第十六話 薄影
全身を引き裂くような痛みの中、リスィは魔神の一撃をくらってからもなお、意識が残っていた。
命を巡らせる血がとめどなく溢れてこぼれているが、自分はまだ死なないということは分かった。
『あのクズ…ふざけおって』
老人が黒いヘドロのような悪態をつく。魔神の白い翼は生命の輝きで作られた翼だ。命を弄び、奪う魔神が生命の奇跡を圧縮したような業を使う。その矛盾が気持ち悪い。
(俺は…)
かすむ視界の中、痛みと覚醒の狭間でリスィはただ目の前に広がる光景を見る。否。
(リズの時と同じ)
リスィはまた、見ていることしかできなかった。
*
「がああああああっ!」
「あははははははっ!」
リカルドの叫びと魔神の嘲笑。同時に影と翼がぶつかり合う。リカルドの感情の高ぶりに影響されたか、影は魔神の翼を絡めとり、荒々しく引き裂く。
空間を侵食する黒。白を食らい尽くす黒。しかしその黒を喰らうのもまた同じ黒だ。
「がああ…あぁっ!」
「くはは!」
魔神の背から伸びた黒い翼が、リカルドの影を呑みこみ貫く。漆黒の羽をまき散らしながら翼はリカルドの心臓を穿つ。とっさのところでリカルドはそれを回避したが、回避しきれず横腹を撃ち抜かれる。
「ぬぅぅっ」
ついた傷口から黒いナニカが浸食する。これは恐らく「死」。魔神の白い翼が「生命」を表すならば、黒い翼は「死」の体現だ。迫りくる「死」が、リカルドを直接侵す。
体の内に入り込もうとする冷たい「死」を前に、リカルドはためらわない。影を操って自らの肉を抉った。抉りとった肉はすぐさま黒に侵され塵と化す。それを見てリカルドは歯噛みし、魔神はさらなる嘲笑を浮かべる。
「素晴らしい!いい判断だよ!!これでこそ戦い!くはははは!!ここで殺すことが惜しくなるくらいの決断力!うんうん本当に殺すのが惜しくなる!!!!」
「だま…れぇ!」
「黙らないね!そうやって僕は君の心を抉っているのだから…ね!」
口から血を吐きながら影を伸ばすリカルドを前に、魔神は翼をはためかせて空を飛ぶ。そして広壮たる翼を広げた。
「その命!決意!覚悟!全てを吐き出して僕にぶつけろ!!ぶつけられた全てを僕は押し潰してあげるからさぁ!!!」
「ぐ、くっ…ああああああああああ!!」
天を舞う魔神は天を覆う剛健で強靭な白と黒の翼を背に、翼から落ちる羽根をまき散らしながらけたたましい笑いを上げる。対するリカルドは半ばで折れた刀を手に、大地を埋め尽くすような影を操り決死の表情を浮かべる。
それはまさしく神話を描いた絵画のようだ。魔神は世界を制する神そのもので、リカルドは神殺しに挑む英雄だ。
「ヒハッ!」
しかしただ一点。神話の英雄足りえないものがある。
「全部を代償に支払っちゃえよ!」
神に挑むリカルドは、まるでそこにいないかのように存在感がなかった。
*
業を使う度に、自分の中から大事なものが消えていく。リカルドは全身全霊をもって戦いながらも、欠落が増していくのを感じていた。
影を操るリカルドの代償。それは彼自身の存在感だ。リカルドが力を使う度に、強者が発する威圧感や人としての存在感が失われていく。一見すると力の代償としては軽いように思える。
だがしかし考えてみてほしい。この代償は確かに初期段階なら軽微で、生活を送る上で何ら困ることはない。精々近寄っても気づかれない程度。不意打ちをするのに適しているくらいだ。
問題はこの代償を支払い過ぎた時。存在感を失うという代償は牙を剥く。
リカルドは覚えている。遠くに見つけた友人に何度声をかけても返事を返してくれなかったことを。目の前を横切ったにもかかわらず自分の存在に気づかなかった両親のことを。兄妹の中からうっかり自分の名前が抜け落ちてしまっていたことを。
*
「かあっ!」
リカルドは天を舞う魔神に影を伸ばす。その影は刃の形をしていて、それゆえに『前衛指揮官』の能力が発揮される。薄い光を発する影は、自らの光でその影を色濃くして魔神を穿とうと空間を飛び交う。
「あはっ」
