第15話 赤い蜘蛛
フェルンハイムの城壁を、遠く丘の上から見下ろしながら、ヴェルミラは小さく息をついた。
ヴェルミラは盗賊ギルドに所属しているダークエルフの女だ。今は人間の外見をしているが。
そんな彼女には二つ名があった。『赤い蜘蛛』、この大陸に生息するクリムゾンアラクニード・サングイナリウスという全身が赤い毒蜘蛛で、その毒は人を死に至らしめるほどである。しかし、名前が長くて覚えにくいため、赤い蜘蛛で通っている。
「――思ったより、大きい街ね」
変身の魔法が使えるマジックアイテムのピアス。それで人間の姿を取った彼女は、旅の吟遊詩人然とした出で立ちで、その光景を眺めていた。ラウンヴェルト王国の要衝の一つ。盗賊ギルドの足掛かりを築くには、悪くない場所だった。
世界を裏から牛耳る、とまではいかないが、裏社会を管理する組織、盗賊ギルド。
当然ながら、フェルンハイムにもその支部は存在する。
しかし、ヴェルミラが上司から命じられたのは、単なる裏社会の支配ではなかった。
(まずは、下調べから)
ヴェルミラは、フェルンハイムの市街地へと足を向けた。門番の様子、街の警備の厚さ、冒険者ギルドの活気――一つ一つを、丁寧に見て回る。
彼女の頭にあったのは、数日前に立ち寄った、あの小さな村のことだった。
(あの村を足掛かりに、ゆっくりと)
村長も村人たちも、彼女のチャームにかかり、すっかり心を許していた。あとは、ゴブリンたちを使って少しずつ村の周辺を締め上げ、外部との連絡を絶ってしまえばいい。孤立した村を丸ごと支配下に置いてしまえば、フェルンハイムへの潜入拠点として、これほど都合のいい場所もない。
それに、ゴブリンは繁殖力が強い。村の女を苗床にして、ゴブリンを増やし続ければ、いずれは上位種も生まれて、それなりの戦力になる。
――はずだった。
ヴェルミラは周辺地域を確認するにあたり、配下のゴブリンたちに厳しく命じていた。村には近づきすぎるな、目立つ真似はするな、と。だが、けものじみた彼らの知能に、そこまでの自制を期待するのは、そもそも無理があったのかもしれない。
馨たちが村の依頼を請け、ヴェルミラが周辺の確認をしているうちに、討伐されてしまったのである。
そんな大規模な群れを連れてくるのは無理であり、少数の手勢であったため、立て直すことは出来ない。
(まあ、いいわ。少し計画を変更するだけよ)
*
ヴェルミラがフェルンハイムに到着する少し前のことである。
フェルンハイムでの下調べを一通り終えたヴェルミラは、数日ぶりに、あの村への帰路についた。
だが、村に足を踏み入れた瞬間、彼女は違和感に気づいた。
村人たちの表情が、以前とは違う。怯えの色が消え、どこか安堵したような空気が漂っていた。
「あら、また来てくれたのかい、吟遊詩人さん」
声をかけてきた女に、ヴェルミラは笑顔を作りながら尋ねた。
「ええ、また少し立ち寄らせていただこうかと。何か変わったことはありましたか?」
「ゴブリンが出たんだよ」
「まあ、ゴブリンが」
驚いたふりをしつつも、あいつら見つかったのかと舌打ちする。
「それは心配ですね」
「ああ、それなら、もう心配いらないよ! 冒険者さんたちが、ゴブリンを退治してくれたからね」
その一言に、ヴェルミラの表情筋が、わずかに硬直した。
「――退治、ですか」
「そうそう。ゴブリンが三体はいたはずなんだけど、あっという間に片付けてくれてねえ。一体は、ずいぶん大きいのもいたらしいけど……なんでも、拳の一撃で仕留めちまったって話だよ」
拳の一撃。
その言葉に、ヴェルミラの中で、警戒の色が急速に濃くなった。ホブゴブリンを、素手の一撃で。並の冒険者にできる芸当ではない。
もっとも、知識のない村人が、村長からの又聞きした情報である。ゴッドフィストの魔法が、いつの間にか素手になっていたのだ。しかし、この世界では素手でホブゴブリンを倒す冒険者もいる。そのことから、本当だと思ってしまうヴェルミラだった。
(何者――)
名前も、姿も分からない。だが、少なくとも、片手間に相手取っていい存在ではないことだけは、はっきりと分かった。
「――それは、頼もしいですね」
ヴェルミラは、表面上は微笑みを崩さずに応じた。
「今日のところは、先を急ぎますので。また機会があれば」
「あら、もう行っちゃうのかい? 残念だねえ」
「ええ、また」
村人に別れを告げると、ヴェルミラは足早に村を後にした。
人目のない街道まで出ると、彼女は変身を解いた。人間の外見を脱ぎ捨て、闇のような紫紺の髪と、鋭く尖った耳が露わになる。
(急いで戻って、報告しないと)
誰が、いつ、その"冒険者"がこの村に来たのか。今はまだ分からない。だが、少なくとも、この街道の先――フェルンハイムに、何か厄介なものが潜んでいる可能性がある。
ヴェルミラは、夜の闇に紛れるように、足早にその場を後にした。
彼女の脳裏に、この時はまだ、名も知らぬその冒険者の顔は浮かんでいなかった。




