第20話 壁の穴
「――もう、少しは遠慮しなさいよね」
隣の部屋から漏れ聞こえる気配に、陽菜は一人、布団の中でぶつくさと文句を垂れていた。
ここはいつもの宿。隣室は馨と優花である。決して頑丈ではないつくりの宿は、隣室の振動を陽菜の部屋に伝えていた。それに、壁も薄い。
分かってはいる。聞かないようにすればいいだけだ。だが、意識すればするほど、気になって仕方がない。
(――ん?)
苛立ち紛れに壁を睨んでいた陽菜は、ふと、壁の一部に小さな穴が空いていることに気がついた。古い宿にありがちな、木材の節目が抜け落ちたような穴だった。
(まさか、ね)
良くないと分かっていながら、陽菜の体は、ふらふらとその穴の方へと引き寄せられていった。
他人の行為を見るというのは実に興奮するものである。窃視障害とまではいかないまでも、覗いてみたいという欲求は陽菜も持っている。
心の中の天使と悪魔が戦い、結局は悪魔が勝利した。
そっと、片目を近づける。
――そこにいたのは、一糸まとわぬ優花だった。だが、いつもの姿とは違った。人間の脚があるはずの場所に、鱗に覆われた、蛇のような下半身が横たわっていたのだ。
「――きゃっ」
思わず、小さな悲鳴が漏れた。
隣室の空気が、一瞬で凍りついたのが分かった。
「――誰?」
優花の声が、鋭く響く。陽菜は、慌てて壁から飛び退いた。だが、もう遅かった。
*
「――座って」
招き入れられた部屋で、優花が静かにそう告げた。人間の脚に戻った優花と、気まずそうな馨の姿があった。
流石に二人とも服は着ている。
「馨くん、少し外してくれる? 陽菜の部屋で待ってて」
「――分かった」
馨は、何も言わずに部屋を出ていった。二人きりになった部屋に、しばらく沈黙が流れる。
「――見たのね」
優花が、静かに切り出した。
陽菜は、小さく頷いた。
「私、ラミアなの」
「あのキャラメイクで選択したんだ……」
「――そう」
優花は、少し目を伏せた。
「馨くんを守りたくて、この種族を選んだの。迫害される。人からは化け物扱いされる。それでも、好きな人を守れるなら――そう思って、デメリットを受け入れた」
その声には、覚悟の重みがあった。
「――正直に言うわね」
優花は、まっすぐに陽菜を見た。
「転移した日、ギルドで馨が傷ついてるのを見た時――私、嬉しかったの」
「え?」
何を言っているのという陽菜の顔。それを見た優花は呆れと怒りの感情が同時に沸いた。
「わからなかったの?」
「わからなかった。いきなり知らない世界に転移させられて、誰かの事を見ている余裕なんてなかったし……」
その言い訳が、余計に優花を苛立たせたが、大きなため息ひとつで、怒りを爆発させるのをこらえた。
「陽菜が佐藤くんと付き合ってるって知って、馨が絶望してた。その顔を見て、喜んでしまった自分がいた。最低よね」
優花は、自嘲するように笑った。
「馨、そんなことで絶望していたの?」
「貴女にとってはそんなことかもしれないけど、好きな人が他の男と付き合っていたら絶望するでしょ」
「だって、馨は一度も告白なんてしてくれてない」
「言えなかったんでしょうね。彼、奥手だもの。でも、そこが可愛いんだけど」
不要な一言を付け加え、ささやかな仕返しをする優花。
「ずっと、幼馴染みには勝てないと思ってたから。だから、学校では見ているだけだった。でも、陽菜がいなくなったなら、私が馨くんを独占できる。ずっと一緒にいてあげられるって、そう思ったの。まあ、途中から陽菜が佐藤くんと付き合っているのを知って、チャンスが巡ってきたと嬉しくなったわ。そして、転移。私にとっては幸運だった」
「……」
「でも――蓋を開けたら、馨くんはダークプリーストだった。私が守るまでもなく、彼はとっくに、自分の力で立ってた」