けれど当たらない。リカルドがいくら影を伸ばせども魔神は空を自由に駆けて影をかわし、翼を伸ばして影を払う。
「くそがっ!」
リカルドは伸ばした影を一点に集める。集まった影はリカルドの頭上で絡み合い、溶けあいながら一つの巨大な腕に転じる。
「これなら!」
リカルドは影で形作られた手を勢いよく打ち上げた。直径5メルトほどもある手はズゾゾと、空を動き回る魔神のもとへ一直線に向かう。
「くふ」
手が魔神を掴む直前、魔神は軽やかに空を舞って手の範囲から逃れる。これまでならそれで回避できた。だが今は違う。
「まだだ!」
魔神を掴み損ねた影の手は、突如数十の小さな手に分離した。それらの手が魔神を包み込むように覆いかぶさる。魔神の目には真っ黒い手が視界を覆おうとしているように見える。
「ひひっ」
相手が只人ならば絶体絶命。詰みだ。しかし相手は魔神。ただものではない。
瞬間的に魔神の翼が消失する。代わりに現出したのは二振りの巨大な剣。魔神は双剣を縦横無尽に振るい、影の手を粉微塵になるまで斬り払った。影が空中に舞い、塵へと変わっていく。
「くそ…」
「甘いなぁ。これじゃ僕は…っと」
嘲りを浮かべて語っていた魔神はバッとその場を飛び退く。同時に魔神のいたところに影の刃が生成された。
「ちっ」
「危ない危ない…。油断も隙も、ないなぁ!」
後少しで心臓を貫かれるところだったというのに、魔神の顔に浮かんでいるのは相も変わらず愉悦と嘲笑。空中をその両の足で踏みしめて、魔神はリカルドに肉薄する。
両者の距離が一瞬にしてゼロになる。それはつまり魔神の双剣がリカルドを切れる間合いにあり、リカルドの影が全て魔神を狙える範囲にあるということ。
リカルドの、わずかな光を帯びた影が魔神を埋め尽くす。同時に影は魔神に切り刻まれて霧散した。霧散した影はその大半が消えてなくなったが、一部分は寄り集まり再び形を為して魔神を狙う。魔神はその刃を余裕を持って双剣で砕いた。
「しっ!」
「ひひ」
振るわれる双剣の動きは剣の達人と何ら遜色ない。否、現存する剣士と比べても上位に立つほどの動きだろう。しかしその動きの中にリカルドはわずかな隙を見た。
そこにねじ込むように折れた刀を突き出す。
「おぐっ」
突き出された刀は魔神の肩を貫いた。魔神は嘲笑を浮かべつつも、苦痛に顔をゆがめる。
魔神との戦いの中で初めてリカルドの攻撃が入った。しかしそのことに喜びはない。
(今、私の存在は…)
「ひひひっ」
後ろに後退することで刀から逃れた魔神は、人ごみから誰かを探すようにすっと目を細めた。
*
存在感を失う。その第一段階は相手に気づかれにくくなるだけ。けれどそれが過ぎれば、リカルドは誰にも認識されなくなってしまう。
話しかけても気づかれない。目の前にいても見つからない。忘れ去られてしまうわけではない。しかし誰もがリカルドのことを失念してしまう。
そのあり方は奇しくも、代償を恐れるリスィの末路と似ていた。
存在感の希薄化。リカルドがその結末に気がついたのはまだ軽い段階のことだ。精々遠くから話しかけても聞こえない程度。精々目の前にいても気づかれない程度。精々兄妹の中から自分の存在が抜け落ちてしまう程度。
その程度で済んで良かった。リカルドは心の底からそう思った。まだ引き返せる段階だ。リカルドは「夢」を一つ捨てることになったが、かろうじて引き返すことができた。
*
「今のは惜しかったねぇ。もし君が『前衛指揮官』じゃなくて『剣士』…いや君の才能なら『剣聖』か『剣神』までいけたかも。そのクラスについてたら僕を殺せてたかもね」
「誰のせいで!」
下がった魔神を追い詰めるためにリカルドは一歩踏みこんで刀を薙ぐ。だがその一閃はたやすく魔神の剣に防がれる。
「そりゃ!」
リカルドを馬鹿にするような、気の抜けた掛け声とともに繰り出されるのは、才ある者が何十年と修練を重ねてようやくたどり着ける領域の一撃。
その一撃をリカルドは影でからめとって防ぐ。
「うん。やっぱり君強くなってる。代償を払ったおかげかな?善神に感謝しないとね」
