第18話 食堂の裏で
「おはようございます」
橋本明日香は、いつも通りの時間に食堂の裏口をくぐった。フェルンハイムに来てから始めた、この店での日雇い仕事にも、ようやく慣れてきたところだった。
エプロンを身に着け、厨房に顔を出そうとしたところで、明日香はふと足を止めた。
店の奥、事務室代わりの小部屋から、押し殺した声が漏れ聞こえてくる。
「――だから、待ってくれと言ってるんだ」
店主の声だった。いつもの朗らかさとは似ても似つかない、追い詰められたような響き。
「待てと言われて、はいそうですかとはいかねえんですよ、旦那」
もう一人の声は、明日香の知らない男のものだった。ねっとりとした、耳障りな口調。
この男、実は盗賊ギルドが運営する賭場の付け馬だった。
「賭場の借金、利子だけで首が回らなくなってきてるでしょう。このままだと、店を差し押さえることになりますが」
「そんな……もう少し、もう少しだけ待ってくれれば」
明日香は、扉の隙間からそっと中を覗き込んだ。店主が、顔面蒼白で頭を下げている。対する男は、にやにやと笑いながら、店主を見下ろしていた。
(何、これ……)
息を潜めていると、男の視線が、ふと厨房の方――ちょうど明日香が立っている方向へと向いた。
「――そういえば」
男は、値踏みするような目で、こちらを一瞥した。
「あそこの日雇いの子、なかなか可愛いじゃないですか」
「……は?」
「旦那。ちょうどいい話があるんですよ」
男は、下卑た笑みを浮かべながら、声を潜めた。
「あの子を、うちの方で"面倒見てやる"ってのはどうです?そうすれば、借金、棒引きにしてもいいって話、上から聞いてるんですがね」
「棒引き……本当か!!」
店主の目に、一瞬、縋るような光が浮かんだ。だが、すぐに我に返ったように首を振る。
「い、いや、それは……」
「別に、今すぐ返事しろとは言いませんよ」
男は、余裕たっぷりに肩をすくめた。
「ただ、考えといてください。旦那が首を縦に振ってくれれば、こっちも無理な取り立てはしなくて済む。お互い、楽になれる話だと思いますがね」
男はそう言い残すと、笑いながら店を出ていった。
残された店主は、しばらくその場に立ち尽くしたまま、動かなかった。
扉の隙間から、その様子を見ていた明日香は、まだ何が起きているのか、正確には理解できていなかった。
ただ、店主が自分を見る目に、これまでとは違う、後ろめたいような色が滲んでいることにだけは、なんとなく気づいていた。
*
異変が起きたのは、その日の昼時だった。
店が最も混み合う時間帯、明日香は両手に料理を乗せた盆を運んでいた。
――と、その足元に、誰かの足が、すっと差し出された。
「あっ――」
躱す間もなく、明日香の体は大きく前のめりに傾いだ。盆の上の料理が宙を舞い、そのまま、近くの席に座っていた一人の客の上へと降り注ぐ。
「――は? な、なんだこれは!?」
声を荒げたのは、身なりの良い服を着た男だった。スープと肉汁が、丁寧に仕立てられたはずの上着に、無残に染み込んでいく。
「も、申し訳ございません……!」
明日香は、真っ青になって頭を下げた。だが、足を引っかけたはずの人物――先ほど事務室にいた、あの付け馬の男は、素知らぬ顔でそそくさと店の奥へと姿を消していた。
「これ、特注品なんですよ。分かってるんですか!」
男は、わざとらしいほど大げさに、被害を訴え続けた。店主が慌てて駆けつけ、平謝りに謝罪する。
「も、申し訳ございません、すぐに弁償させていただきますので……!」
「弁償? 当然でしょうね。それと、その制服も、こちらの落ち度で汚したわけですから、店の方で弁償してもらわないと」
「この娘がお支払いいたします」
思いがけない一言に、明日香は耳を疑った。
「え……」
「契約書、読んでないのか?お客様の服などを汚したら、弁償するっていう項目があったはずだが。それに、店の制服も。貸与しているのだから、当然弁償だ」
その通りだった。契約を交わした時、確かにそんな条項があった。だが、それは自分の不注意で汚した場合の話だと、明日香は思い込んでいた。
「わ、私、わざとじゃ……足を、引っかけられて」
「言い訳は結構だ。とにかく、客の服と、制服と――両方の弁償、してもらうからな」
「じゃあ、私の服の代金はこちらで」
男が突きつけてきた金額は、明日香の日雇いの稼ぎでは、到底追いつかないものだった。
店主は、何も言えないまま、ただ俯いていた。助けようとする素振りすら、見せなかった。
「そんな!無理です!」