優花の声に、微かな苦さが混じる。
「そこに、今度は陽菜が戻ってきた」
その一言に、陽菜は、居たたまれない気持ちで俯いた。
「私、邪魔?」
陽菜のその質問に、優花は意地悪く笑う。
「馨くんが決めたことだから、いいの」
優花はそれだけ言うと、話を変えるように続けた。
「さっきの――『仲良し』のこと。あれは、搾精の衝動が昼間に出ないようにするための、対処なの。ラミアのデメリットで、搾精と吸血の衝動があるのよ。どっちかを満たせば、衝動はおさまるんだけどね」
「……そういう、こと」
「毎晩やっておけば、日中の活動中に暴走することはない。安全のための、必要なことなの」
陽菜は、少し考えてから、おずおずと尋ねた。
「――子供が、できたりは?」
「ラミアの繁殖と、搾精は別物よ」
優花はあっさりと切り捨てた。
「そこは、心配しなくていいわ」
部屋に、再び静寂が落ちる。
「――ねえ、陽菜」
優花が、静かに、しかし逃げ場を与えない声で問いかけた。
「あなたは、馨のこと、どう思ってるの」
陽菜は、しばらく言葉を探すように黙り込んだ。
「――ずっと、家族みたいなものだと思ってた」
絞り出すような声だった。
「幼馴染みで、いつも傍にいて。だから、恋愛対象になるなんて、考えたこともなかった。大翔くんと付き合ってた時も……馨とは、今まで通りの関係が続けられるって、普通に思ってた」
少しの間。
そして、優花が促す。
「――それが?」
「こっちに来て、大翔くんの本性を見て。もう無理って思ったとき、私、馨なら受け入れてくれるって、そう思った」
その言葉に、優花の目が、すっと険しくなった。
「――身勝手ね」
抑えた声だったが、明確な怒りが滲んでいた。
「初日、ギルドで馨くんを見た時。あなたは、何も感じなかったのでしょ。彼が、どんな顔をしてたか」
陽菜は答えられなかった。
あの日の馨の顔。今になって思い返せば、あれは、明らかに傷ついた顔だった。だが、あの瞬間の自分は、大翔との関係に浮かれて、それに気づく余裕すらなかった。
「――ごめんなさい」
陽菜の声が、震えた。
「今……馨が優花に取られて、初めて分かった。あの時、馨がどんな気持ちだったか」
優花は、しばらく黙って陽菜を見つめていた。
「――馨には、手を出さないで」
「それは無理ね。もう恋人だから」
「でも、搾精は生理現象でしょ。食事のようなものじゃ?」
「それなら吸血でもいいの。でも、あの時の馨を立ち直らせるには、童貞を捨てるのが一番だった」
「それってどういう意味?」
陽菜は意味が分からなかった。こういう時こそ、知識で人を殴りたくなる、優花の悪い癖が出る。
「三島由紀夫の『不道徳教育講座』は読んだことある?」
「ない……」
「そう。かいつまんで話すと、童貞は処女より繊細。童貞を捨てることで女性への幻想を捨てられるってこと。つまり、好きだった幼馴染が他の男と付き合っていた衝撃を乗り越えるには、童貞を捨てる必要があったの」
「そんな……」
身勝手な理論と思いつつも、陽菜はそれ以上反論出来なかった。
「まあ、私がラミアになった理由はいいわ。誰にも言わないでね」
「わかった……」
それだけ言うと、優花は静かに立ち上がった。会話は、それで終わりだった。
*
「陽菜、大丈夫か?」
部屋に呼ばれた馨は、涙目の陽菜を見て、心配そうに顔を覗き込んだ。
「――う、うん」
陽菜は、慌てて涙を拭った。
「ちょっと、色々……情報が多すぎて、混乱しちゃっただけ」
それ以上は、何も言わなかった。馨は、少し腑に落ちない様子だったが、それ以上は追及しなかった。
陽菜は、俯いたまま、優花の言葉を、胸の奥で何度も繰り返していた。




