王立士官養成学校1
王都の一等地に聳え立つ、侯爵家の広大な屋敷。
天鵞絨のカーテン越しに差し込む朝日は柔らかく、焼き立ての白パンと香草入りのソーセージの匂いが、豪奢な天蓋付きベッドの鼻先をくすぐる。
スラムから高位貴族の養子として引き取られたルキウスに与えられた生活は、アレンが味わった泥と血の裏社会とも、エリアナが身を投じた陰湿な教会の権力闘争とも違う、一見すると圧倒的に恵まれた「光の道」だった。
凍える夜も、飢えに苦しむ朝も、ここにはない。周囲の使用人たちは彼を「若様」と呼び、うやうやしく頭を下げる。
だが、真新しい絹のシャツに袖を通すルキウスの瞳は、常に冷たく、そして飢えていた。
「素晴らしい。さすがは百人に一人とも言われる希少スキル『軍師』を持つ至宝だ。我が侯爵家の未来は盤石だな」
養父となった侯爵は、事あるごとにルキウスを夜会に連れ出し、自らの権力を誇示するためのトロフィーとして見せびらかした。
大人たちは口々にルキウスの才覚を褒めそやし、そのスキルを「無条件で戦局を覆す万能の力」だと持て囃した。彼らにとってルキウスは、魔法のように敵を打ち負かす都合の良い兵器に過ぎなかった。
しかし、ルキウス自身は、自分の身に宿った能力の本質と、そこに潜む『致命的な欠陥』を誰よりも早く、冷酷なまでに見抜いていた。
――スキルの正体は、「敵の次の一手を強制的に確定させる」というものだ。
侯爵家の書斎。チェス盤の前に一人座りながら、ルキウスは黒と白の駒を無機質に動かす。
例えば、敵が右から攻めてくるか、左から攻めてくるか迷っているとする。そこでスキルを発動すれば、敵は強制的に「右から攻める」ことを選択させられる。
つまり、敵がどう動くかを完全に読み切り、その動きに対する完璧な『罠』を右側に用意した上で発動させれば、絶対に勝利できる最強の力となる。
「……だが、逆を言えば」
ルキウスは白のナイトを手に取り、無防備な黒のキングの目の前へ叩きつけるように置いた。
もし、敵の戦術や心理を読めず、盤面の状況を把握しきれていない状態でスキルを使ってしまったらどうなるか。
対策もないまま敵の猛攻を『確定』させれば、それは「ただ敵の必殺の一撃を、自らの急所へ必中させてしまうだけ」の自殺行為になってしまう。
(僕自身の戦術理解と、極限状態での人間の心理を知らなければ、このスキルはただのガラクタだ。いや、ガラクタどころか、僕自身を殺す凶器になる)
大人たちが夢見るような、無条件で勝利をもたらす魔法などではない。
この能力を真に活かすには、ルキウス自身が誰よりも盤面を支配し、人間の感情、恐怖、絶望といった心理を完璧に計算できる『本物の軍師』にならなければならないのだ。
数日後。
執務室にルキウスを呼んだ侯爵は、満足げな笑みを浮かべて、金箔の押された分厚い封筒をテーブルに置いた。
「ルキウスよ。お前の『王国立学校』への推薦が決まった。あそこは次代の国家を担う貴族の子弟が集う場所だ。そこで華麗な人脈を築き、我が派閥を盤石なものにしてくれ」
王国立学校。
それは、貴族たちが優雅にお茶を飲みながら政治ごっこに興じる、煌びやかな温室だ。そこにいれば、泥に汚れることもなく、安全な場所から国を動かすエリートコースが約束されている。
ルキウスは静かに封筒を見つめた。脳裏に浮かんだのは、冷たいスラムの隙間風と、別れ際に見たアレンとエリアナの顔だった。
(あいつらは今頃、泥水をすすりながら生き残るために足掻いているはずだ。温室のぬるま湯に浸かっていて、運命を支配できるものか)
ルキウスは金箔の封筒を手に取ると、侯爵の目の前で、一切の感情を交えずにビリビリと真っ二つに引き裂いた。
「なっ……!? ルキウス、貴様、何をしているか分かっているのか!」
「お断りします、義父上。僕に茶会での政治的駆け引きを学ぶ気はありません」
血相を変えて立ち上がった侯爵を冷たく見据え、ルキウスは背筋を伸ばして宣言した。
「僕が志願するのは、王国軍の『軍士官養成学校』です」
「馬鹿なことを言うな! あそこは平民や没落貴族が虫ケラのようにしごかれる最前線の修練場だぞ! お前のような至宝が、泥と血にまみれる必要などどこにある!」
「泥と血の匂いを知らぬ者に、戦場は支配できません」
ルキウスの眼光は、十二歳の少年とは思えないほどの絶対的な氷の冷たさを帯びていた。その得体の知れない凄みに、歴戦の政治家であるはずの侯爵でさえ、言葉を失い息を呑んだ。
「人間の極限状態を知り、狂気と死の淵で人がどう動くのかを理解しなければ、僕のスキルは完成しない。……ご安心を、義父上。必ずや首席で卒業し、あなたに最高の権力をもたらす駒となって差し上げます」
それは、少年の姿をした怪物が、自ら地獄への扉を開け放った瞬間だった。
華やかな貴族社会の道を自ら蹴り、ルキウスは、王国軍の最前線指揮官を育成する地獄の修練場へと、その冷徹な歩みを進めていくのであった。
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