかった。アルミタが聞き返しても嫌そうな顔をするばかりで教えてくれない。
隣にいるリズがやれやれといった顏で肩をすくめた。
「ふむ。リスィはまだクラスにはついておらなんだよな?」
「はい」
「コールも持っておらんよな」
リスィは頷いた。コールやクラスは神官によってのみ確認することができる。そしてコールは子どもが生まれると同時にその有無を見るが、リスィにコールはなかったと両親からは聞いていた。
ちなみに神官がコールの有無を偽ることはできない。コールは神が人に与えた一つの祝福だ。そして神官は神に仕えるクラス。神が人に与えたものを偽ってしまえば、その神官はクラスを剥奪され、二度とクラスを得ることができなくなるのだという。
「コールでもない。クラスでもない。しかし突然槍が扱えるようになる。…まさか。いやそれこそまさかだな」
「何?じじぃなんか心当たりでもあんの?」
口ごもるランの態度が気にくわなかったのか、アルミタの口調には少し棘があった。ランは言うか言うまいか悩み、そして口を開いた。
「心当たりは…」




