第28話 歳の差夫婦
馨たちが行きつけにしている食堂兼酒場は、フェルンハイムの裏通りにひっそりと店を構えていた。
店主の名はバルド。三十代前半の、恰幅のいい男だった。妻の名はリーゼ。まだ十代の後半といったところの、素朴で愛らしい女性だった。年の離れた夫婦だったが、店を切り盛りする様子には、確かな連携が見て取れた。
オープンしたばかりだというが、客足は悪くなかった。
「ここの飯、やっぱり美味いな」
馨が満足げに呟くと、優花も頷いた。
「味は本当にいいのよね。だから通ってるんだけど」
「客層がねえ」
不満のある優花に、陽菜も同調する。
味自慢の店。もっとも、店に集まる客の全てが、味目当てというわけではなかった。カウンター越しに妻へ熱っぽい視線を送る酔客は、決して少なくなかった。
優花と陽菜はその視線が不快だった。
男の馨はそうでもなかった。可愛い、綺麗、美人、女性の外観を褒める言葉は多々あるが、そうした褒められる外観の女性に目を奪われる、見たいと思う欲求は普通だという気持ちがあった。
向ける側と向けられる側。その差が感じ方の差を生んでいた。
ただ、最初こそ不快じゃないと言った馨も、女性二人に反論されると、不快だよねと同調するようになる。反論するだけ無駄だとわからされた結果だ。
そんな、妻目当ての客たちも、最初は、他愛のない軽口程度だった。だが、日を追うごとに、その言動は徐々にエスカレートしていった。
「なあ、今度飯とか、二人で食いに行かねえか?」
ある夜、常連の一人が、妻の手を強引に掴もうとした。
「――お前、いい加減にしろ」
バルドが、低い声で割って入る。それでも聞き分けない客に、ついに堪忍袋の緒が切れたらしい。
「もう二度と、うちの敷居をまたぐな!」
その一喝で、客は店から叩き出された。以来、店の出入り禁止札に、その客の名が加わった。
既に数名が出入り禁止となっている。そこに新たな仲間が加わった瞬間だった。
馨たちは、そのやり取りを、ちょうど食事中に目撃していた。
「大変だな、あの店主も」
「妻を守るのも、楽じゃないってことね。美人な奥さんをもらうと苦労するわね」
優花が馨に視線を送る。その視線に陽菜が反応するが、馨は全く気付かない。
刹那の火花が散るも、馨がバルドを見ているうちに、消えてなくなった。
「さめる前に食べちゃおう」
馨は騒動が収まったのを確認して、皿に目をやった。
鈍感ここに極まれりである。
*
それから数日後のことだった。
「冒険者と見込んで、折り入って、頼みがあるんです」
閉店間際の店で、バルドが神妙な顔で切り出した。
「最近、女房が……買い出しに出る時間が、やけに長くて。何か、隠しているんじゃないかと」
言葉の端々に、隠しきれない不安が滲んでいた。
「奥さんの、素行調査をしてほしいと?」
馨が問うと、バルドは気まずそうに頷いた。
「ギルドを通してくださいね」
優花がすかさず釘を刺した。
「私的に頼まれても、後々厄介なことになりかねないので」
「あ、ああ、もちろんだ」
「依頼料は、指名料込みでも安くしていただいて構いません。その代わり――」
優花は、悪戯っぽく笑った。
「その分、これからもお店で、色々おまけしてくださいね」
「分かった、分かった。約束するよ」
こうして、正式な調査依頼として、話がまとまった。
*
翌日、リーゼが買い出しに出る後を、馨たちはそっと尾けた。
市場を巡り、食材を買い揃えていく妻の足取りに、不審な様子はなかった。だが、市場を抜けた先で、彼女はふと、ある建物の前で足を止めた。
――ミレーユ神殿だった。
「お祈り、か?」
馨が小声で呟く。優花は、少し離れた場所から、じっと様子を窺っていた。
妻は、祭壇の前で静かに手を合わせている。その口の動きから、切れ切れに言葉が読み取れた。
(――どうか、早く子宝に恵まれますように)
「なるほどね」
優花が、小さく息を吐いた。
「取り越し苦労ね。不貞なんてなくてよかったわ」
「笑顔で送り出してくれた、ロッテさんはがっかりしそうですけどね」
「いやあ、あの人を喜ばせるのが目的じゃないからな」
他人事とはいえ、多少なりとも縁のある相手。
何事も無く、ホッとする三人であった。
*
「――子作りの祈願、ですか」
報告を受けたバルドは、しばらく呆然とした後、安堵の表情を浮かべた。
「そう、だったのか……。てっきり、俺は……」
「疑いすぎですよ」
馨が、苦笑しながら言った。
「奥さん、ちゃんとあなたのことを想ってましたよ」
「ありがとう、本当に、ありがとう……」
バルドは、何度も頭を下げた。約束通り、その日の食事には、たっぷりとおまけがついた。
*
それから数日後、馨たちが再びその店を訪れた時だった。
「今日も一品サービスでもしてくれるかな」
優花が上機嫌にそう言った、その矢先。
店の扉が、乱暴に開け放たれた。
「ねえ!いい加減、はっきりさせてよ!」
見知らぬ女が、腹を大きく膨らませた様子で、店内に踏み込んできた。
「あんたの子供なんだから!責任取ってよ!」
「な――」
バルドの顔が、蒼白になった。
「お、お前、なんで、ここに……」
「ここでうやむやにするつもりだったんでしょ!でも、そうはいかないから!」
女の叫びに、店中の視線が集まる。リーゼが、震える声で問いかけた。
「――あなた、この人、誰?」
「い、いや、これは……」
「答えて!」
修羅場が、瞬く間に店内を包み込んだ。
「――ああ、これ」
陽菜が、少し呆れたようにぽつりと呟いた。
「自分がしてたから、奥さんも何かしてるはずだって、疑心暗鬼になったのね」
その独白には、どこか苦い自嘲が滲んでいた。
バルド夫婦とは関係ないところで、鼓動が早くなる馨。
「私を裏切ってたくせに、よくもそんな!!」
リーゼが金切り声でバルドを詰る。女も負けじと言い返す。二人の女の怒声が、店内に響き渡る。
「――うるさい、うるさい、うるさい!!」
追い詰められたバルドが、震える手で、調理台の包丁を掴み取った。
「危ない――!」
馨が、素早く踏み込み、バルドの腕を打ち払う。包丁が、乾いた音を立てて床に転がった。そのまま、暴れるバルドの体を、後ろから確実に押さえ込んだ。
「――離せ!離せえ!」
喚き続けるバルドを、馨がどうにか取り押さえている間、優花は、その一部始終を眺めながら、小さくため息をついた。
「こんなことになるなら、依頼料、もっと高くしておけばよかったわね」
優花は、崩れ落ちていく店の空気を見渡しながら、皮肉げに呟いた。
「このお店も……もう終わりね」
賑わっていたはずの食堂は、その日を境に、静かに客足を失っていった。リーゼは離婚して店からいなくなった。浮気相手の女、フィオナというらしいが、彼女も愛想をつかしてしまい、リーゼの代わりになることはなかった。
そして、馨たちも、二度とその店を訪れることはなかった。
数週間後、店はひっそりとたたまれたのだった。




