たとえ矛盾があったとしても
凍てつくような灰色の海。
王国連合軍がヨーロッパ大陸を奪還するために発動した史上最大の反攻作戦――『ノルマンド上陸作戦』の朝は、鉛色の空と、凄まじい硝煙の匂いと共に幕を開けた。
上陸用舟艇の分厚い鉄扉が倒れ込んだ瞬間、待ち構えていた要塞からの機銃掃射が、密集した兵士たちを容赦なく薙ぎ払っていく。
弾雨が海面を沸騰させ、冷たい波は瞬く間に赤黒い血の色に染まった。
叫び声、爆音、千切れた四肢。
狂人ハトラーの軍勢が築き上げた『大西洋の壁』を突破するため、何万という若者たちの命が、巨大な鉄の暴風によって文字通り、無慈悲に「すり潰されて」いく。
その血と泥と鉄が乱舞する阿鼻叫喚の最前線に、彼女はいた。
「止血帯を! モルヒネを打って、すぐに後方へ後送しなさい!」
安全な王都の宮殿を拒絶し、第一波の上陸部隊と共に地獄の浜辺へ降り立った光の頂点、聖王エリアナ。
純白だった彼女の法衣は、すでに泥と返り血でどす黒く汚れ果てていた。
砲弾が着弾し、大地が震えるたびに、野戦テントのキャンバス地が悲鳴のように揺れる。
次から次へと運び込まれてくる、内臓をこぼし、顔の半分を吹き飛ばされた兵士たち。
エリアナは震える彼らの手を握り、止血の処置を施しながら、耳元で必死に祈りの言葉を紡ぎ続けていた。
「大丈夫、神はあなたと共にあります。……光は、決してあなたを見捨てない」
彼女の慈愛に満ちた声と、施される適切な初期医療によって、兵士たちは薄れゆく意識の中で安堵の涙を流し、痛みに耐え抜いていった。
だが、野戦テントの奥へ進んだ時、エリアナの足がピタリと止まった。
そこには、銃弾に腹を撃ち抜かれ、死の淵を彷徨っている一人の少年兵が寝かされていた。
擦り切れた軍服の腕には、狂気の象徴である『ハーケンクロイツ』の腕章が巻かれている。敵兵だった。
「……あ、あぁ……」
うわ言を漏らすゲルマンの少年兵の胸元には、銀色に光る小さな十字架が握りしめられていた。
そして彼のひび割れた唇から紡ぎ出されていたのは、母国語のゲルマン語による、静かで、ひどく純粋な『神への祈り』であった。
『――天にまします、我らの父よ。どうか、我らをお救いください』
その言葉を聞いた瞬間、エリアナの心臓を、鋭い氷の刃が貫いた。
彼が祈っているのは、悪魔ではない。狂人ハトラーでもない。
エリアナが信じ、祈りを捧げているのと同じ、ただ一つの『神』だったのだ。
ほんの少し、生まれた国が違い、教義の解釈の角度が違っただけ。
彼らもまた、休日の礼拝堂でパンを分け合い、家族の無事を同じ神に祈っていた、ただの敬虔な信徒に過ぎない。
(……同じ神を信じているのなら、神の加護は、敵味方関係なく平等に与えられるべきではないの?)
圧倒的な自己矛盾が、エリアナの魂を激しく揺さぶった。
私は、王国兵に「神の御加護を」と祈りながら、その兵士がこのゲルマンの少年を殺すことを肯定している。
敵を殲滅し、彼らの国を滅ぼすための勝利を、同じ神に祈願している。
人を救うための『真の聖女』になったはずだった。だが、軍の最高責任者として戦場に立つ今の私は、神の愛を国境という刃で切り刻み、殺戮を正当化するための『偶像』に成り下がっているのではないか。
「マリア様……たすけ、て……」
少年兵の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
エリアナは弾かれたように少年の傍に跪き、その血まみれの手を両手で強く包み込んだ。
自国の兵士たちが訝しげな視線を向ける中、彼女はゲルマン語で、少年と同じ祈りを紡ぎ、必死に傷口に包帯を押し当てた。
「ええ、神はここにいます。……あなたも、救われるべき神の仔です」
だが、彼女の祈りと科学をもってしても、致命傷を負った少年の命が零れ落ちるのを止めることはできなかった。
少年は、自分を抱きしめる聖女のぬくもりに一瞬だけ安らかな笑みを浮かべ、そのまま静かに息を引き取った。
エリアナは、動かなくなった少年の冷たい手を握りしめたまま、声もなく泣いた。
この狂った戦争は、正義と正義の衝突などではない。
ルキウスが冷徹に盤面を動かし、アレンが裏から狂熱を煽るこの巨大な戦争というシステムは、神への祈りすらも利用し、ただ機械的に、容赦なく、美しい街の建物を砕き、豊かな土地を焼き払い、そして何よりも尊いはずの『人間』を、泥と一緒にすり潰していく。
ドォォォォン……ッ!!
再び、浜辺を揺るがす巨大な艦砲射撃の音が轟いた。
前線は少しずつ押し上がっている。
連合国軍は、何万もの死体の上に道を作り、ヨーロッパ大陸の内陸部へと血みどろの進撃を開始していた。
「聖王様! 次の負傷兵が来ます! こちらへ!」
「……ええ、今行くわ」
呼ばれる声に、エリアナは震える足に力を込め、泥濘む地面から立ち上がった。
神は沈黙している。この底なしの矛盾に対する答えは、天からは決して降ってこない。
ならば、この矛盾と罪を、すべて私の魂に刻み込もう。
敵も、味方も。
すべてを背負って地獄を歩き続けることこそが、泥水の中から這い上がった『真の聖王』の背負うべき十字架なのだから。
血の涙を心の奥底に封じ込め、エリアナは再び、人間の命がすり潰されていく最前線のテントの中へ、純白の法衣を泥に濡らしながら歩みを進めていった。
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