明日香は震える足でエプロンを外すと、そのまま店を飛び出した。
*
涙で前がよく見えないまま、明日香は当てもなく走り続けた。
「――きゃっ」
通りの角で、誰かに勢いよくぶつかる。
「ご、ごめんなさ――」
「明日香ちゃん?」
顔を上げると、そこにいたのは陽菜だった。ちょうど、依頼の帰り道で、馨たちも一緒だった。
「どうしたの、そんなに泣いて」
陽菜の問いに、明日香は堰を切ったように、これまでの経緯を話し始めた。付け馬の存在、店主の借金、そして、法外な弁償金のことを。
話を聞き終えた陽菜の表情が、次第に険しくなっていった。
「――それ、絶対おかしい」
陽菜は、明日香の手をしっかりと握った。
「一緒に、お店に戻ろう」
「でも……」
「まかせて。私、【交渉】のスキルを持っているの。相手を論破するのは得意だから。それに、心強い用心棒もいるしね」
そう言って、馨と優花を見た。
見られた二人は首肯する。
こうして、明日香は説得され、店に戻ることになった。
*
店に戻った陽菜は、まっすぐに店主のもとへと向かった。
その場には、店主、付け馬、被害者の客がいた。店主が謝罪している様子はなく、付け馬と客の距離は近かった。
陽菜が明日香から聞いていたのとは、少し違った雰囲気である。
「あれ?私に足をかけた客が一緒に?」
明日香の疑問が陽菜の耳に届く。疑念が確信に近づいた。
陽菜はさながら舞台女優のように、自分の胸に左手を当て、右手は手のひらを上にして、前に突き出した。
「弁償金、私たちが肩代わりします」
その申し出に、店主は驚いたように顔を上げた。だが、喜びよりも先に、動揺の色が浮かんだ。
「い、いや……それは、その……本人の誠意、というものも、必要でしょうし……」
「誠意?」
陽菜は、店主の言葉を静かに繰り返すと、視線を、まだ居座っていたあの"被害者"の男へと向けた。
「――それ、本当ですか?お金さえ払えば、それで解決する話ではないと」
客は一瞬、言葉に詰まった。反射的に、店主の方を睨みつける。
その視線のやり取りだけで、陽菜には十分だった。
(――繋がってる)
「それに」
陽菜は、努めて冷静な声で続けた。
「これは明日香から冒険者ギルドを通した依頼として、正式に処理させてもらいます。もし不足があれば、最終的にはギルドが立て替えることになりますから」
その一言に、付け馬の顔色が変わった。
「――ふざけるな」
男が低く唸るように呟いた。
「ここまで、してやったのによ……!」
付け馬の手が、懐に伸びる。
鈍い光を放つナイフが、抜き放たれた。それに呼応するように、"被害者"を装っていたもう一人の男も、同じように刃を構える。
「陽菜、下がって!」
馨が素早く陽菜の前に立ちはだかった。優花も既に動いていた。
迫る優花にナイフで攻撃する付け馬。
だが、それも一瞬のことだった。
【ゴッドフィスト】
馨の魔法が、迫ってきた付け馬を一撃であっさりと倒した。
さらに、優花の拳が、もう一人の男の腕を打ち、ナイフを弾き飛ばした。
二人とも、盗賊レベル3程度の実力だった。馨たちの相手には、到底なりえなかった。
「――先に刃物を抜いたのは、そっちですよね」
優花が地面に崩れ落ちた二人を見下ろしながら、冷静に言い放った。
*
衛兵に突き出された二人からは、この一件だけでなく、他にもいくつもの余罪が見つかった。恐喝、詐欺まがいの取り立て、盗品の売買――積み重なった罪状に、フェルンハイムから相応の報奨金が支払われることになった。
店主は、震えながら何度も頭を下げていたが、違法な賭場に出入りしていたことが発覚し、さらに、男らと共謀して、明日香を娼館に売り払おうとしたことで、罪を償うこととなった。
全てが明らかになり、その報告のため、馨たちは明日香のもとを訪れていた。
「――ありがとう、陽菜。それに、皆さんも」
「気にしないで」
陽菜は小さく笑った。
「明日香ちゃんが、無事でよかった」
その言葉には、これまでの陽菜からは感じられなかった、確かな芯の強さが滲んでいた。
「また、仕事先探さないとなあ。折角慣れたのに。陽菜は凄いね。あんなことがあったのに、冒険者を続けているんだから」
あんなこととは、スライムの一件である。
今回のようなことがあっても、明日香は日雇いをやめて、冒険者に戻るつもりは無かった。
「支えてくれる人がいるから」
「羨ましい限りね。あーあ、私にもいい人現れないかなあ」
二人のそんな会話を聞きながら、死角から優花は馨の服を軽く引っ張ったのだった。