「貴様が!」
事実、リカルドの技量は魔神と戦い始めた時と比べて、比較できないほど向上していた。けれどこれは死線を潜り抜けたからだけではない。
リカルドのコール『隠者』の力だ。他者から認識されていないほど、世界から遠ざかっているほどに保持者の技量を増すコール。作為を疑うほどに、リカルドの業の代償とコールの力は噛み合っていた。
影の業を使い、その代償に自らの存在感を支払うことで『隠者』のコールで力は底上げされる。そしてその底上げされた力でまた影の技を使う。その循環の果て、リカルドの刃は魔神に届きうるものにまで昇華された。
しかし。
「この代償のせいで!私は私の夢を諦めた!」
血を吐き出すようにリカルドは己の想いを吐き出す。吐き出しながら刀を振るう。
「私は『剣士』になりたかった!『剣士』となり!『剣聖』となり!『剣神』に至るのが夢だった!」
「うんうん。よく知ってるよ」
影の刃と刀の刃。その一つ一つが煌めき、力強い輝きを放っている。
「今の君は『剣士』未満の『前衛指揮官』にして『剣聖』ほどの出力を発揮しているね。いやはや、素晴らしいな。憧れちゃうね」
「黙れぇ!!!」
避けきれなかった斬撃がいくつも魔神の体に触れ、赤い傷跡を作る。魔神も双剣を振るうが、その双剣以上にリカルドの方が速く、強い。
ガゴン、というすさまじい音と共に魔神の剣とリカルドの刀が衝突する。すでに周囲には何もなく、まっさらな荒野。激しい衝撃破は大地を砕き、遠くの木々を薙ぎ倒す。
ピキリと、魔神の剣にひびが入った。
「あああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「ひゃはっ!これはまた…」
魔神の顔に驚きの表情が浮かぶ。壊れかけの双剣が消え、背に広がる翼が展開される。モノクロの翼が、神速を伴って突き出される刀を防ごうと動く。魔神の体は動きが止まり、刀がそのままいけば魔神の体を貫けるはずだった。
しかし刀が魔神を貫くよりも、魔神の翼が身を防ぐ方が速い。そのことがリスィにはよく分かった。
極度の集中で、動きがスローモーションに見える。リスィはこれまでリカルドと魔神の戦いをただ見ていることしかできなかった。しかし実はそれは使う。
『業を使え。リスィ』
老人の声が届く。
『今使えば魔神を殺せる』
タラリと汗が流れる。
『やれ。リスィ』
(僕は、俺は…)
リスィは内にある感覚を意識する。それはリスィが生まれた時からあって、あの日。5年前に開花した力。リスィの背負う“業”が生み出した一つの業。
(俺は)
リスィは業に手を伸ばす。それはたやすく掴み取ることができて、久しぶりと言うかのように、ブルリと震える。全ては幻の感覚。しかし確かに存在する異形の力。
(僕は)
リスィはその力を魔神へ向ける。剣を取り、振りかぶった。距離は関係ない。後は振り下ろすだけ。たったそれだけで魔神は何かを忘れる。一瞬の忘却でもそれは確かな隙。それで魔神を殺せるならば。
誰だ。お前。
お前なんか知らない。
「あ…」
冷たい、冷たい声が頭をよぎった。持ったはずの剣を取り落とす。剣は不満を言いながら霧散する。もう一度剣を拾って振りかぶることはもうできない。
「残念だったね」
魔神のその言葉は果たしてリカルドに向けられたものだったのか、あるいはリスィへだったのか。分かることは一つ。
「っつ…ここ、まで、か」
リカルドの刀は届かず、魔神の翼は刀を受け止めるとともに反撃に出ていた。リカルドの全身に黒々とした翼が射し込まれている。
ゆっくりとリカルドの体が崩れ落ちていく。リカルドから生まれていた漆黒の影はもうない。魔神の嘲笑。リスィの体から汗が零れ落ちる。老人のしわがれた落胆のため息。闇に閉ざされる視界。魔神の笑み。力を失うリカルド。
倒れる瞬間。リカルドは何かを呟いた。
音もなく、リカルドの体は倒れた。その倒れた瞬間の姿を、リスィも、魔神ですらも認識することはできなかった。
暗転。リスィの意識は闇に包まれる。




